第13話 13日目
その日ぼくは、二回嘔吐した。
**
「もうすぐ学祭だね」
うちの大学は春と秋に二度の大学祭がある。秋の方が規模も大きく、ミスコンなどが開かれるのもそっちらしいけれど、ぼくは初めての学祭に心躍らせていた。
心なしか大学中も浮足立っているような感じがして、早くも立て看板やステージなどが設置されている。
ぼくたち民間伝承研究会は、大学に認可されていない非公式団体なので、当然学祭で何か成果を見せる必要などない。他のサークルは、新入生獲得のためや自分たちの自己満足のために色々な成果物を展示したりするみたいだけど。
うちも、今までに解決、解析してきた不思議な事件をレポートにまとめるなりして世に出せばいいのに、と思ったりするけれど、部長の岩崎くんが何も言わないので素直にそれに従う。
学部の友達はサークルや有志でバンドを組んだり漫才の練習をしたりと忙しそうだ。ぼくだって大学生なのでバンド活動にはすごく興味があるけれど、Fで挫折したぼくを引き入れてくれる人なんていないだろう。
当方ボーカル、バンドメンバー募集中。
歌詞にメロディをつけてくれる方募集中。
甘えるな。
「そうだな、お前はなんかしないのか?」
「なんかって……岩崎くんが何もしないなら何もしないよ」
「あー、うちで、じゃなくて他のサークルとかでだ」
「ろくに顔出してないところばっかりだし、有志で何かするようなモチベーションもないかな」
「そうか。ところで話は変わるんだが、音楽のバンドに興味はないか?」
「……!」
ぼくが少しだけ喜びを顔に出すと、岩崎くんはにやりと笑って言った。
「俺がボーカルをやるから、何か楽器やんないか?」
「甘えるな」
と、その時、失礼しますと部室の扉が開いた。
うち、民間伝承研究会には時折こうして依頼人がやってくる。というのも、不思議な現象が起きればここに相談すればいい、という噂が学内を駆け回っているからだ。
だからこういう突然の来訪者には慣れっこで、いつものようにコーヒーを淹れる準備をしてぼくは席を案内した。
「あの、ここに来れば、不思議な」
「あー、前置きはいいから何があったのかと何をしてほしいかを単刀直入に言ってくれ」
岩崎くんが上から目線な口調で先を促す。たぶん年上なんだけどな。
そして相談者から聞かされた話は、必死で閉じていたぼくの記憶の蓋を無理やりこじ開け、辛い記憶を呼び起こすものだった。
「緑色のゾンビを見ただぁ?」
「はっ……はぃ」
岩崎くんの大声に依頼人は委縮して、小さくなる。もちろんぼくは、彼に悪意なんてなくてただ単にテンションが上がっているだけだと知っているのだけれど、岩崎くんの人となりを全く知らない彼にとって、それは委縮するにふさわしい威嚇だった。
「岩崎くん、高木さんが怖がっている」
ぼくはこっそりと耳打ちして岩崎くんを宥める。
「すまん、大きな声が出た。それで? いつ、どこで、何を見たのかをもう一度教えてくれ」
「はい。塾講師のアルバイトを終えてラーメンを食べた後だったので、時間は十一時を過ぎていたと思います。学内のメインストリートを通って家に向かっていた時、それを見ました」
「緑色のゾンビか」
「はい。全身緑色に、金色の髪の毛をしていました」
「ふむ、緑色の服を着ていたわけではなく?」
「はい……あれはほとんど全裸でした。ズボンだけ履いていたので、即通報という判断を下すことはできませんでしたが……」
「ってことは男なんだな」
「おそらく。筋肉質でほとんど胸のない女性という可能性は捨てきれませんが」
「なるほどな。で、それが歩き回っていたのか」
高木さんは無言で頷いた。
岩崎くんはすごく苦い顔をしていた。その顔はまるで、心当たりがあるかのようで。
そう思っていると彼はぼくのほうを見て、「お前も心当たりがあるよな」と言ってきた。
「え、思い浮かばないけど」
