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 当時のフライング社の正社員は三十二名だった。フライング社には子供を持つ女性社員が六人いたが、託児室を利用している社員は、そのときは沢田恵子一人だった。彼女は赤ん坊のノボルと一緒に会社に通っていた。


 沢田恵子の会社での一日はノボルを二階の託児室に預けることから始まる。それから昼休みにノボルと一緒に食事をし、三時には昼寝から起きたノボルと一緒に遊んでやり、五時になったらノボルを車に乗せ、家に帰る。ノボルとのそのつきあいの合間に、彼女はフライング社の広報担当としての仕事をこなしていた。


 彼女は三十歳だった。もっと若いころは別の平凡な人生を夢見ていた。「結婚したら会社を辞めて、子供を産み、その子に手づくりのケーキを食べさせてあげたいの」と友人にも語っている。ところが彼女は結婚する前に子供ができ、しかもその相手は、彼女いわく「今どき何を考えているのだろうという夢の持ち主」で、子供から逃げるように世界放浪の旅に出てしまったのだ。「三年たったら必ず戻ってくるという約束をしてね」

 沢田恵子の友人は「馬鹿ね、そんなの嘘に決まっているじゃない」と言ったそうだが、彼女は「例え馬鹿でも」男の言葉を信じるしかなかった。(男は結局戻ってこなかった)


 彼女は男の部下が一人いる広報の責任者だった。彼女は「飛び袋が発売される前まではとても楽な仕事だったわ。だって何もすることがなかったんですもの。広報誌はまだつくっていなかったし、社長の方針でマスコミにはパプリシティーを流すなって言うし。ただ取材があったときはきちんと対応しろと言われていたけど、そんなものは全然なかったから」と述べている。


 しかし、トビーが発売されてから、沢田恵子の仕事は徐々に忙しくなってきた。マスコミからの問い合わせや取材の申し込みが多くなってきたからだ。忙しさに慣れていない彼女は、会社での一日をいらいらと過ごすようになった。

 忙しいのに、ノボルの面倒をみなければいけないことにも苛立ちの原因があった。更に原因を探せば、飛び袋が売れていないことが一番悪かった。サッパリ売れないトビーに、託児室が占領されていたからだ。

「いったい、何を考えているの」と沢田恵子は販売担当者の吉岡に文句を言った。

「一日で捌けるから、ちょっと置かして」と吉岡は答えたが、何日たってもダンボールの山は消えなかった。

 生後八か月の赤ん坊が遊べるだけのスペースがあるとは言え、ダンボールの山が頭の上に崩れ落ちることがないとは限らない。とても託児室には置いておけなかった。

 それで彼女はノボルの体にトビーをつけて、自分のそばに置いておくことにした。デスクの照明スタンドにトビーから垂れている安全ロープを括りつけ、ノボルを風船のように空中に浮かせた。そうやって彼女はマスコミからの電話に応対していた。

