7
FLY-Gができるまで一人の犠牲者がいる。木村春彦の父、謙造である。
木村の記憶の中に住む父親はいつも風船を体に括りつけていた。
「風船が家中の至るところにあるもんだから、うちは玩具屋か遊園地かと思っていた」と木村は「フライング社創立四十周年記念誌」の中で語っている。
謙造は風船による空の冒険に取り憑かれていた。幼かった木村と妹の加奈には風船遊びができる楽しい家だったが、風船で空を飛ぶことに魅せられた父親のおかげで、精神的にも金銭的にも母親の苦労は絶えなかった。
自転車屋の商売は総べて女房任せで、自分は風船とともにどこかへ出掛ける毎日。
謙造が目指していたのは風船を使った自力飛行による世界一周の旅だった。
木村はテスト飛行に何度もつきあわされた。
テスト飛行の場所は、家の近所の公園だった。公園には恐竜の背のように盛り上がっている小山があった。その頂上で、謙造は風船をつけたままジャンプをするのである。
「おれはおまえに勉強も野球も教えてやれない。だけど、飛ぶことは教えてやれる」
「本当に飛べるの?」
「飛べるさ。おれには空の女神がついている」
「空の女神って?」
「空にいる女の神様のことだ」
だが、木村が空を見上げてもそんなものは見えなかったし、謙造のテスト飛行も成功した試しがなかった。
木村が覚えている父親の言葉として、次のような名言がある。
「学校の先生も、政治家も尊敬しなくていい。スーパーマンやウルトラマンを尊敬しろ。やつらは空を飛べる。空を飛べるやつは神様と同じくらいに偉いんだ」
それで木村はどうしたら飛ぶことができるのか、小学校に入る前から研究していた。
「親父と一緒に研究するというよりも、親父のために始めたんだ。親父に偉くなって欲しかったからな」と先の「フライング社創立四十周年記念誌」の中で木村は述べている。
「親父は風船の中にヘリウムガスを詰め込むことしか頭になかった。今にヘリウムの時代がやって来る、ヘリウムを信じろってな。水素なら時代を背負って立つスーパースターになれるかもしれないけど、ヘリウムじゃせいぜいアイドル程度だろう。でも、親父はヘリウムの輝かしい未来というのを信じて疑わなかったね。で、おれにヘリウムの素晴らしさを説くわけだ。太陽から授かったものだとか言ってな。だけど、おれのほうはそのとき、もうヘリウムを卒業してたんだ。卒業っていうからには、当然入学もあって、ヘリウムのガスの入った風船を初めて親父からもらったときは、うれしくてな。何か凄い宝物をもらった気になったんだ。風船の糸をぎっちり握ってな、もう離したくないわけだ。寝るときも糸の輪っこを腕に巻いて離さなかったと思う。だけど、何度目かにもらったときに調子をこいて外へ持ち出したんだ。たぶん近くの公園へ行ってそこらの子供に見せびらかしたかったんだろう。だけど、おれも小さな子供だ。手にばかり注意をしていられず、何かに気を取られて、糸を離してしまったんだ。風船は空へ上っていく。おーい、行かないでくれーってな感じだ。おれはうちへ泣きながら帰ったよ。青空へ風船がぽつんと上がっていくのは悲しいね。あんなに悲しいものを見たのは初めてだった。その悲しみで泣けたなら、おれは詩人になっていたかもしれないけれど、泣いたのは単純に宝物を空に取られたからだ。おれは空を恨んだね。とまあ、ヘリウムの風船にはおれなりの思い出があるわけだ。それで卒業したって言うのは、おれも最初はヘリウムの風船で空を飛べるんだと思っていた。親父以上に思っていたかもしれない。だけど、風船を持ったままジャンプしたって、親父は浮ぶことすらできなかった。おれはヘリウムをあっさりと見限ったよ。それが小学校の一、二年の頃だったかな、そのあたりから飛ぶための研究を自分なりに始めたわけだ。