木村の発明品
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夜の七時前、松本幸介は財団のオフィスでNHKの天気予報を見ていた。天気予報を見るのは長年の習慣だった。東京の明日の天気は晴れだった。北海道の札幌にもお日様マークが点滅していたが、松本幸介は東京の天気しか見ていなかった。そのあと松本幸介は、ソファに百キログラムの巨体を沈めながら、ぼんやりと頭の洞窟に籠ってしまった。
それから暫くたった。テレビはニュースを流していた。
「・・・で、赤ちゃんが見事に空を飛びました。よちよち歩きならぬ、よちよち飛行です」
松本幸介はナレーションにハッとし、洞窟から飛び出した。目の前のテレビを見た。
胴に何かを巻いた赤ん坊が、ラグビーボールのように宙に浮いていた。
三十秒枠のトピックスだったが、松本幸介は最後の三秒しか見ることができなかった。
次のニュースが流れると、松本幸介はNHKに電話を掛けた。
「赤ん坊が飛んでいたニュースのことでお聞きしたいのですが、・・・取材した場所を知りたいのです」
松本幸介は電話で話している間も、わずか三秒の映像を脳裏で再生していた。何度も何度も、脳味噌が擦り切れるくらいに、何度も。
言いようのない直感に、松本幸介はざわわと震えだした。
それはNHKの札幌支局から送られてきたニュースだった。
翌日の二〇〇四年十月四日、松本幸介は千歳行きの朝一番の日航機に秘書の河島と共に乗り込んだ。新千歳空港からタクシーで駆けつけた先は札幌市東区の商店街にある自転車屋だった。 そこは近所のものしか買いに来ないような住宅兼用の小さな店鋪で、軒の上のホンダやブリヂストンの看板はロゴのペイントが剥がれ、赤茶色に錆びついていた。
松本幸介を店の中で出迎えたのは木村の妻、真理子と三歳の息子だった。
松本幸介は財団の名刺を渡し、「ご主人はいらっしゃいますか?」と尋ねた。
「主人はモエレ沼公園に出かけています」真理子が使いなれない丁寧な言葉で答えると、
「ナチを空に飛ばしているの」母親の尻の陰から男の子が言った。
松本幸介はぎょろ目の、小さな子供に妙な存在感を覚えた。男の子の名前は健一と言った。
松本幸介は店の前でタクシーをひろい、モエレ沼公園へ向かった。
モエレ沼公園は自然の中にアートのニュアンスが点在する公園で、三日月湖形の沼、ピラミッドを思わせる山、芝生広場、サッカー場、遊戯施設、石の水路などがあり、札幌市民の気軽なアウトドアライフの場になっていた。
空は爽やかな秋晴れだったが、風は強く冷たかった。
松本幸介は目当ての男をすぐに見つけることができた。黄色く枯れた芝生広場にいて、昨夜のニュースを見た見物人や地元放送局のテレビクルーに囲まれていた。
その人の輪の上の、手の届く空中に、まるで胴上げでもされているみたいに赤ん坊が浮んでいた。浮き袋のようなものが胴体と手首、足首についていて、透明な風の唇が尻を突っつくと、俯せの赤ん坊はよろよろと空中を進んだ。
松本幸介はすぐには声を掛けられず、少し離れたところから河島とその様子を眺めていた。松本幸介は唇を結び、冷静さを装っていたが、胸の内は強い衝撃を受けていた。
松本幸介は人間が空中にぽっかりと浮んでいる姿がどうしてこんなにも美しく感動的なのだろうと思った。鳥が美しく見えるのは、単にそのプロポーションや翼のせいではないことをここで初めて理解した。それは空中を飛ぶことができるからだ。
「これです、これですよ、私が求めていたのは」
松本幸介の言葉は日の光よりも輝いていた。
やがて松本幸介は輪の中に入り、木村春彦に歩み寄った。
松本幸介の握手の手に、差し出してきた木村の手は機械油にまみれていた。松本はその手を見ただけで、木村という男の真面目さや天賦の才能、そして自分が探していた人物であることが分った。
その夜、松本幸介は河島をホテルに残して一人で木村の店を訪ねた。
