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 松本幸介は商品をお決まりの市場には流さなかった。育児用品としてトビーが評判になると、全国の小売店から注文が殺到したが、それもあえて無視をした。

 松本幸介は二〇一〇年代に入って、各家庭に急速に浸透しつつあったPVを利用したいと考えていたのだ。

 トビーが発売された二〇一二年の時点で、PVの会員は全国に約二百五十万人いたが、松本幸介は会員の数よりもPVそのものの活動に共感を持っていた。

「その当時はPVの浅沼君という人物を知らなかったし、会員が全国にどのくらいいるのかも、また会員の皆さんが何を購入しているのかも全く分りませんでした。しかし、私はPVの活動に、生活者の台頭という、時代のうねりのようなものを感じていたのです。その生活者に飛び袋がどれだけ受けいれられるのだろうか、私はPVを通して、飛び袋の価値をはかってみたいと考えていたのです」


 松本幸介は更にこう語っている。

「生活者のことを思うなら、飛び袋を全国の小売店に置けばいいじゃないかと言ってくる方もいましたが、私は単純にもうそういう時代ではないと考えていました。極端に言えばこの世から小売店がなくなってもいいのではないかとさえ思っていたのです。経営していたビッグライフ社に反旗を翻すつもりは毛頭ありません。それは単に今が二十一世紀だからです。私は二十一世紀という時代は生活者に主役になって欲しいのです。そのためには生活のもっとも基本的な行動である『買う』を鍛える必要があると思っているのです。権利を身につけ、ものを見る目を養い、買う側から商品を見ることによって、そこからもっと素晴らしい商品がこの世に生み出されるのではないかという理想を抱いているのです。店に置くとどうしても売る側が主導権を握り、買い手はなかなか主役にはなれません。その点、PVは買い手がしっかりと主役になっています。安く買うというのは買い手の権利の一つにしか過ぎませんが、生活者のパワーのようなものをひしひしと感じていました。その生活者に、私は飛び袋を評価してもらいたかったのです」


 二〇一二年の五月。

 新潟市の主婦服部京子はPVの会員になっていた。

 彼女はキーを打ち、購入希望の商品名をPVネットワークに登録してある自分のリストに書き込んだ。トイレットペーパー、サラダオイル、マヨネーズ、玉葱、人参、ヨーグルト、ビール、夫が欲しがっていたゲーム「愛の飼育」、それにセラのために「トビー」を書き加えた。

 京子は市内のあちこちの店を覗いて回ったが、テレビのコマーシャルで見る「トビー」はどの店にも置いていなかった。ビッグライフにも、近くのセブンイレブンにもなかった。それで、PVに頼むことにした。PVなら日本中で一番安く売っている店を探して、三日以内に商品を送ってくれるはずだ。

 しかし、三日後、PVからやってきたバクテリアマークの車には、夫の「愛の飼育」はあったが、「トビー」は積んでいなかった。

「いったい、どういうこと?」

 京子は水戸にあるPVの本部に電話をし、文句を言った。


「二つ理由があります」加藤と名乗る商品担当のものが説明を始めた。

「一つはトビーがPVの取り扱い商品リストに載っていないことです」

「それが理由なの。だったら載せればいいじゃない」

「内部での商品審査と代表の承認がいるのです。その点をご了承ください」

「愛の飼育がよくて、トビーはだめというわけ。PVは一体どんな基準で審査しているの。スタッフはエッチな男の人だけなの?」

 加藤は京子の言葉を聞き流して、

「もう一つの理由ですが」と話を続けた。「もう一つはトビーが全国のどの店にも出回っていないことです」

「知ってるわ。だから、PVに頼んだんじゃない。トビーの会社から直接買うなりして早く届けてよ」

「それはできません。ご存じのように、PVは大手の小売店に嫌われています。その大手の小売店と結束しているメーカーにとってもPVは好ましくない団体です。PVがメーカーに商品が欲しいとお願いしても断わられるでしょうし、PVもその方法をとるつもりはありません」

