八キログラムタイプ新発売

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 フライング社の設立は二〇〇七年の十月一日。

 本社は最初、札幌市中央区の大通公園沿いのビルの一室に置いた。設立当時のメンバーは社長の松本幸介、秘書の河島孝三を含めて、わずか六人だった。この中に、木村春彦は入っていない。

 これについて、フライング社の広報誌「SO・LA!」第一号(二〇一五年四月一日発行)で、司会者の質問に答える形で松本と木村のこんなやり取りがある。


松本:そもそも私が札幌で会社を始めたのは、木村のためだったのです。東京に会社をつくれば、木村はまず来ないだろうと思ったからです。だけど、札幌でもだめでした。何度も、何度も会社に入ってくれと誘ったんですがね。

木村:協力はするって約束したけど、自転車屋をやめるっていうことは全然考えなかったからね。松さんから事務的なことは私がやるから、君は技術部門を頼むって誘われても、心は全く動かなかった。年収も、こっちがびっくりするくらいの額だったんだけどもね。まあ、後から入ったときには、おれも、次第にそっちのほうに興味が移っちゃってね、女房も好きなようにやればって言うし。

松本:最初の三年間は準備期間のようなものでしたから、木村に断わられても、仕事上のことに関して言えば、さほど影響はありませんでした。将来を展望して、何が必要で何をしなければいけないのかを考え、資金を集め、一年、三年、五年 、八年と時間を区切り、事業計画を練る段階でしたから。やっている仕事も資産運用や財団活動の支援がメインでしたからね。ただ私は始まりというのを大切にする人間でして、新会社の始まりには、どうしてもマジックガスの発明者である木村に参加してほしかったのです。

木村:スタッフとして参加したけどもね。

松本:それも渋々了承して。

木村:でも、結構大変だったんですよ。商売を続けながら、店が終ってから毎日のように秘密の研究所に通うっていうのは。おれは裏小屋でやりたかったんだけど、松さんが秘密を守りたいのでそこでやってくれって言ってね。

松本:私は隠しごとは嫌いなんですが、石橋を叩いて渡らないといけない時期っていうものがあるんです。

木村:秘密の研究所というのは家から車で十分くらいのところにあったんだけど、家具屋から買い取ったばかでかい倉庫で、冬になると寒くてね。そこに息子を連れていくとぶるぶると震えてね。

松本:あれは暖房システムも何もない古い倉庫でしたからね。

木村:そこで、おれは健一を使い、マジックガス、つまりFLY-Gのパワーアップの研 

究を続けたんだ。

松本:それにあとテクニカル、デザインのプロジェクトチームを結成して、木村が考案したマジックガス入りの浮き袋に安全面、耐久性での改良を加え、更に商品としてのデザイン性も高めていきました。それと、空中で「犬掻き泳ぎ」のように手を動かしても、そんなに前へ進まない、どうしたらいいのか考えたり、突風が吹くと人の手が届く高さ以上に飛ばされ る危険性があったので、それを防ぐ方法を考えたりしてね。そう言ったことを一つ一つ議論し、一つ一つ解決していきながら、飛び袋は今の形になったわけです。

木村:おれもそっちのチームにも参加していろいろと意見を出した。最初は社員じゃなかったけれど、スタッフとしてしっかりやっていたわけだ。

松本:でも、君、私はやっぱり悔いが残りますよ。会社設立時のメンバーの写真に君の顔がないというのは。

木村:後で二人で撮りました。

松本:君が会社に入った日だったね。写真屋を呼んで私の部屋で撮ったんでした。でも、やはり君との写真は会社設立の日に撮 りたかったですよ。どこか外で、青空を背景にして撮りたかったですよ。


 木村がフライング社の一員になったのは三年後、札幌の隣の石狩市に研究室と生産工場をつくったときだ。このとき、本社も札幌から石狩に移転している。

 当時の本社社屋は業務用厨房機器の製造会社から買い取ったプレハブの二階建だった。松本幸介は来客用の応接室をつぶし、若い母親社員のために託児室を設けた。

 当初、二〇一一年に商品が発売される予定だったが、安全面の問題で販売開始の時期はそれから一年延びた。最初の飛び袋「トビー」が販売されたのは、二〇一二年五月七日のことだ。木村との出会いから八年、松本幸介がよくいう人生の十パーセントの時間が流れていた。

