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 松本幸介は二〇〇三年の夏までにビッグライフ社の経営権を譲渡し、株を総べて売り払い、企業との関係を断った。同時に松本は青山の賃貸オフィスに机を置き、プライベートな財団「空の女神財団」をつくった。


 松本幸介はこの財団設立の趣旨を「人が空を飛ぶということの実用化に向けての研究及び開発に携わっているものや、その独自のアイデアの具体化を考えているものへの援助を目的とする」と説明している。


 この基金を求めて世界中からプレゼンテーション用の資料や手紙が財団のオフィスに送られてきた。

 松本幸介はその資料の翻訳や難解な図面に一つ一つ目を通した。中には名高い航空学の権威の学者もいたが、松本はノーベル賞候補者のパトロンになるつもりはなかった。松本は丁寧に断り状を出した。

 このとき、松本幸介は秘書の河島にこう愚痴をこぼしている。

「なぜ、みんな五十年とか百年とか途方もない時間を掛けたがるのでしょう。人間が千年生きるというのならそれでもいいです。でも、せいぜい生きて八十年です、たったの八十年なのです。掛ける時間は、長くてもその十パーセントが限度ではないでしょうか。私は五百年後、千年後に生れたかったですよ。そうすれば私が求めている世界を見ることができるかもしれません。それとも五百年後、千年後に生れても、私は同じようなことを言っているのでしょうか」


 このときの松本幸介の言葉から、のちのフライング社の行動指針となる「10%タイム」が生れている。


 松本幸介は二〇〇四年の九月までに、胡散臭い魔術師、変り者の発明家、幼稚な想像主といったものたちにプレゼンテーションを許可している。百年も時間を掛ける偉い学者よりも、こういう人物の話を聞いているほうがまだ気が安まった。

「今から素晴らしい光景をお見せしましょう」

 ドイツ人の魔術師カリガリは、かぶっていた黒のシルクハットをオフィスの抗菌カーペット敷きの床に落とした。帽子の中にステッキを突っ込むと、カリガリは得意そうに巻き髭を撫でた。

「さあ、よくご覧ください。魔法のステッキで、はい、帽子は床からグッドバイ」

 カリガリは手首を回した。ステッキの先の部分が帽子内部の縁に沿って勢いよく動き回る。シルクハットが不安定に回転しだした。


 カリガリは腕を徐々に上げ、手首を更に早く(自動泡立て機並のスピードに松本幸介は笑みを浮べた)回した。シルクハットの回転が安定し、ステッキの上昇につられて、帽子は床から浮き上がった。

「どうです。高速で掻き回すと物体は浮くのです」カリガリは通訳を通して言った。

「それは分っています。分っていますが、人間が飛ぶということにどう結びつけるのですか」松本幸介は黒ずくめの男に聞いた。


 カリガリは黒のマントをつけ、黒の蝶ネクタイを首に巻き、黒のシャツに、黒のタキシード姿だった。

「このステッキと帽子の関係を応用するのです。そうすれば、人類は宇宙の果てまで飛んでいくことでしょう」

「具体的には」

「まず、シルクハットを反対にして頭に括りつけます。それからシルクハットを高速で掻き回す短めのステッキが必要です」

「高速で掻き回す方法は」

「手首を鍛える」

「自分の手でやるのですか?」

「モーター式はやわですからね。自分の手を頭の上にのばして、ぐるぐるやるのが一番信用がおけますよ」

「実にシンプルで、素晴らしいアイデアだ」松本幸介は本当にそう思った。

「そうでしょう」

「誰も考えつかない」

「考えつかないことに挑むのが私のモットーでして」

「私もです」

「ぜひ私のアイデアを採用して、一刻も早く実用化を願いたいものですな」

「結果は後に書面で通知します」

「もしも私のアイデアを気に入ってくださるのであれば、シルクハットは私がアドバイザーをやっているメーカーを紹介しますよ」

「ありがとう」

  結局、カリガリのアイデアは不採用になった。シンプルという点で、松本幸介は評価したが、カリガリほど早く手首を回せるものはいないだろうと思ったからだ。


 次はネズミの話だ。

 遺伝子の研究をしているという、新潟から来た斉藤宏明という小肥の青年はハツカネズミを抱いて現れた。ネズミは背に二つの白い羽をつけていた。斎藤は河島がすすめる椅子には座らず、松本幸介の机の前にもったりと立った。

「僕は人間が飛ぶということを考える前に、鳥はなぜ飛べるのか、人間はなぜ飛べないのかに注目しました」と斉藤は言い、松本幸介にまず質問をした。「どうして鳥が飛べると思います?」

 松本幸介は質問形式の会話は好きではなかったが、目の前の男のためにとりあえず答えてあげた。

「羽があるからですか?」

「違います。そんな単純な答えじゃありません」

「じゃあどうして?」

「分りませんか?」

「分りません。鳥について調べたことがないもので」

「降参ですか?」

「降参です」

「それは、親も、その親も、そのまた親も飛べたからですよ。だから飛べるのです。逆に言えば、人間が飛べないのは、親も、その親も、そのまた親も飛べないからです。それはなぜだと思います?」

 斉藤はネズミの頭を撫でながら言った。松本幸介はこの男の質問に、今度はつきあわなかった。

「さあ、分りません」

「それは人間の遺伝子が飛ぶということを記憶してないからです。人間の先祖をずっと辿っても、飛ぶという行為を持ったものはいなかった。泳いだり、ジャンプをしたり、齧ったりする先祖はいても、飛ぶという行為を持った先祖はいなかったのです。ところが鳥の遺伝子は飛ぶという行為をばっちり記憶している。それで僕はこのジョンを使って、あっ、ジョンというのはこのネズミの名前なんですけど、ジョンの遺伝子に鳥の遺伝子を組み込んで、ジョンを飛ぶという行為に目覚めさせてあげようと思っているのです」