「じゃあ、いつ、トビーが手に入るの」

「いつとは言えませんが、トビーが店に出回ったときは、必ず全国一のお得なお値段で、服部さんにお届けします」

「まっ先に届けてくれますか?」

 京子は当然のことを聞いたのだが、意に反した言葉が返ってきた。

「それはちょっと約束しかねます」

「どうして!」

「服部さんと同じように、トビーが欲しいという方が、全国にいまのところ五万人以上もいるもんですから」

「そんなにぃ! じゃあ、トビーが店に出回ってもすぐには手に入らないわけ。私はいますぐ欲しいの」

「他の会員の方は待つとおっしゃっていますが」

「私はそんなに気が長くないの」

「でしたら、服部さんから直接フライング社に注文してみたらどうでしょう」

「アドレスは知ってるの?」

「フライング社はネットセールスをしていません」

 京子は驚き、大袈裟に声を上げた。「なんて古い会社なの!」

「ごもっともです」


 京子は加藤からフライング社の電話番号を教えてもらい、ダイヤルボタンを押した。

 吉岡と名乗る男が出た。

「コマーシャルで見たトビーが欲しいんだけど」京子が言うと、

「ありがとうございます」やけに力のこもった声が返ってきた。「失礼ですが、お名前は?」

「服部京子」

「服部様ですね。そちら様のご住所とお電話番号を教えていただけないでしょうか」

 京子は教えた。

「色は、赤、青、緑の3種類ありますが」

「赤でいいわ」

「商品の代金は税込みで二万八千円になります。これに送料千五百円がかかりますので、合計二万九千五百円になります。よろしいでしょうか?」

 よろしいはずはなかった。「そんなにするの。もっと安くならないの」京子は言った。

 PVを通して安い買物がすっかり習慣になっていた京子には、二万九千五百円という価格が信じられないくらい高い値段に思えた。

「ビッグライフならその二十パーセントは安いわ」

「申し訳ございません」男が謝った。

「ビッグライフにトビーをなぜ置かないの。いちいち電話を掛けて注文するなんて、ばかばかしいわ。電話代も掛かるし」

「ごもっともです」

「で、安くなるの」

「ならないんです。すみません」

 京子はまける気配がない男の声にがっかりした。買うのをやめようかと一瞬悩んだが、今は欲しい気持ちのほうが勝っていた。

「じゃあ特典は? 新発売なんでしょう、プレゼントキャンペーンとかはしてないの」

「ええ、すみません」

「二万九千五百円もするのに、特典が何もないって言うの」

「ええ、そうなんです」

「信じられないわ!」京子は主婦らしい声を上げた。

「すみません」

「社長がケチなの」

「はあ」

「社長がケチだから、ケチの精神が会社中に浸透しているのね」

「社長はそういうものではありません」

「いいわよ、社長をかばわなくたって。ばかばかしいけど、二万九千五百円、払うわよ」

「ありがとうございます。商品をすぐに送りますので、届きましたら、代引き、もしくは代金を一週間以内に、商品の伝票についている口座番号に振り込んでください。よろしいでしょうか」

 吉岡のデスクの脇には売れる順番を待っている梱包済みのトビーが山積みになっていた。

「ええ、いいわ。それでどのくらいで着くの?」

「新潟でしたら、明後日の午前中になります」

 吉岡は電話を切ると同時に、「赤」と書いてある箱を探し出し、出荷伝票をぺたっと貼りつけた。


 翌々日の十時、服部京子のマンションの自宅にトビーが届いた。京子はまず一時間掛けて取扱説明書と安全使用上の注意書を読んだ。彼女は服用上の注意とか、操作の仕方とか、出し汁のつくり方とか、何でも書いてある通りにしないと気がすまない質だ。夫が説明書をろくに見ないで、新発売の電化製品をいじくったりするのが信じられない。そんなとき、京子はヒステリックな声で夫を罵る。「壊れたらどうするのよ!」


 セラはソファーの下の薄っぺらな座布団で眠っていた。

 今日は朝から快晴だった。絶好の散歩日和だ。

 マンション十階の窓の向こうにブルーの空が広がっている。京子はFLY-Gをトビー本体に用心深く丁寧に注入した。

  説明書通りに筒形のトビーができあがった。手足につけるリング状のものはとりあえず必要なかった。

 京子は書いてある通りに、トビーを広げ、まず床に置いた。

 それから両手で軽く持ち上げ、手を離した。

 赤いトビーは、床に座っている京子の目先で静止した。

 水平方向に押すと、滑らかに飛んでいった。

 再び床に下ろそうとすると、トビーはやや抵抗を示した。

 京子は両手でトビーの端をつかみ、下に引き降ろした。

 京子は気持ちよく眠っているセラを見つめた。愛情のこもった眼差しだったが、セラをいとおしく思えば思うほど、悲しくなってくる。

「セラ」京子は呼んだ。

 セラの耳がぴくっとし、瞼が開いた。

「セラ、おいで」

 セラは欠伸をしながら立ち上がった。三本の脚を跳ねるように動かして京子の膝のところまでやって来た。


 セラは六歳のダックスフントだった。四歳の冬に、交通事故で右の前脚を失った。それ以来、セラは外に出ることを拒否している。京子は「人間も鳥のように飛べる」というトビーのコマーシャルの言葉に、セラも鳥のように飛べることができたら、どんなに素晴らしいだろう。きっと心のリハビリになるにちがいないと思った。

 京子は厭がるセラの胴体にトビーを固定した。

 両手で持つと、セラの体重がなくなってしまったみたいに軽くなり、顔の前で手を離すと、セラは空中に浮かんだ。


 床に脚がついていないのは、不安なものだ。セラは犬かき泳ぎのように三本の脚をばたつかせた。

「もう大丈夫よ、トビーがあればもう車に轢かれることはないわ。空を飛んでいる鳥が車に轢かれたっていう話は聞いたことがないもの」

 京子は浮かんでいるセラに頬を寄せ、黒い鼻の頭にキスをした。

「さあ、セラ、散歩に行くわよ」

 京子は安全ロープをトビーにつけると、ロープの端を手に持ち、セラと一緒に玄関から出ていった。


 商品担当の加藤がこの新潟の主婦に説明した通り、当初、PVはトビーを取り扱い商品項目に入れていなかった。しかし、フライング社がトビー10を売り出す頃になると、会員からの注文の数が桁違に増え、トビーを無視できなくなってきた。

