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 飛び袋の原理は、スカイエネルギーとヘリウムガスを融合させたFLY-Gである。それ以上のことをフライング社は公表していない。

 スカイエネルギーの増殖法をマスターし、のちにフライング社から独立したものたちにより「ソラ社」「J&K社」「ジェット社」などの新たな企業が生まれ、類似品の「飛びっ子」「ハイバード」「スーパースカイ」などがつくられても、性能は「飛び袋(トビー)」のほうがはるかに上である。


 FLY-Gはそれ自体、意志を持たないが、浮き上がろうとするパワーが漲っている。そして宙にあるときは、浮力を安定した状態に保とうとする。だから、それを浮き袋などに注入し、下から刺激を与えてあげると簡単に上昇する。上への方向と水平方向に対してはスムーズに働くが、下へ降ろそうとするとやや抵抗を示す。後に飛び袋を体験した小学生の言葉によると、

「プールの中を潜るときのような感じ」と述べている。「降りようとしても、上に引っ張られるような感じがして、地面になかなかタッチができないんだ」

 FLY-Gはこれまで地球に存在しなかった全く新しい働きを持った特異なガスだ。ヘリウムが太陽から授かったものであるならば、FLY-Gはまさに空そのものからの贈り物なのだ。


 だが、FLY-Gをビジネスに結びつけるのは容易ではなかった。

 当時「自転車のキムラ」では、自転車を買ってくれた客にFLY-Gを入れたミニサイズ(五百グラムタイプ)の浮き袋をあげていた。木村はとりあえずそれ以上のことに、FLY-Gを利用しようとは考えていなかった。

 松本幸介は連日木村の店に通い、一緒に研究開発をして、人類のライフスタイルを根本から変えようと熱くまくし立てたが、木村は気のない顔で聞き流すだけだった。

「マジックガス(FLY-G)をもっとパワーアップさせれば、君の小さな赤ん坊だけじゃなく、大人だって飛べるようになるんです。自転車も飛べるし、車だって空を飛べるでしょう。人類が求めている世界が、このマジックガスの中にあるのです」

「はあ」

「飛ぶということが、人間の日常の習慣になるのですよ」

「はあ」

「素晴らしい世界だとは思いませんか?」

「ずいぶんと現実離れした話ですね」

「そうです、現実離れした話です。このマジックガスそのものが現実離れしているんですから、現実離れした見たこともない世界が生れるのは当然です。その新しい世界の主役は、大地や道路ではないのです。空です。日が昇り、日が沈む空が主役になるのです。君は飛び袋とマジックガスの発明者として、その世界を、今生きている人々に提供する使命があるのです」

「親父も同じようなことを言ってましたよ。今に空の時代が来るって」

「君のお父さんには先見力があったのです」

「でも、おれは親父とは違う。飛ぶことに人生を賭けるような冒険家じゃない。ただの自転車屋ですよ」

「でも、君はお父さんが行方不明になってから、意志を継いで人が飛ぶということの研究をずっと続けてきたじゃありませんか」

「意志を継いだわけじゃありませんよ。親父が風船とともに空の彼方へ行っちゃう前から、飛ぶということを研究していましたからね」

「それは、君も、いつか空の時代が来ることを信じていたからじゃありませんか?」

「そんな時代なんてどうでもいいんですよ」

「じゃあなぜマジックガスをつくったのですか?」

「つくるのが好きだからですよ。趣味として、やっていたんです」

「その趣味をビジネスにしようとは思いませんか?」

「おれのビジネスは、自転車を売ること。おれは自転車が売れて、家族四人、何とかやっていければそれでいいんです。あんたの言うマジックガスと時々つきあいながらね」

「自転車が売れればいいのですね」松本幸介は確認するように聞いた。

「ああ」

「自転車が売れれば、私に協力してくれますか?」

「もうすぐ冬だよ」

「えっ」

「雪が降れば、自転車は売れないって」木村が言うと、松本幸介はにこりと笑って、

「大丈夫、私が買いますから」と言った。


 松本幸介は翌年の春まで札幌に滞在して木村の店の自転車を買い続けた。

 その買い方も一台や二台ではない。店に置いてある総べての自転車を一度に買い取るのである。狭い店内といっても自転車は大小三十台はあった。暫くして新しい自転車が木村の店に並ぶ。また買うで、翌年の春までに松本幸介が購入した自転車は凡そ三百五十台にもなった。松本幸介はこの自転車を児童施設などへ寄付している。

