第5話 謝るということ



 ――知らなかった。


 毎週水曜日、牧野は部活後にピアノ教室に通っていた。サッカー部の中では、周知の事実だったらしいが、部外者の啓太は知る由もなかった。いつもと反対側の道から帰って行ったのは、向こうの駅で親の車が待っていたからだ。

 こみ上げてきた後悔の念に、啓太は薄暗い生徒会室の天井を仰いだ。

 ところどころに茶色いシミが付いていて、一部がはがれかけている天井は、啓太の晴れない、すさんだ心を映し出しているようだった。



 帰り道、ピアノの件を知った啓太は、自分のとった軽はずみな行動を激しく後悔していた。


「どうしよう、電話して謝った方がいいかな」


 啓太が深刻な表情で言うと、それを隣で聞いていた陸は、歩きながら飲んでいた水筒を吹き出した。


「大丈夫でしょ、そんぐらい」


 陸は、全く気にしていないようだった。

 人をからかうことに慣れている陸にとっては、相手がキレたことなんて、さして気にすることでもないのだろう。しかし、慣れない啓太にとっては一大事であり、自分の犯した罪の収拾をどうつけるべきか、途方に暮れていた。

 家に帰って、啓太は電話をかけるべきか真剣に悩んだ。

 悩んだ挙げ句、啓太は一度、学級内連絡網のプリントを片手に、受話器を取った。


 ――問題になる前に、謝ってしまった方が絶対にいい。


 啓太はそう思い、牧野の家の電話番号を打ち込み始めた。

 しかし、最後の下四桁のところで、番号を打ち込む指はふと止まった。


 問題になるって、どんな問題だ?牧野はそもそもああいうキャラだし、今日はたまたま水曜日だっただけで、あんなイタズラは日常茶飯事なはずだ。牧野も、そこまで気にしてないんじゃないか――。


 そう考えると、啓太は急に、謝るという行為が馬鹿馬鹿しいことに思えてきた。事を大袈裟に捉えているのは自分だけかもしれないと思うと、妙な恥ずかしささえ感じた。


「やっぱり、大丈夫か」


 啓太はそうこぼし、番号を打ちかけていた受話器をそっと元に戻した。



 あのとき、電話をかけていれば、少しは状況が変わったかもしれない。

 生徒会室の窓からは、校庭ではしゃぐ生徒たちの声が聞こえてくる。その声は、重く沈む啓太の心を、まるであざ笑っているかのように聞こえた。


「さすが、宮島くん、早いのね」


 呆然としていた啓太の耳に、突然、優しい女性の声が飛び込んできた。

 驚いて、生徒会室の出入り口に目をやると、そこには生徒会担当の石橋いしばしひとみ先生が、生徒会用のファイルを携えて立っていた。


「みんなは、まだ来てないのね」


 石橋は、しんとした生徒会室を見回した。それから、啓太を見てほほ笑んだ。


「生徒会の中でも特に優等生ね、宮島くんは」

「ありがとうございます」


 石橋の無垢なほほ笑みに、啓太は、ぎこちない笑みを浮かべるしかなかった。


 もし牧野の件で、自分の名前が挙がったら、石橋先生は、みんなは、一体どんな顔をするのだろうか。


 どろどろとした不安と憂鬱が、啓太の胸にじんわりと広がった。

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