午後八時、引き戸の外のシャッターはすでに降ろされていた。天井の二箇所で蛍光管が青白く灯り、大小の自転車が角自慢の山羊の群れのように二人を囲んでいた。
松本幸介はどうして赤ん坊を宙に浮ばせることができるのか、知りたいことをまっ先に尋ねた。
すると木村は拍子抜けするほどあっさりと、
「分りません」と答えた。
「分らない?」
「ええ、でも不思議なんです」
木村は錆取りスプレーや自転車のパーツを陳列してある棚からノズルがついた縦長の缶を取った。メーカーのラベルはついていなかった。簡素なオリジナルの缶である。「これを浮き袋やタイヤに入れると、どうしてか分らないけど浮いてしまうんです」
木村は他人事のように言うと、そばに転がっていたタイヤの空気を抜き取り、缶のノズルの先に細い管をつけた。それを空気穴に差し込み、中のものをシュッ、シュッと注入した。
木村はタイヤを床の上に寝かせた。松本は注目した。しかし、タイヤには何の変化も起きなかった。油で汚れた冷たいコンクリートの床に、横になったままである。
「浮きませんね」松本幸介は言った。
「タイヤには意志がないから」
木村はさらりと言うと、床にしゃがんでタイヤを下から手の平で押し上げた。するとタイヤはゆらゆらと風船のように上昇し、松本の目先で止まった。木村はそれを今度は横から押した。タイヤは壁に向かって宙を滑るように飛んでいった。
松本幸介はそれを見たとき、小型の平べったいUFOが店に舞い込んだような幻覚に囚われた。自転車についている総べてのタイヤも実はUFOで、一斉に飛び上がるのではないか。この木村という男も地球の人間ではなくエイリアンではないだろうか。そんなことを一瞬のうちに思った。その想像を払拭した途端に、凄まじい興奮が松本の胸内でワッと沸き上がった。
「すごい、すごいよ、信じられない!」
松本幸介は静止しているタイヤのそばまで歩いていった。ゴム臭いタイヤの縁を指の腹で触ると、ちょっと押してみた。タイヤはすーっと宙を移動した。
「こんなことって、ありえるのでしょうか。まるで特撮の世界にいるようです」
だが、タイヤには何の仕掛けもなかった。
「素晴らしい、実に素晴らしい!」と言って、松本幸介はノズルがついた缶に注目した。「中身は何ですか?」
「ガスですよ」
「マジックガス、ミラクルガス、それは想像つきます」
松本幸介はここで初めてマジックガスという言葉を使った。それはのちに商品化されたとき、FLY-Gと名づけられるが、松本幸介はずっとマジックガスと言い続けた。
「で、そのマジックガスの正体は?」
「分りません」
「またその答えだ。あなたがつくったんでしょう」松本幸介は苛立って言った。
「そうですけど」
「じゃあどうして、分らないんですか」
「どうしてって、別に学者みたいに化学的にやっているわけじゃないから。それにできたのも偶然だし」
木村は無欲な技術者だった。欲のない人間は善人だが、ビジネスの世界を生きてきた松本幸介にはもどかしく思える。だが、商店街で平凡に生きてきた自転車屋の主人に、ぎらぎらしたものを持てと説いてもしょうがないことだ。
「中身の話は、まあいいでしょう」松本は知りたいことを後回しにした。「そのマジックガスを注入すると、タイヤを浮かせたり、赤ちゃんの浮き袋を飛び袋にすることができるのですね」
「ええ、まあ」木村は頷いた。
「息子さんはどうです」
「健一ですか?」
「ええ、健一君は飛び袋を試したことがありますか?」
「健一はだめだめ、重すぎて」
「重いとだめなんですか?」
「重力には逆らえないから」
「娘さんは何キロですか?」
「八キロぐらいかな」
「八キロなら大丈夫なのですね」
「十キロぐらいまでなら浮くようになりました」
「浮くようになりました、と言うことは、前はその重さじゃ浮かなかったのですね」
「ええ、そう言うことです」