 このころからフライング社内部では「10%タイム」という言葉が、あらゆる行動の指針として定着するようになった。企業の計画も八年以上のものは立てない。

「あとは流れにまかせて、流れの途中で、別の新しい夢を見ればいいのです」と松本幸介は述べている。


 さて、最初の商品だが、松本幸介は商品戦略としてまず八キログラムタイプを世の中に送り出し、反応を見ることにした。

 セット内容は八キログラム用のFLY-G注入器大小五本、飛び袋は胴体用一個、手首用二個、足首用二個。他に三メートルの安全ロープと取扱説明書、安全使用上の注意書、保証書がついている。カラーはグリーン、ブルー、レッドの三種類。価格は十三パーセントの税込みで二万八千円。これとは別にオプションとして、手や足につける「空カキ」をつくった。


 商品に関して松本幸介と木村は二つのことで意見が対立した。

 松本幸介は飛び袋には最初からFLY-Gを注入しておくべきだと主張した。松本自身も実際に注入してみたが、八キログラムの人間を浮かせるだけのFLY-Gが飛び袋にうまく入らない恐れがあった。だが、木村の意見は最初からFLY-Gを入れておくと、途中で何かの拍子に商品が浮き上がる恐れがあると言うものだった。

 木村の意見が通り、FLY-G注入器を飛び袋とは別にセットすることになったのだが、松本幸介は取扱説明書に二ページにまとめていた「FLY-Gの注入の仕方」を最終校正の段階で八ページに増やした。

 また、木村は胴体の飛び袋は浮き袋状のようなものの方がシンプルで扱いやすいと言った。これ対して松本幸介はプロジェクトチームから提案された腋の下のラインから臀部までを完全に包む形態を採用せざるをえなかった。これは安全を考えてのことだ。浮き袋タイプでは身体が抜けてしまいやすいという欠陥があったのだ。


 フライング社に古くからいるものは今でも「飛び袋」と呼んでいるが、八キログラムタイプの正式な商品名は「トビー」(TOBE)である。英語のTOBE(未来の)からとったもので「飛べ」と掛け合せた名前である。十キログラムタイプが登場してからは、「トビー10」というふうに、商品名の後に体重制限の数字を加えるようになった。

 広告、SPの媒体は、街頭宣伝とテレビやコンピューターの映像CMのみで、この戦略は今でもフライング社の基本になっている。新聞や雑誌を使って写真や文章で売るよりも実際の視覚に訴えたほうが効果的なのだ。最初のコマーシャルは、松本幸介のイメージが反映された「鳥と人間の愛」がテーマだった。


 森林の奥深く、オニオオハシの親鳥がノコギリ歯のような嘴に丸い果実をくわえて木穴の巣に戻る。穴の中には鳥のヒナとともに小さな小さな金髪の赤ん坊がいる。小さな小さな赤ん坊は白い体におむつパンツとトビーをつけている。果実をヒナたちと奪い合っているうちに小さな小さな赤ん坊が木穴から落ちる。親鳥もヒナも(なぜか英語で)「OH!NO!」と叫び、下を見る。しかし、小さな小さな赤ん坊は地上に落ちていなかった。空中に天使のように浮かび、よちよちと飛んでいる。そこに「人間も鳥のように飛べる。夢のような時代がやって来た」というナレーションが入る。


 オンエア前にCMのビデオを見た松本幸介は、

「私のイメージ通りで、なかなかいいできだと思います。しかし、これで商品が売れるかどうか、ちょっと心配になってきました」と言い、

「君はどう思いますか」と木村に意見を求めた。

 木村は松本幸介の問い掛けには答えず、独自の感想を漏らした。

「鳥のように飛ぶというよりも、まるでカメのようですね。映画のガメラを思いだしましたよ」


 トビーの発売に関する話題をもう一つつけ加える。

 松本幸介は商品をどの小売店にも流さなかった。コンピューターのインターネットを使い、商品の注文を受けるという方法も暫くはとらなかった。

 松本はフライング社本社において直接販売の形式をとったのだ。それもセールスをして回るのではなく、電話で注文を待つという受け身とも思える方法だった。

 百貨店や大手のスーパー、それにビッグライフ社からも内々に販売の打診があったが、松本は考えがあってこれを総べて断わっている。ただし、商品紹介のビデオは置いてくれるところには置いてもらった。


 全国にテレビコマーシャルが流れた五月七日の当日、松本幸介は一日中社長室に閉じ籠っていた。吉岡五郎という販売の担当者が午前十一時、午後二時、午後五時、午後八時の三時間ごとに計四回、松本幸介に販売状況の説明を行なっている。しかし、四回とも、吉岡は同じ報告をしなければならなかった。「今のところ、まだ注文の電話はありません」と。