何度やっても失敗続きの親父を救ってやりたいと子供心に思ったんだな。研究と言ってもまだ小さな子供だ。何かをつくるっと言うんじゃなく、観察したり、考えることが精一杯の方法で、紙飛行機を飛ばして、なぜ飛ぶことができるんだろうとか、シャボン玉や葉っぱが宙に舞っている、それはなぜだろうと考えたりしてな。人間は猿からじゃなく鳥から進化すればよかったのに、そうすればみんなが飛べたのにと思ったりもした。とにかく、その頃に考えていたことは、単純なものだ。つまり、人は浮くことができれば飛べる、ということだ。親父はヘリウムの風船の数を増やしたり、大きな風船を使うことで体重の壁を破ろうとしていたけど、おれは人がガリガリに痩せればいいと、紙みたいにペラペラになれば可能じゃないかと考えてたわけだ。だけど、そのうち親父は奇妙なことを言いだしたんだ。空の女神を見たと。空の女神のことは前々から夢物語のように話してたんだが、実際にこの目で見たと言うもんだから、おれは親父の頭が変になってしまったか、変になろうとしているのか、どちらかだと思った。だけど、おれもその女神をやがて見ることになるんだ。親父が空へ飛んでいった日にな」
木村春彦が空の女神を見たのは十歳の夏だった。この日、木村は父親に連れられて、一九七二年の冬季オリンピックの思い出が残る大倉山ジャンプ台にやってきた。札幌の街を一望できる見晴らしのよい場所にあり、家の近くの公園よりも空には近かった。
謙造がそこをテスト飛行の場所に選んだのは、「鳥人」と呼ばれていたジャンパーにあやかろうとしたのだろう。
木村は頂上の展望台でボンベを使って風船にガスを入れるのを手伝った。そのガスはいつものヘリウムガスではないことはすぐに分った。上昇したいという力が風船の中で漲っていた。風船は暴れ馬のように重りで結ばれたロープを激しく引っ張った。まるでガスが意志を持っているかのようだった。それはもう人間がなだめても、言うことをきくようなものではなかった。木村はガスのパワーに大きなショックを受けた。父親は自分よりも上を行っていたからだ。父親を空へ飛ばすのは、自分が研究した発明品でなければならなかった。だが、父親は自分の想像を超える、すごいガスをつくったのだ。父親のテスト飛行は百パーセント成功するだろうと木村は思った。
「親父はそれをスーパーヘリウムだったかスペシャルヘリウムだったか、そんな名前で呼んでいたと思う。おれがガスの秘密をきくと、太陽の授かりものと空の女神の力に勝るものはない。アルキメデスもニュートンも糞くらえだと訳の分らぬことを言いやがるんだ」
その日の正午までにボンベを空にし、謙造は風船のロープをベストやベルトのリングに固定した。直径一メートルくらいのものから五十センチメートルくらいのものまで、三十個ほどつけた。
風船は眠っていた風を起こし、風は不機嫌そうに謙造のもとへ集まってきた。唸りを上げてぶつかる風は、謙造を空へ早く追い払おうとする。謙造の両足は地面から幽霊のように浮き上がり、木村は父親が風に攫われないように父親の腰から垂れている登山用のロープをぎっちりと握った。ロープの先は輪になっていて、その中に鉄の重りが通っていた。
謙造は腕時計を見て、あと一分ちょっとで十二時になることを確かめると、
「じゃあ、ちょっと空の散歩に行ってくる。三十分くらいで戻ってくるから、おまえはここで待っていろ」と息子に声を掛けた。
「本当にここに戻ってこれるの」木村は心配そうに聞いた。
「ああ、戻ってくる。おれが命じれば、この風船はどこへでも行くようにできている」
「でも、そのガスは、絶対に言うことをきかないよ」
「おれがつくったんだ。心配するな」謙造は余裕の表情を浮べた。「そんなことより、おまえ、おれが好きか?」