 しかし、松本幸介の行動に批判的なマスコミ、特に週刊誌は「ビッグライフ社の元社長松本幸介は空を飛ぶ夢を諦め、自転車屋を始めようとしている」と書き立てた。

 木村も「商売の邪魔をしないでくれ!」と声を荒げて怒った。買ってくれるのはいいが、松本幸介の買い方が木村の常識を遥かに超えていたからだ。

 だが、松本幸介の熱意に、最後には根負けをした。


「君が必要なのです。店の売り上げも、家族の生活費も、総べて私が保証します。保証しますから、私に協力してくれませんか。木村さん、お願いします!」

 松本幸介は頭を下げて頼んだ。

 木村は舌打ちし、深く息を吸った。そして、息を吐き出すと、

「しょうがねぇなあ」と言った。

 松本幸介は木村の承諾を得ると、

「条件があります」と言って、途端に経営者の顔になった。

「マジックガスがどんなに素晴らしい発明品だと言っても、今のパワーでは商品の実用化はとうてい無理です。せいぜい、幼稚園の子供が飛べるようにしてくれませんか。もちろんその間の研究費や必要な経費は払います。もっと設備の整った研究室が必要と言うのであれば、紹介してあげてもいいし、建ててあげてもいい。どうしますか?」

「うちでやりますよ」

「そうですか、それじゃあできたら連絡してください」

 松本幸介はそう言い残して、ひとまず札幌を離れた。


 木村は娘よりも体重のある健一を使い、困難な課題に取り組んだ。

 その間、松本幸介は東京のオフィスで頭の洞窟に籠り続けた。新しいビジネスへの希望が脳裏にぱっと広がったかと思うと、すぐに挫折の雲に覆われる。期待と不安を想像の世界で交差させながら松本幸介は結果を待ち続けた。

 実用化にかける時間は、人生の十パーセントが限度だ。それ以上かかるようなものは例えいつか形になっても拍手を送れない。現在の生活者のためにはならないからだ。松本幸介は未来の人間に奉仕するつもりはなかった。欲しいのは今なのだ。

 松本幸介は十歳の頃から二十一世紀をひたすら待ち続けた。しかし、年を取り、その入口にやっと辿り着いたと思ったら、そこには何もなかった。

 ずっと待ち続けて失望することの辛さ、空しさを、松本幸介は身をもって体験していたのである。だからこそ、未来まで待てなかったのだ。

 しかし、松本幸介の心配をよそに、木村はわずか二年で二十キログラムタイプの飛び袋を完成させ、更に二十五キログラムタイプもテスト段階で成功させたのである。


 二〇〇七年五月に、松本幸介はモエレ沼公園で、木村の長男の健一が宙に浮んでいるのをその目で確かめた。左右のスニーカーの裏を揃え、手で押し出すと、健一は十メートルも飛んで行った。松本幸介は健一相手にもっと遊びたかったが、わずか一分で、健一の胴体や手足から飛び袋を取り外すように木村に頼んだ。周囲にはやじ馬が大勢集まっていた。産業スパイやスクープ記者が潜んでいるかもしれなかった。画期的な新製品を世に送りだそうと考えているものにとって、それ以上の公開は、危険すぎた。実際にそれ以降、製品が発売されるまで、飛び袋が人目に晒されることはなかった。


 モエレ沼公園から木村の店までの車の中で、松本幸介は運転している木村を褒めちぎった。だが、松本幸介の感激、賞賛の声にも、木村はたいしてうれしそうな顔を見せずに、

「次はどうせ小学生を飛べるようにしろって言うんでしょう」とぶっきらぼうに答えた。  

 この言葉を、のちに松本幸介は若い社員の前でしばしば引き合いに出した。

「一時の喜びに浸らず、木村はもう先のことを考えていた」と。

 木村は冒険好きな父親の血を受け継ぎ、技術者としても天賦の才能があった。松本幸介の後押しにより、それが一気に開花したのだった。

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