第4話 憧れの存在




「え、私まだpedalB♭出せないんですけど…」


隅っこで縮まっていたかわいらしい女性がかわいらしい声で言う。


「えっとそのまま口の中を閉めて及川の真似をして吹いてみて」


僕は及川さんに言われた通りチューバを吹いてみる。


「………pedalB♭からlowB♭までは上がれるみたいだね。lowB♭から上は結構きつそうだけど練習すれば絶対できるようになるから、ぶっちゃけ上の音より下の音の方が難しいからかなり優秀だよ君、ねえ、チューバやってみない?りょうちゃん絶対チューバに向いてるから」

「えっと…考えてみます」


地味だし重いしぶっちゃけチューバをやろうとは全く思っていなかったが僕は及川さんに適当に返事をして誤魔化した。


「うん。あ、そろそろ基礎合奏の時間だ。とりあえずホールに行こうか。及川は指揮をやらないといけないから吹かないけどゆめみん先輩の横でゆめみん先輩の音を聞いてみて」

「わかりました」

「うん。じゃあ、ゆめみん、りょうちゃんのことよろしくね」

「……わかりました」


ゆめみんさんはチューバを持ち上げながら及川さんに返事をする。


「付いて来て…」


僕はゆめみんさんに案内されて上手側からステージに入った。ゆめみんさんはステージの壁にチューバを立てかけて慌てて走って行く。そして二つの椅子を持ってきたゆめみんさんは椅子を並べて置く。


「どうぞ、座って」

「あ、ありがとうございます」


無口で大人しくてかわいらしい人、それが僕のゆめみんさんへの第一印象だった。僕はゆめみんさんの横に座り基礎合奏が始まるのを待つ。


「じゃあ基礎合奏を始めます。よろしくお願いします」


及川さんが指揮台に立ち礼をするとそれに合わせて他の人たちも礼をする。基礎合奏に集まっている人数は二十人後半くらいだろう。その中には楽器を持っていない一年生たちが座っていたりした。フルートパートに一人、サックスパートに一人楽器を持たずに座っている人がいてパーカスに二人、一年生だが基礎合奏に参加するみたいだ。そして経験者のトロンボーンが一人基礎合奏に参加するらしい。あとは特にパートが決まっていないからか客席に座っている一年生が三人僕を合わせて九人の一年生が今日は基礎合奏に集まったようだ。


「じゃあ、ゆめみんからチューニング始めます」


及川さんの指揮に合わせてゆめみんさんが楽器に息を吹き込む。初めて聞くゆめみんさんの音、その音に僕は意識を持っていかれた。先程聞いた及川さんの音ほど大きな音ではない。だが、まっすぐ伸びてぶれない優しく綺麗な音だった。


すごい……すごい……本当にすごい……ゆめみんさんの音は僕を虜にした。


その後の基礎合奏で僕はゆめみんさんの音をずっと聞き続けていた。ずっとこの音を聞いていたいと思えるほどに綺麗な音だった。


「じゃあ基礎合奏の最後にマーチの合奏をしようか、一年生はちゃんと聞いててください」


早川さんの言葉を聞き一年生以外は楽譜を広げる。


「マーチ?」

「今年のコンクールの課題曲Ⅳ番だよ。今年のコンクールではこの曲を課題曲で選んだの。もし合奏研に入ったらりょうちゃんもやることになるからちゃんと聞いてて」


はてなマークを浮かべていた僕にゆめみんさんが説明してくれる。みんなの準備が出来たのを確認して及川さんが手を挙げる。


「テンポはかなり遅めでやるからまずは周りの音をしっかり聞きながら演奏してください」


そう言って及川さんは指揮を始める。パーカスと金管楽器で始まったマーチ、ゆめみんさんの音は曲を優しい音でしっかりと支えていた。ゆめみんさんは音を綺麗に鳴らし四分音符の音を丁寧に刻む。寸分違わぬテンポでメトロノームのように正確に音を刻んでいた。ずっと四分音符を刻んでいたゆめみんさんの音は曲の途中で曲のメロディーになる。


先程までの正確な刻みをやめ流れるようなメロディーへと切り替えた。ゆめみんさんのメロディーは一人でトロンボーンとユーフォ二アムのメロディー二つを相手にしてもしっかりと優しく響いていた。チューバのメロディーが終わりゆめみんさんの音は再び正確に四分音符を刻む。


そして曲はtrioの部分へ入って行く。ゆめみんさんはずっと四分音符を刻んだあと一気に伸びる音に変わり階段のようなリズムを刻む。そして一瞬ゆめみんさんが再びメロディーに上がり再び四分音符に戻る。曲の最後の伸びでゆめみんさんはしっかりと曲を支えていた。そして最後にチューバの、ゆめみんさんの音が微かに残るようにマーチを拭き終えた。


時間にして僅か数分、僕はゆめみんさんの音に魅了されていた。吹奏楽のことなんか僕にはわからない、誰がどこを吹いているかすら僕にはわからなかったがゆめみんさんの音だけは鮮明に僕に聞こえてきた。


ゆめみんさんの音に魅了されていた数分間はまるで夢を見ているように幻想的で充実した時間だった。

その日の練習はそれでおしまいとなり一年生は解散、上級生はこれからのためにミーティングを行うようだった。


翌日、僕は一人で文化ホールを訪れた。


「あ、りょうちゃん今日も来てくれたんだ。ありがとう」


ホールに入った僕をあーちゃんさんが出迎えてくれた。


「あの、僕合奏研でチューバ吹きたいです」

「わかった。たぶんチューバ志望はりょうちゃんだけだからチューバで決まると思うよ。昨日と同じ場所で及川君とゆめみんが練習してるから行ってきて」

「はい。わかりました」


僕はあーちゃんさんに返事をして舞台の上手に向かう。上手に入ると及川さんがチューバを吹いていた。その横ではゆめみんさんがチューバを楽器ケースから取り出していた。


「お、りょうちゃん今日も来てくれたんだ」


及川さんが嬉しそうに僕を出迎えてくれた。


「あの、僕チューバがやりたいです」


理由は簡単…憧れてしまったから…あの、優しい音色に…気づいたら虜になっていた。僕も、あの美しい音色を奏でたい。本気でそう思った。


チューバを吹きたい。と言った僕を及川さんとゆめみんさんは歓迎してくれた。


こうして僕はチューバパートの一員となった。だが、この後に起こる争いを僕は全く予期できていなかった。だってそれはチューバパートとは無縁の出来事だったのだから…














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