「うん。好きだけど」
「どのくらい好きだ」
「どのくらいって」
「このくらいか?」謙造は腕を広げて見せた。「それともあの空いっぱいくらいか?」
「その真ん中くらいかな」
「おまえの答えはいつも真ん中だな。たまには大きいほうを選んでみろ」謙造は優しく笑った。
「じゃあ、空いっぱいくらいにしておくよ」
「おれも空いっぱいくらいにおまえが好きだ。おまえはおれに似ているからな。おい、ちょっとロープを引っ張れ」
「どうしたの?」
「おまえを撫でるんだ」
木村はロープを引いた。父親のごつい手が下りてきて頭を乱暴に撫でた。
「いいか、今に空の時代がやって来る、空を信じろ。みんなが空を飛べるということは、みんなが偉くなるということだ。みんなが偉くなるということは、偉そうなやつがこの世からいなくなるということだ。そんな時代を一緒につくろうな」謙造は言い、もう一度腕時計を見た。「さあ、十二時だ。重りを外してくれ、空の女神が、おれを待っている」
木村は重りからロープの輪を抜き取った。謙造はカラフルな風船にぐんと引っ張られ、夏の空へ舞い上がっていった。
それっきり、謙造は空から帰ってこなかった。
「親父が青空の中でちっちゃな点になってな、悲しくて、悲しくてな、わんわん泣いたよ。子供心にも、親父にもう二度と会えないって分ったんだろうな。でも、いつまでも泣いちゃあいられなかったんだ」
そのとき、木村は見たのだ。空の女神を。
空の女神は三十メートルくらい上空の宙に浮び、ひらひらした透けたドレスをなびかせて、「さあ、おいで」とでも言っているように手招きをしていた。
「空の女神を見て、おれの涙は吹き飛んだ。びっくりすると言うよりも、おれは何だかホッとしたんだ。親父は頭が変じゃなかったんだってな」
それから木村は、世にも不思議な体験をする。木村はそのときの感覚を覚えていて、断じて幻覚ではないと言う。
「すけすけの空の女神に見とれていると、渦巻く雲を引き連れた台風の目のように、ぐるぐると空に穴が開いたんだ。そこから凄まじい強風が吹いてきて、おれはあっというまに上空に飛ばされた。しかし、おれはおれではなく紙飛行機になっていたんだ。おれは風に乗っていい気持ちで軽やかに飛び回った。が、次に信じられない重さを感じた。上から重力が掛かり、地上どころか土の奥深くまで落ちて、おれのからだはグロテスクに歪んだ。闇の中で、おれは化学元素になった。HだとかHeだとか、何の元素か確かめる暇はなかったよ。おれはすぐにまた落ち始めたのだから。こんどは林檎だ。おれは林檎になって落ちていたんだ。落ちた先は海の中で、水飛沫が上がったと思ったら、おれは青銀の魚になって海中をもうスピードで泳いでいたんだ。その勢いで海面を飛び出すとおれはハヤブサになり、雲を突き破ると鉛筆型のロケットになっていた。大気圏から宇宙へ出ると、ビッグバン直後の原始ヘリウムガスのようなものになった。息苦しい気持ちを感じた瞬間、おれは病院のベッドにいて、だれかに無理やり薬を飲まされた。体重がゼロになる甘い錠剤だ。おれはおれの形のまま窓から外にふわふわ流された。風がおれを攫っていき、風は上昇気流だとか雲だとか光の欠片だとか、空の恵みの総べてを引き連れて、ごおおおっと展望台に置いてある空のボンベの中に入っていった。おれは吸い込まれるのを免れたが、空の女神がくれたエネルギーは残らず入った。風は収まり、空にはもう女神はいなかったが、ボンベが生き物のようにぶるる、ぶるると震えていた。それは爆発を起こしそうな震えじゃなかった。上昇したくてしたくてたまらない、そんな震えだった」
木村は父親が裏小屋に溜め込んでいた数々の実験道具を使い、「空を飛ぶ」ための研究を本格的に開始した。