 企業から直接ものを買わない方針を貫いていたPVだったが、全国の会員の要望の前に、取り扱い商品項目にトビーを加えざるをえなくなった。

 二〇一三年の春、PVの浅沼代表と渉外担当の村井が石狩市のフライング社を訪れた。生活者のために協力して欲しい旨を伝えにきたのだが、フライング社はこの申し出を快く受け入れた。トビーの注文が全国から殺到し、直接販売のやり方に無理が生じていた時期でもあり、松本幸介自身も「非常についていました」と語っている。


 マスコミ嫌いで有名な浅沼代表も、経済チャンネル(ECH)の取材に珍しく応じ、トビーの取り扱いに関して述べている。

「まず、会員からのトビーの注文数を折れ線グラフにしてみたんだ。縦が注文の数、横が日づけでね。すると、右あがりの斜面ばかりで、谷がぜんぜんないんだ。頂上さえ全く見えず、どこまで高い山になるのか、見当もつかなかった。僕はね、山の頂が見えないもの、谷がないものって、信用しないことにしているんだ。だから、企業に頭を下げてまでトビーを取り扱う必要はないんじゃないかって村井に言ったんだ。だけど、生活者の味方に立つというPVの原点を思うと、そう僕の考えを通してもいられず、最終的に僕の判断でトビーを取り扱うことに決めたよ」


 水戸出身の浅沼は、子供の頃からコンピューターにデーターを入力してグラフをつくったり、統計をとったりするのが好きだった。温度、降雨量などの気象データーと並んで彼の趣味を満たす格好の材料となったのは、新聞の折り込みチラシだった。彼はスーパーマーケットやディスカウントショップといった小売店、量販店のチラシの情報をコンピューターに入力して、十歳のころから毎日グラフづくりを楽しんでいた。

 グラフは円グラフ、棒グラフなどいろいろあるが、浅沼が一番好きなのは折れ線グラフだった。山や谷があって、急にぴんと跳ねあがったり、その逆にがくんと下がったりするところが、スリルがあって面白かった。ところが浅沼が入力した価格はどこも似たり寄ったりで、わくわくするような山も谷もなく、単調なラインがだらだらと続いているだけだった。激安、お買得、超特価など、赤文字がチラシに派手に踊っていたが、どの店もたいして価格の違いはなかった。それが総べての始まりで、高校生のときにパソコン通信で知りあった福岡の村井や富山の加藤の協力を得て、本当に安い価格で提供する店を探し始めた。全部が全部安くなくてもいい、例えばマヨネーズならどこの町の何という店が安いとか、トイレットペーパーならどこだというふうに。情報を集め、統計を取り、折れ線グラフをつくると、ところどころに深い谷が現れてきた。低価格の谷だ。母親に教えると、「近くのスーパーで買物をするのが馬鹿らしくなるわね」と言った。母親の言葉に、浅沼はその商品を日本で一番安く売っている店から大量に買い、全国の生活者に送れないだろうかと考えた。メーカーから直接買うのが一番安いのだろうが、そんな発想は最初から浅沼の頭にはなかった。


 浅沼が村井や加藤とともにPVを始めたのは二十歳のときだった。インターネットのホームページで宣伝していたせいもあって、会員は最初から浅沼が思っていた以上に集まった。商売ではなかったから儲けるつもりはなかったが、損をするつもりもなかった。だから三千円の入会金をもらうことにした。そのかわり会員にも情報提供者になってもらい、提供者には特典制度を設けた。特典といってもシャンプーや洗剤を無料であげるというようなものだったが、みんなが協力してくれて、情報は毎日のように入ってきた。欲しいものを注文すれば自動的に安い商品を探して配達するという生活者の側に立ったシステムは、大手の流通店が潰しまくっていた地方の町の小さな店の励みになった。例え一商品でも思いきった低価格にして情報を流せば、PVのスタッフがトラックやワゴン車に乗って買いつけにやって来る。小さな店は安くすれば採算がとれないし、数量も限定される。しかし、浅沼は無理して頑張るそんな地方の小さな店が好きだった。低価格の優秀店は表彰して、店の宣伝もじゃんじゃんしてあげた。


 その浅沼がメーカーであるフライング社から直接商品を購入し、全国の会員に届けることは、会員のためにはなるが、浅沼の本位ではなかった。だから、フライング社を訪れ、協力をお願いした際、浅沼は松本に頼んだ。トビーをもっと安くして欲しいと。

「僕らはプライスバクテリアであり、配送屋ではないんだ。安いものを届けることができなければ、PVの存在価値さえなくなってしまう。トビー15の値段がトビー10から四十パーセント近くも値下がりしたのは、PVの勝利だと思ってる。決してドローなんかじゃないよ」

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