「でも、今は十キロまでなら浮くようになった」
「ええ」
「と言うことは、この先、二十キロ、三十キロの人間を飛び袋で浮かせるのは可能と言うわけですか?」
松本幸介はそう言いながら頭の中で自分が求めている飛び袋をイメージしていった。
「やってみないと分りませんけどね」
「やってみると言うのは、このタイヤの中にいま入っているものを改善してつくるわけですね」
「ええ」
「どうして浮くのか、ガスの正体がなんなのか、何も分らないけれど、つくることはできるというのですね」
「ええ、だいたいはね。若い頃からずっとつくっていたから」
松本幸介はここで唇を固く結び、ふうっと鼻から息を吐いた。この男は欲はないが技術者としてのプライドのようなもの持っている。だが、明らかに肝心なことをはぐらかしている。やはりこの男は人間の皮をかぶった宇宙人なのだろうか。
「木村さん、秘密は守ります。あなたが何を言っても、わたしは驚きませんし、誰にも公表しません。正直に教えてくれませんか。あなたはこの缶の中に入っているものを、どこで、どうやって手に入れたのですか?」
「どこでって、おれがつくったって言ってるじゃありませんか」
「あなたは嘘つきだ!」松本幸介は木村の心を刺激するように強く言った。「ガスの正体を知らないで、こんな素晴らしい発明が生まれるわけがありません。本当にあなたがつくったのですか?」
「ほんとにおれがつくったんですよ。もとのやつはパワーが大きすぎて使いものにはならなかったんだ」
「もとのやつというのは」
「女神がくれたスカイエネルギーですよ」
「女神って、何ですか」松本が聞くと、
「空の女神」と木村は言った。
松本の眉毛が吊り上がった。眼光が鋭くなり、睨むような、険しい表情になった。
「ほら、信じない。だから言いたくなかったんだ。でも、おれ、本当に見たんですよ、空の女神を。十歳の夏に、一度だけね」
松本は驚いていた。この男も自分と同じ言葉を口にした。空の女神、と。
「あなた、空の女神を見たんですか?」怖い顔のまま松本幸介は言ったが、
「私もですよ。私も空の女神を見たことがあるんですよ」声が光りだすと、表情も一気に明るくなった。こんどは木村がびっくりして、半信半疑の顔で、
「あなたも見たんですか?」
「ええ、二十一世紀が始まった最初の日に」
「すけすけでした?」木村は確認するように聞いた。
「ええ、すけすけでした」
松本は記憶の中にいる空の女神を思い浮かべ、木村に微笑んだ。
「どきどきするくらいすけすけだったでしょう」
「それはあなたが子供のときに見たからでしょう。私の目には総べてが優雅に映りました。でも、木村さんは私よりも遥か前に女神に会っていたんですね。いま、おいくつですか?」
「四十歳です」
「ということは、空の女神を見たのは一九七〇年代の半ば頃ということですね」
「ええ、そうです」
「私もその頃に会いたかったですよ。そうすれば、二十一世紀をこんなにも空しい気持ちで迎えなかったかもしれません。でも、今日、私はあなたに会うことができました。私は偶然という確率性のないものは信用しないことにしているのです。例えば偶然にテレビを見てあなたの存在を知ったこととか、その偶然にできたというマジックガスもです。しかし、あなたから空の女神を見たと聞いてその考えが変りました。あなたと私が出会ったのも、マジックガスができたのも決して偶然ではなかったのです。総べて空の女神の仕業です。私たちは空の女神に導かれて出会ったのです。マジックガスも恐らく空の女神が木村さんに授けたものなのでしょう。だからにこんなにも非現実的で神秘的なのです」
タイヤはまだ浮かんでいた。二十六インチのただの自転車タイヤであったが、実に芸術的で、狭い自転車屋の店内を宇宙空間に思わせるような魔法のパワーを秘めていた。
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