「なぜ売れないのかを徹底的に取材したいというのですね。どうぞご勝手に。取材を許可します。社長も拒むなと言っておりますので」


 フライング社の発売商品の不人気ぶりは、松本幸介がビッグライフ社を去ったときから批判的だった週刊誌や、週刊誌の記事に煽られた感のあるテレビ報道の餌食になった。

 訪れる記者の数も飛び袋の在庫品のように増え、社内にもテレビカメラが回り、マイクを持った記者が社員を追い回した。

 沢田恵子は空中で遊んでいるノボルを連れて取材に立ち会った。それからお茶の用意もしてあげた。その彼女にもテレビカメラとマイクが向けられた。

「何を聞きたいわけ、広報としてなんでも答えるわ」

 給湯室の流しの前で、お茶をいれながら彼女は言った。

 飛び疲れたノボルは寝息を立て、宙に凧のように浮んでいた。

「商品が全く売れない原因はなんですか、また売れないことについて、フライング社としてはどう思っているのですか」と女性記者がマイクを向けてきた。

「売れない原因は、皆さんが買ってくれないからよ。それと売れないことについてだけど、フライング社としては別に何とも思っていないわ。だって、私たちはこの世で初めての商品とつきあっているんですもの。だけど、私は、大いに悲観しているの。だって託児室まで商品の在庫でいっぱいなのよ。だからこうやって息子を連れて、仕事をしなきゃいけないの。下に置いておいたら、あなたたちマスコミの人たちに踏まれるかもしれないし、商品が落ちてきて潰されるかもしれないでしょう。トビーのおかげで、ノボルは安全に運動ができて喜んでいると思うわ。それに寝つきが悪かったのにご覧の通り、あなたたちがこんなに騒いでいてもすぐに眠れるようになったわ。でも、立っちを覚えたばかりの子供に、ずっとトビーをつけておくわけにはいかないのよ。だから、早く売れて欲しいわ。少なくとも、託児室にあるダンボールの数だけでもいいから」


 沢田恵子の取材の模様は、その日、各局の夕方のニュースで取り上げられた。

 松本幸介は社長室でテレビを見ながら、有能な女子社員の言葉に苦笑いを浮かべた。

「早く売れて欲しい」確かに彼女は広報として会社の声を代弁していると思った。その会社の声は松本幸介自身の声でもあった。


「社長はいつも悠々と振る舞い、商品を信用しなさいと社員に言ってました。それは、どんなに売れ行きが芳しくなくても、変わりはありませんでした。ただ、飛び袋を発売して一か月が過ぎた頃だったと思います。売れ行きの数字が、社長の考えていたものとはかなり隔たりがあったようで、木村さんや、私に対して、自分の考えは間違っていたのだろうかと呟くように言ったことを覚えています。トビーを小売店で販売すべきだったのだろうかと。そのときの社長の表情は弱々しく明らかに苦悩していることが分りました。そして、その夕方にあのニュースを見たのです。私は見せたくはなかったのですが、社長が見ると言うもんで。沢田さんの発言は、社員として、行き過ぎた発言であったと、私は今でも思っています。正直に対応しろっていうのは社長の方針でありましたが、それは会社の人間として正直にという意味であると思っております。彼女の言葉は、会社の人間であることを忘れた、極めて私的な不適当な発言であったと思います。その発言に、社長は苦笑していましたが、本来の社長なら、もっと豪快にお笑いになるはずです。社長も沢田さんの発言に相当こたえたのでしょう、放送が終ると、頭の洞窟にすぐに籠ってしまいました。いや、籠ったというよりも、逃げ込んだと言ったほうが良いでしょう。私は社長室を出ました。その後、私が社長に呼ばれて部屋に入るまでの二十分の間に、世界は全く変わってしまったのです」と河島は語っている。


 このとき、松本幸介はただひたすら木村と出会った日のことを思い出していた。

「木村の娘が空中に浮かんでいるのを初めて見たあのとき、自分が何を感動したのか、そのことについて改めて考えようとしたのですが、なんだか急にうるさくなって」と松本幸介は述べている。

 松本は考えることに集中しようとしたが、洞窟の外のざわめきは収まらず、ますます大きくなるばかりだった。何だろうと思って洞窟から出てみると、会社中の電話が鳴っていた。

「河島!」松本幸介はすぐに秘書を呼んだ。

 河島が部屋に入ってきた。

「ずいぶん騒がしいですね」

「電話がひっきりなしに掛かってくるものですから」

「それは分っています」

 松本幸介は不機嫌そうに言った。例え仕事の電話でも、自分の考えを邪魔されるのは好きではなかった。「でも、ちょっとうるさすぎます。何があったんです?」

「ニュースで見たそうです」

「ほう。苦情ですか、同情ですか、厭がらせですか?」

「いいえ、注文の電話です。赤ん坊が、テレビに映っていた赤ん坊が可愛いからと言って」


 トビーの注文者の多くは若い母親たちだった。沢田恵子に連れられ、空中を漂っていたノボルの愛らしい姿と彼女の母親らしい発言が茶の間の共感を招いたのだ。

「トビーのおかげで、ノボルは安全に運動ができて喜んでいると思うわ。それに寝つきが悪かったのに、ご覧のとおり、あなたたちがこんなに騒いでいてもすぐに眠れるようになったわ」