「親父はおれをテスト飛行に連れ出しても、裏小屋だけは絶対に見せてくれなかった。危ないからと言ってな。親父がいなくなって初めて足を踏み入れたとき、なんだここはって思ったよ。外からじゃ分らなかったけど、中は木村研究所ってな感じだった。スイッチがついた機械やお粗末なガスプラントのミニ設備もあったりしてな。中学校の理科の実験で使うような試験管セットや飛行機の模型もあった。でも、おれが何よりも驚いたのは床に散らばっていた夥しい数の鳥の羽だ。蝶やトンボの羽もスーパーの袋に詰めてあった。飛べるやつから親父は何でもいいから盗もうとしてたんだろうな。それほど親父は飛ぶことに執着してたんだ。あと目についたのは、ボンベだ。親父が愛してやまなかったヘリウムガスのボンベ以外に、ぴかぴかに磨いたボンベがあって、それには黒マジックでこう書いてあった。『空の女神の贈り物』ってな。親父はおれよりも先に空の女神に見初められたのに、しくじった。親父は失敗の教科書になって、おれに教えようとしたんだろう。つまり、のちのFLY-Gの誕生には親父も一役かっていたっていうわけだ。たいした親父だよ」
木村は最初空の女神の贈り物(スカイエネルギー)を無視していた。父親を空に葬ったものに手をつける気にはなれなかったからだ。それで木村は動力をつけたプロペラ式の飛行や遠心力の利用などを暫く研究していた。だが、生身の人間が空を飛ぶというコンセプトで、いちばんシンプルな方法を追求していくと、やはり父親のやり方を参考にするしかなかった。父親の謙造は大好きなヘリウムガスにスカイエネルギーを融合させて、スーパーヘリウムを発明した。
「ヘリウムは一人っ子の一匹狼みたいなもので、兄弟や仲間とすぐつるみたがる酸素みたいにやわな元素じゃない。いわゆる化合を一切拒否するアウトローだ。スカイエネルギーはこのヘリウムのガスをパワーアップさせる不思議な働きがある。親父はそれを発見した。ただ親父のやり方だと危険すぎる。おれが大倉山シャンツェでガスの秘密を聞いたとき、親父は答えを教えてくれず、アルキメデスもニュートンも糞くらえって言った。恐らく親父は、浮力と重力のバランスを考えず、スカイエネルギーに漲っている上昇パワーの総べてをヘリウムガスに与えたのだろう。それじゃ危険すぎる。それだと、ガスが絶対の意志を持ってしまう。上昇しようとするパワーが強すぎて、それを利用して飛行する人間は二度と地上に戻ってこられない。ガスに意志はなくていいんだ。従うだけでいいのだ。このガスから意志を奪うっていう研究に二十年以上掛かった。あとそれにスカイエネルギーを永遠に絶やさないための増殖装置もつくった。もともと拡散したがる性質があるためこっちの方はわりと簡単にできた。でも、松さんにその時期に会っていたら、日の目を見なかったかもしれないな。そんなに長くかかるものは世の中のためにならないから研究する必要はないと言ってな」
浮力が重力よりもほどよく勝って、空中に浮かび続けることができれば飛べる。
単純なしかも極めて困難なテーマであったが、木村は歳月を掛けて研究に励み、そしてついにFLY-Gを完成させたのである。
「最初そいつをサッカーボールに入れても、全然浮きもしなかった。失敗か、ちくしょーと思って、蹴飛ばしたんだ。すると、ボールはふわふわっと浮きあがり、空中にぴたっと止まった。まるで宇宙に浮かぶ地球のようにな。おれは自分が今何をしたんだろうと思ったよ。思わず自分の足を見つめて、こう蹴ったら、ああなったって。もう一度キックの真似をしたんだ。蹴り方なんてどうでもよかったのにな。だけど無理はない、おれ自身まだFLY-Gの誕生を知らなかったんだから」
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