「嘘の記憶を叩き込むというやつですか?」

「嘘の記憶ですって!」斉藤の眼鏡越しの目が怒った。「素晴らしい記憶ですよ。だって、飛ぶという究極の行為の記憶を自分のものにできるのですよ。嘘の、というそんな陳腐な言葉で片づけないでください」

「これは失礼、あなたの言う通りです。訂正します」

「這って歩く蛇の遺伝子を組み込むのとは訳が違うのですから」

「そうでしょうね。で、その素晴らしい記憶を持ったジョンは、その後どうなりますか?」

「まず、ジョンは飛べることを自覚します。その自覚が肉体を刺激します。背中の骨が突起して羽になるのか、吹き出物のように羽が飛びだしてくるのかそこまでは分らないけど、とにかく、自分も飛べるんだという自我の目覚めによって、肉体が飛ぶという行為のための機能を持つようになるのです。こんなふうに」

 斉藤はそう言って羽をつけたジョンを頭上に掲げた。

「僕の研究が成功したら、まずネズミや豚が空を飛び、やがて人間も空を飛べる時代がやって来ると思いますよ」

「やがてと言うのは、どのくらい先ですか。資料には五年で実現すると書いてありますが」

「理想はね。でも、現実は五千年先くらいかな」

 このプランも松本幸介は不採用にした。理由はもちろん、五千年先までは待てないからだ。ただ、斉藤という青年の馬鹿げた話に一種の夢というものを感じ取ったが、夢を評価する余裕はこのときの松本幸介にはなかった。


 ネズミの次はガムだ。

 アメリカ人のスミス夫人は斉藤以上の夢の持ち主で、十歳の少女がそのまま八十歳になったという感じの老女だった。彼女は両足を膝掛けでおおい、車椅子に座っていた。

「私は昔からコミックのファンでした」スミス夫人は言った。

 松本幸介は通訳を通して彼女の話をソファで聞いた。資料に目を通す必要もメモを取る必要もなかった。ただ聞いてあげるだけでこのご夫人を幸せにすると思った。

「中でも一番好きなのはスーパーマン。スーパーマンはある一つのことを私に教えてくれました。それは飛ぶということはとてもセクシーであるということです。セクシーという印象を受けなかったら、私はさほど飛ぶという行為に興味を持たなかったかもしれません。人間が水平に、あるいは垂直に空を飛ぶ姿は戦闘機よりも力強く、鳥よりも優雅さに満ちています。私はスーパーマンを見て以来、ひょっとしたら人間は地上よりも空が似合っている生き物ではないかしらと思い続けているのです。しかし、残念ながら人間は飛べません。飛ぶことができれば、もしもそれが男の人であったなら、プレスリーよりも女性ファンを集めるかもしれないのに。それで私ずっと空を飛べる方法を考えていたのです。ジェット噴射装置を背中にしょえば、鳥と似たような行為はできるでしょう。しかし、それではセクシーさに欠けます。飛ぶという行為を考えるなら、できるだけ機材を使わず、シンプルな生身の体に近くなければ意味はありません。私はあるときふと、昔見たコミックを思い出しました。タイトルは忘れてしまいましたが、傘を持ったちょっと太目の紳士が出てきました。彼は世界中を旅する旅行家でした。その旅も列車や船や飛行機や気球を使うものではないのです。彼はプーッと膨らませたガムの風船によって世界中を旅していたのです。そして最後にガムを大きく膨らませすぎてしまって、体がぐんぐん浮きあがり、空をふわふわさまよって、とうとう月まで行ってしまったのです。そのコミックを思い出したとき、私は『これだわ!』って心の中で叫んでしまいました。そう、ガムがあったのです。ガムなら空気も汚さないし、コストも安いし、シンプルだし、子供でも簡単に扱えます。膨らんだガムをくわえている口先のユーモラスな部分に目を瞑れば、飛行中の人間のセクシーさも保てると思うのです。私はコミックに描かれていることは総べてが現実になるか、もしくは現実可能であると思っています。私はこの風船ガムを研究して、世界中の子供たちに夢いっぱいの空の旅をプレゼントしたいのです。もちろん自分のシルエットに悲観している大人たちにも。私は彼らにこう言ってあげます。このガムで空を飛べば、そんな人生ともおさらばできますよと。だって、空にいるあなたはとてもセクシーなんですもの」


 真偽はともかく、これらの話はマスコミに漏れ、松本幸介への格好の批判の材料となった。辛口の論客で知られる経済評論家の和竹淳一郎もこう述べている。

「空の女神財団の松本幸介氏は自分の気を紛らすために、国内外から可笑しな連中を青山のオフィスに招いて、毎日の時間を潰している。権威ある人間のパトロンにはならないそうだが、奇人、変人、老人のトーキョー観光旅行には金を出している。空の女神を奉る教祖様にならないだけまだましで、ビッグライフ社と引き換えるには、余りにも幼稚な船出である」


  松本幸介は何も反論できなかった。夢を持つことで、新しい道を切り拓いてきた松本だったが、人が飛ぶという夢は余りにも大きくて、その先の道すらまだ何も見えてこなかった。松本幸介は失意の日々を過ごし、外部から漏れ伝わる批判の声をシャットアウトするように頭の洞窟に逃げ込み、そこから食事のときも出てこようとはしなかった。

 松本幸介はフライング社の社長を退くとき、

「自分は時代の後押しによって特に苦労もなくやって来た」と述べているが、新しいビジネスの夢が形にもなっていないこの時期は、彼も茨の道を歩んでいたのである。

 しかし、苦悩の毎日のその先には、二〇〇四年の運命の秋が待ち構えていた。

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