天国に近い空
12
松本幸介は夢を語ったがプライベートなことは殆ど述べていない。特に家庭のことについては皆無である。
松本幸介は青山学院大学在学中の二十二歳のときに父親を亡くし、卒業と同時に家業の金物屋「マツカネ」を継いでいる。二十五歳のときに学生時代より交際していた二歳年下の川島加代子と結婚した。加代子との間に航という男の子をもうけたが、航は六歳の誕生日を迎える前に交通事故で死んだ。交通事故といっても自宅の駐車場で起こった事故で、加代子の単純な操縦ミスだった。初期のオートマチック車のDとRを間違えた、実にばかばかしい事故だった。
航を亡くしてから、加代子は荒れて、毎夜のように飲み歩くようになり、酒場で出会った男と勝手に暮らし始める。相手は新宿のホストバーに勤める二十歳の男だった。松本幸介は妻の居所を捜し、家に帰るよう説得したが、彼女は戻ろうとはしなかった。松本幸介は思い悩んだあげく、加代子に慰謝料を払い、彼女との関係を断った。
航が生まれ、成長し、そして死んでいった一九八〇年代といえば、マツカネがビッグマツカネ社になり、東海の老舗のディスカウントショップチェーン・上島ライフ社を吸収してビッグライフ社となり個人経営の店から企業へと急成長していった時代だ。松本幸介も家庭を顧みずにビッグライフ社の店舗網拡大に意欲を燃やしていた。その最中に、最も愛している息子が死に、妻と別れ、家庭というものがいっぺんになくなってしまったのだ。
伝記作家の 桜井誠によると、松本幸介を空へ向かわせたのは航の死が大きく影響しているという。「つまり目標を失ったのです。自分の息子に後を継がせるという目標が。ビッグライフ社は一九九〇年代に入って東北や関西のホームアメニティーセンターを吸収合併し、更に加速をつけて店舗網を拡大していきましたが、松本幸介自身は惰性で動いていたように思えます。革命児とか異端児とか言われていたのは、八〇年代のことで、九〇年代の松本幸介はむしろ冷めていたというか丸くなってしまったというか、ビッグライフ社の全国制覇にはすでに興味がなくなっていたように思えます。松本幸介が頭の洞窟に籠るという行為を始めたのはこの頃で、その最中に、空を飛びたいという少年時代の夢を思い出したのでしょう」
木村春彦も月間「スカイボーイ」のインタビューでこう答えている。
「人間が空を飛ぶというやつに、松さんが意欲を燃やしたわけは、よく言われている鉄腕アトムという漫画の影響、これが一つ。それともう一つある。それは空が天国に近いからだ。松さんは夢を大事にしろ、私も夢を大事にしてここまでやって来たって若いやつによく言っていたが、経営者っていうやつはそんなに簡単に少年時代の夢だけでは動かないって。松さんの場合は、息子の死がかなり深いところで関わっていたんだな。松さんは息子のことが好きで好きでたまらなかったらしい。だけど、子供が好きっていうのと子供の面倒をみるっていうのは、まったく別のことだ。あの時分、松さんはビッグライフ社の仕事が忙しくて殆ど息子をかまってやれなかったようだ。息子と遊んだ記憶が全然ないっておれに言っていた。一緒にどこかへ行ったっていう記憶もな。息子が死んでからもっと遊んでやれば良かったときっと後悔したんだろうな。無念な気持ちで、空を見上げたこともあっただろう。朝焼けか夕焼けか青空かは知らんがな。その空に、子供の頃から抱いていた夢がだぶったんだろう。おれは何となくそんな気がするんだ」
木村はこのインタビューで別の秘密も打ち明けている。
「松さんから健一を譲ってくれって言われたときはどう答えていいものかまいったよ。少なくとも三度は言われているね。あいつがスカイスーツを発明した高校のときだろう、それと入社式のときだ。でも、最初に言われたときは面食らった。そのときはまだ松さんがどういう人か分らなかったからな。あれは確か、初めて健一を飛び袋で飛ばしているのを見せた日のことだ。松さんはおれたちを食事にご馳走してくれてね、中華を食ったのかな。そのとき、健一に実験に協力してくれてありがとうってなことを言っていた。健一はちょうど松さんの死んだ息子と同じ年頃で、松さんはその息子のことを思い出したのかもしれないな。急におれのをほうを見て、真顔で健一をくれませんかって言うんだ。すぐに冗談ですよって言ったけれど、あれは本気だったな。おれがいいよって、答えていたら、松さんは健一を奪っていったかもしれないな」