 それは小さな赤ん坊がいる母親なら、だれもが欲しいと思う優れた育児用品だった。

 こうしてトビーは人間の飛行を実現させる夢のある商品、というよりもガラガラやおしゃぶりと同レベルの育児用品として受け入れられたのだった。

 八キログラムタイプしか世に送り出していないのだから、当然といえば当然なのだが、育児用品という概念が頭に全くなかった松本幸介には新鮮な驚きがあった。

 それは次の言葉にも伺われる。

「私は鉄腕アトムの世界をイメージして、飛び袋の第一号を世の中に送り出しました。それが極めて現実的な育児用品として人気を得たのです。そこには人が空を飛ぶという夢やロマンという甘い言葉はありませんでした。現実の暮らしがあり、現実の若い主婦たちがいたのです」


 また、こうも述べている。

「飛び袋の最初のコマーシャルは私の考えを反映させたものです。外国人の赤ん坊を使い、人も鳥のように飛べるんだと、自然への回帰を含めてロマンチックに空の世界へ誘いかけるものでした。それを初めて見たとき、これで売れるんだろうか私はちょっと心配になりました。それは飛び袋を発売してまもなく現実のものとなりました。今になって思えば、私の飛び袋に対する捉え方が間違っていたのです。人はどう頑張っても鳥のようにはなれません。人は空にあっても人でしかなく、人のように飛ぶしかないのです。私はそのことを改めて認識し、それ以降飛び袋について説明する際は夢、ロマン、自然、未来といった抽象的なコピーを排除し、日常性や暮らしという人間臭さを感じさせるような言葉をあえて用いさせました。その考えは、ビッグライフ社時代のチラシのクリエイティブと全く同じで、時代が進み、商品が新しくなっても、人間の生活の根源は変わらないと言うことを改めて思い知らされました」


 フライング社は八キログラムタイプを発売した十か月後の二〇一三年三月に十キログラムタイプ、同年十二月に十五キログラムタイプ、二〇一四年の七月に十八キログラムタイプ、二〇一五年の五月に二十二キログラムタイプ、二〇一六年の三月に二十五キログラムタイプ、同年十二月に二十八キログラムタイプ、二〇一七年の七月に三十キログラムタイプを発売した。

 確かにそれらのコマーシャルやセールスプロモーション用のビデオには、夢という言葉も未来という言葉も見当たらない。適応体重のターゲット層を加味して、トビーは育児用品、遊び道具として、日常生活に存在価値をアピールしていったのである。


 しかしながら、飛ぶとは言っても初期の二〇一〇年代に作られたトビーは、現在の製品から見ればただの「浮く」である。本格的に「飛ぶ」という行為ができるようになったのは二〇二六年のスカイスーツの登場からだ。

 正しく使用すればベビーベッド並みに安全だったが、発売された当初は赤ん坊が木やビルに激突するという事故が相次いで起きている。


  当時の新聞に、フライング社のこんなお詫び記事が載っている。

「最近、当社の商品トビーに関する事故が相次いでいます。事故の種類は、安全ロープが外れて上空へ飛ばされたり、トビーから落ちたり、木にぶつかって怪我をしたというものです。事故に遭われた幼児の皆様並びにご家族の方々に心よりお詫びを申し上げます。当社ではトビーの品質と安全には万全を期しておりますが、使用の際は、取扱説明書、安全使用上の注意書をよくお読みになり『安全使用に関する項目』をよく守って、正しく安全に使用してください。特に各タイプの体重制限を守って使用してください。他のタイプと組み合わせて使用しないでください。安全ロープは保護者の方が管理してください。また風の強い日の使用はご遠慮ください」 


 トビーによる最初の事故は、幼児が五十メートル上空へ舞いあがり、ヘリコプターで救出されたというものだった。この幼児は大人になってからあの有名な「蝙蝠男事件」を起こす。

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