 四回目の報告へ行く前に、吉岡は普段殆ど吸っていない煙草を断て続けに三本も吸った。販売の担当者として、注文がゼロの状況の責任を一身に背負い、一階の自分のデスクから社長室のある二階までの階段を重い気持ちで上がっていった。

「申し訳ございません」

 吉岡は松本幸介に向かって頭を下げた。すると松本幸介は笑いだし、

「なぜ君が謝るんですか」と言った。

「それは販売の責任者として」

「それだけの理由で頭を下げる必要はありませんよ」

「でも、それでは」

「責任の所在をはっきりとさせたいというのであれば、責任は商品にあります。商品が悪いから、商品の魅力がないから、注文の電話が掛かってこないのです」

「これから、そこらを回って、売り捌いてきます」

「もう夜ですよ」

「ですが、販売の責任者といたしまして」

 吉岡の言葉に、松本幸介は苛立った声で一喝した。

「販売の責任者ならば、私の言ったことを守ってくれませんか。セールスはするなと言ったはずですよ!」

「はっ、申し訳ございません」

「それともう一つ、販売の責任者なら、自分が売ろうとしている商品をもっと信じなさい。私たちは昨日までは世の中になく、これからの日常生活を変えるような、歴史的な商品とつき合っているのですよ。世の中の人がどう思っても、私たちは商品を信じましょう。素晴らしい商品を販売しているんだと、もっと誇りを持ちましょう」


 フライング社が発表している当時の販売状況の記録を見ると、八キログラムタイプ発売日の注文個数はゼロになっている。翌日は三個、翌々日は九個で、発売四日目に十八個の注文があったが、五日目十二個、六日目七個とまた一桁に戻っている。

 発売開始一か月間で、四百二十八個という数字が残っている。

「売れるでしょうか」という不安を漏らした松本幸介の予想を遥かに下回る惨憺たる数字だった。松本幸介は頭の奥にいる空の女神に問いかけた。

「なぜ売れないのですか?」

 だが、女神はただ微笑んでいるだけだった。

 松本幸介はなぜ売れないのか、その答えを自分で探さねばならなかった。

「さっぱり、売れませんね」と言う木村にはこう答えている。

「長く売れるものは、最初は売れないものです」

「へえ、そういうもんですか」

 木村はソファで暢気に頷いた。

 ソファの回りには商品を梱包したダンボールが山積みになっていた。一階の事務室も、二階の社長室も、託児室も、通路も、注文を待っているトビーに占領されていた。

「ロングセラー商品とはそういうものです」松本幸介はデスクの椅子にもたれて言った。「飛び袋はロングセラーになりますか?」

「きっとなりますよ、そのうちに」

「でも、コマーシャルを見て、欲しいと思っても、買う場所が分らないんじゃないですか。近くのスーパーへ行っても売ってないし」

「本当に欲しければ、人は何としてでも探すものです。その人が欲しいものは、店から与えられるものではないのです。店が与えるものは、店が売りたい商品であって、その人が欲しい商品に似ているかもしれませんが、多くの場合は別物です。私は飛び袋をあえて小売店に回さないことで、生活者をもっと強く鍛えたいと思っているのです。それと飛び袋のような商品を人々が本当に欲しがっているのか、私はたまらなく知りたいのです」

「じゃあ現実に注文がないっていうことは、みんなが飛び袋を欲しがっていないっていうことになりますね」

「いや、欲しくないはずはありません」

「じゃあ値段が高いんだ」

「飛び袋の販売はビジネスでもあるんです。君がやっていたおまけとも違うし、慈善事業をするつもりもありません。二万八千円といえば、愛の飼育より千九百八十円も安いのですよ。あんな成人向きのゲームが五百万本も売れる時代ですから、飛び袋はその十倍売れてもおかしくありません」


 「愛の飼育」は、バッド社が前年に発売したアダルトゲームだった。プレーヤーが百人の美女と関係を持ちながら結婚相手を捜しだすゲームで、男性の内側に潜む多様な性的願望を満たすことができ、マニアの枠を超えて大ヒット商品になった。交際している女よりもゲームの実映像の美女に夢中になる「飼育族」という流行語もこの年に生まれている。

「じゃあどうして売れないのかな。空の時代なんて、やっぱり来ないのかな」木村が自問するように言うと、

「君は空を飛びたいと思いますか?」松本幸介がデスクから聞いた。

「ええ」

「私もです。もちろん、赤ん坊だって飛びたいと思っているはずです」

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