松本幸介は木村の息子に不思議な光を感じていた。初めて会った二〇〇四年十月四日の自転車屋の店先でも言いようのない輝きを感じた。もしかしたら空の女神が会わせたかったのは、木村ではなく息子のほうなのではないだろうか、松本幸介はそう思ったことが何度もある。
フライング社の最初の工場が石狩にできたとき、木村健一はまだ九歳だった。健一は父親の研究開発の実験モデルを務め、FLY-Gの性能向上に貢献していたが、祖父と父親の血を受け継いでいると見えて、健一も研究室のそこらの材料を使って何かをつくり始めた。健一はいつもその作品を誰かに発表したいと思っていたが、父親は忙しくてかまてくれない。そんな健一の相手をしてあげるのが、松本幸介だった。
「今度は何をつくったんですか?」
松本幸介は実験台やコンピューター設備に囲まれた研究室の簡素なソファに腰掛け、健一をうれしそうに見あげた。何かをつくるたびに成長していく健一はもう松本幸介の背丈を超えていた。
「発電所」健一は立ったまま答えた。手にプロペラをもっていたが、それにはふれなかった。「それはまた大きなものをつくったものですね。で、発電所はどこにあるんですか」
「おじさんのすぐ近くにあるよ」
「すぐ近く?」
松本幸介は研究室の中を見渡した。実験設備がごちゃごちゃあって、探す気にもなれないが、とりあえずぐるっと目を走らせた。しかし、発電所らしきものはどこにもなかった。
「どこにあるんですか?」
「僕が履いている」
松本は健一の足元を見た。健一はやけに踵の高い靴を履いていた。松本は自分自身は履くことはなかったが、昔はやったロンドンブーツを思い出した。
「僕は今日この靴を履いて七キロ歩いた。七キロでこの靴は七分のエネルギーを蓄えたんだ」
健一は靴を脱ぎ、靴から踵を外した。十五センチメートルほどの高さのごつい踵の上に、十円玉程の直径の小さな穴が開いていた。彼はそこにプロペラが先についている小棒を差し込んだ。すると、プロペラは勢いよく回りだした。
「面白いものをつくりましたね」
「踵発電所って昔もあったそうだけど、僕は僕なりに改良したんだ。真似をしているわけじゃないんだよ」
「ええ、それは分っています」
「僕のつくった踵発電所は、原子力の次の時代を担う画期的な発明なんだ」
健一は松本幸介と向き合って座ると、若々しい情熱を言葉にほとばしらせまくしたてた。「いいかい、おじさん。世界にはいっぱいエネルギーをつくる方法がある。風や海や川や太陽、それに原子力。でも、一番、安全で身近なエネルギー源は、何だと思う?」
「さあ」
「人間だよ。みんなそのことに気づいていないんだ。じゃあ人間のどこにエネルギー源があるのかというと、それは歩くという行為にさ。一日外を歩くことによってその人間の一日分のエネルギーを蓄えることができれば、もう石油も原子力発電所もいらないよ。僕はね、そのエネルギーを踵に蓄えようと考えたんだ。おじさんは前に昔の時計は腕を振って動かしたって言ってたでしょう。腕を振るだけで機械を動かすことができるなら、歩くという行為はもっと大きなものを動かせると思うんだ」
「私たちは空の時代を社会にプレゼンテーションしようとしているのに、君は歩くという行為に興味を持ったのですか」
「いけない?」
「いや、素晴らしいことだと思います」松本幸介は穏やかな眼指しを健一に向けた。
「ああ良かった、おじさんならきっとそう言ってくれると思ったよ」
「お父さんはなんて言っています?」
「おまえは自転車屋の跡取りだって、靴屋にはなるなって」
「そうですか、それにしても健一君は靴が好きですね」
「うん。特に踵がね」
踵発電所は二人の間のガラステーブルの上に置かれていた。プロペラはぶーんと音を立て、まだ勢いよく回転を続けていた。
「前に見せてもらったのは、歩くと踵から音が出る靴でしたね。ピュッタン、ピュッタンと」松本幸介は思い出して言った。
「ピコ、ピコ、ピコだよ」
「そうでしたっけ? まあどっちにしても、歩くと音が出るっていうのは、楽しいですね。まるで漫画の世界みたいで。あの靴音を聞いて、私は大好きだったテレビ漫画を懐かしく思い出しましたよ」
松本幸介は健一の発明品を微笑しく思ったが、それ以上の関心は持たなかった。
松本の最大の関心事は「人をどう飛ばすか」であり、健一が遊びで挑んでいる「踵」の研究は、松本の頭に入り込む余地はなかった。
しかし、松本幸介は健一の研究が「人をどう飛ばすか」を真に実現させるためのものであることをやがて思い知らされるのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます