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 二〇〇一年一月一日。

 二十一世紀の最初の朝に、松本幸介は飛行機で空を飛んだ。この日に自分は空を飛んでいるだろうという三十余年も昔の己の予言通りに行動したのである。しかし、新世紀の幕開けだからといって、飛行機は未来へ向かって飛んでいるわけではなかった。新千歳空港発羽田空港行きの、行き先が決まっているありふれた正月便だった。松本幸介は子供時代の夢を壊さずにとっておいたが、現実の二十一世紀は愚かな夢のゴミ箱になった。


 だが、この新世紀の一番機が松本幸介の発言によって大きな話題になる。

 東京に帰ってきたその直後から、松本幸介はジャーナリストや企業内部から非難を浴びる発言を繰り返す。その一つに「ハイジャッカーは、月へ行けと言った」というものがある。

 松本の話によると、事件のあらましはこうだ。

 

 飛行機が厳寒の北海道から津軽海峡の上空へ出ると、松本幸介は窓下の雲を見るのをやめ、百キログラムの大きな失望の塊を窮屈なシートに預け、静かに目を閉じた。

 それから何分もたった・・・

 突然、機内が騒がしくなった。飛行機の中にハイジャッカーが現れた。彼らは後部の座席から立ち上がった。第一ボタンまでしっかりと留めた黒のロングコートを翻して通路を駆け、予め決めておいた各々の持ち場についた。


 ハイジャッカーは黒コートの男五人。ステンレスの刃物のような銀色ヘアーで、眉毛の下に黒レンズのサングラスを掛けていた。五人のうち四人は身長百八十センチメートル以上で、野球選手のような大男だった。

 一人は機内放送のマイクを奪った。三人は通路の前と中と後ろで乗客を見張った。五人目の男は最後尾の席に残っていた。この男は他の四人よりも三十センチメートルは背が低かった。サングラスも似合っていなかった。しかし、IQは一番高かった。


 IQ男は二つの座席を占領し、そこを操縦席に変えていた。トレイの上で自ら開発した世界一高性能のノートブック型パソコンを開き、黒コートの下の体を猫背にし、繊細そうな指でキーを叩いていた。パソコンのモニターには機体の横断面図が映っていた。コックピットと最後尾の座席がオレンジ色のラインでつながり、「HIGH-JACK!」の文字が赤く点滅していた。パソコンには携帯型の通信機や爆撃ゲームの操縦レバーのようなものが繋いであり、もう一つのトレイの上に置かれていた。なぜそれらのものを機内に持ち込め、スチュワーデスに見つからずにセッテイングできたのかは不明。


 マイク男が極めて紳士的な態度で機内の乗客に伝えた。

「ええー、我々は本機の操縦機能をハイジャックしました。よって本機はこれより我々の管理下におかれます」


 監視役の三人は頭上にのばした拳を振り、「イェェェイ!」と奇声を上げた。


 マイク男は弾け、態度を一変させた。狂った犬のように通路をよたって歩き、頭の悪そうな、乱暴な声で乗客に聞いて回った。

「おらおら、どっか行きたいところはねえか。北朝鮮でも、ハワイでも、南極でも、望みのところによ、連れてってあげるぞ!」


 機長もスチュワーデスも、こいつらは単なる馬鹿だと思った。毎日、新聞を呼んでいる聡明な乗客も、男の言葉を信用しなかった。「操縦機能をハイジャック」そんなニュースを今まで読んだことがなかったからだ。二十一世紀の最初の朝を記念して、なにかどでかいことをしでかそうと考える愚かな目立ちたがり屋は世界に何万といるだろうが、なにも自分が乗り合わせた飛行機でハイジャックごっこをしなくてもいいのに。乗客たちは恐怖よりも正月早々のつきのなさを感じ、とりあえず、男たちの感情の爆弾を刺激しないように、黙って俯いていようと思った。


 しかし、乗客の中でただ一人だけ口を開いたものがいる。松本幸介だった。いかれたマイク男が大股で歩いてくると、

「できれば、もう少し未来へ行きたいです」

 松本は窓側の座席で呟いた。マイク男が立ち止まった。マイク男はサングラス越しに松本を睨みつけた。が、すぐにいやらしい唇を笑うように歪めた。

「おっさん、未来へ行っても、地球は、地球だぜ!」

 マイク男は自分が吐いたその台詞を気に入り、それまで全然頭になかった、素晴らしい行き先を思いついた。男は松本の弛んだ顔を嘲るように見やりながら、IQ男に向かって叫んだ。

「月だ! 月だ! 月へ行け!」


「了解!」

 モニターには、冴えた空が映しだされていた。中央でメモリがついた縦線と横線がクロスし、その十字ラインの上に飛行機のCGイラストが載っていた。フレームが現れ、飛行機を固定するように取り囲んだ。手の平が汗で濡れてきた。IQ男は手の平をコートで拭った。それから、トレイの上の操縦レバーを握った。ゆっくりと手前に引いた。画面の、虫のような飛行機は、鼻先を徐々に上に向けた。

 ほぼ満席の機内はみんなが息を止められるだけの時間、なんの変化も起きなかった。機は足元で単調な轟音を轟かしている。月の引力に導かれるように上昇することはなさそうだ。コックピットの機長も、スチュワーデスも、乗客も、安堵の呼吸をした。


 ハイジャッカーは焦燥と混乱の塊になりかけた。

 が、突然、機体がふわっと浮き上がった。

 飛行機は天空の滑走路から今離陸し、急角度で上昇を始めたのだ。ハイジャッカーは操縦機能を奪うことに、本当に成功したようだ。

 しかし、操縦は大失敗だった。飛行機はイルカジャンプのように飛び上がったが、目には見えない大きな輪を通り抜けると、地上に向かって急降下を始めた。


 エアマスクが蛇のように落ちてきた。シートベルトを締めていない乗客やスチュワーデスは、床から足を剥がされ、宙に飛ばされた。土産袋も、雑誌も、紙コップも固定されていない総べてのものが機内に散乱した。腹を千切られそうな痛みと落ちていく恐怖。乗客の殆どは失神し、意識のあるものは頭を震わせ悲鳴を上げた。


 ボロ毛布をかぶった死神の使いのもの達が機内にピラニアのように現れた。松本にも群がった。ハイジャッカーにも食いついた。五人のハイジャッカーは死神に骨まで喰われたかのように機内から消えた。死神の使いは、機内の総べての人間を月よりも遠い所へ連れていこうとしていた。もしも、人間が・・・飛ぶことができれば・・・死神に攫われることはなかったのだ・・・松本は落下する飛行機の中で死を覚悟した・・・


 飛行機は雪雲の中に真っ逆さまに突っ込んだ。すると、飛行機という器の壁がなくなってしまったかのように機内に雲が入り込んできた。機内全体が一瞬視界ゼロになった・・雲が消えて・・・松本の目に、色があるものや形がある世界が徐々にはっきりと見えてきた。飛行機は水平に飛んでいた。乗客は談笑し、雑誌を読み、何事もなかったかのように各々の座席に凭れていた。酸素マスクも落ちていないし、機内も散らかっていない。ハイジャッカーもいない。死神の使いの姿もない。


 松本幸介は総べてが初期化されたような不思議な光景から目を背け、楕円の窓を見た。すると巨大な胴体の陰から、信じられないものが飛び出してきた。松本幸介は窓に鼻をつけ、魅いられたように見た。それは雲海の上の煌めく世界を飛行機と平行して飛び、松本に向かって微笑み、手を振った。松本は自分がまだ目を閉じているのだろうかと思い、混乱した。


 そいつは鳥ではなかった。まるで空に棲む女神のようだった。

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