「いいや、あるはずだ。あるに決まっているんだ。お前は無意識に記憶に蓋をしてしまっているだけで、絶対にそれを見たことがある」
「ええ、いや、思い……」
「全身が緑色で、髪の毛が色素の抜けた白っぽい金髪」
「……いや」
瞬間、ぼくの脳裏に一瞬だけある映像が映った。
なんだ、今の映像は。
「どうやらよっぽど思い出したくないんだな。まあわかるよ。俺だって気持ちのいい記憶ではない」
「どういうこと? ぼくは一体昔、何を見て、何を忘れているの?」
「知りたいのか? 一回だけ警告してやるよ。忘れているのなら、お前はそれを思い出さない方がいい」
「……」
岩崎くんの言うことはたいてい正しい。だからこの記憶もきっと思い出さない方がいいのだろう。それでも、喉元まで出かかっているんだ。
ぼくは覚悟を決めて、「教えて」と言った。
岩崎くんが口を開く。
「『グリーン姉さん』」
「っ!」
その一言は、ぼくの記憶の蓋を開けるのに十分で、ぼくの精神と胃腸を揺すぶるに十分だった。
グリーン姉さん。
一時期ネット上で拡散された都市伝説の一つだ。そのショッキングな画像は瞬く間に拡散され、様々な悪戯、ブラクラにも利用された。
後に『検索してはいけないワード』に並べられ、決して興味本位で検索をしてはいけないインターネット界の禁止ワードになった。
グリーン姉さんとは、文字通り、緑色の女性を指す。
こういうと少しだけ語弊がある。歯に衣着せぬ言い方で、単刀直入に言おう。
全身が緑色に染まり死蝋状態になった、死体の画像だ。
瞼は爛れ、眼球がむき出しになっていて、鼻や口からはどす黒く変色した血を噴出させている。くすんだ金色の髪の毛は激しく痛んでいて、死ぬ直前の凄惨さを想像させる。
しかしなにより、その死体が緑色に染まっていることが衝撃的だった。
緑色の体にはところどころ黒いシミがついていて、その肉々しくて生々しい体表は、それが塗られたものではなく、体の内側から染まっているものだということが理解できる。
硫化水素自殺。
硫化水素を吸い込み自殺をすると、血液中のヘモグロビンが硫化水素と結びつき緑色の硫化ヘモグロビンが生成される。そうして血液が緑色に染まった結果、体表にまでその色が浮かんでくるそうだ。ほとんどの場合は斑点状に緑色と化すらしいが、全身が綺麗に染まっているそのショッキングな画像は幼いぼくに一生消えない傷を刻み付けた。
「ごめん、ちょっと」
完全にその映像を頭に投影させてしまったぼくは慌ててトイレへと駆け込んだ。
数年経っても全く免疫ができていないどころか、あの日と同じ顛末を辿ってしまった。
ぼくは胃の内容物を全部吐き出し、水道水でうがいをした。
戻ると、気まずそうに岩崎くんがハンカチを差し出してきた。
「悪かった」
「いや……ぼくが頼んだことだから」
高木さんは完全に置いていかれたような顔で、「あれ? 僕またなにかやっちゃいました?」という顔をしていた。やってないです。
その日の夜、ぼくは晩御飯を食べたことを後悔した。
**
夜中。高木さんが“それ”を見た時と同じ時間帯。ぼくと岩崎くんは大学内に集合していた。
「別に無理してこなくてもよかったんだぞ」
と岩崎くんが気を使ってくれている。ぼくはそれをありがたく思いながら手を振った。
「や、大丈夫だよ。そもそもぼくのトラウマはあの死体画像にある。高木さんの目撃情報によると、そいつは生きているみたいだし」
彼は何か言いたげな顔をしていたけれど、そのまま黙り込んだ。
それに、とぼくは言葉を続けようとした瞬間、図書館横の階段から人影が現れた。
まだ薄暗くてよく見えない。
その人影ははっきりとした足取りで夜のメインストリートへ歩き出す。
そして、街灯に照らされ……
「岩崎くん!」
その男は、全身緑色をしていた。
頭にちらつく画像を必死に振り払う。
大丈夫。ぼくのトラウマはあくまで死体だ。姉さんだ。あいつはなんだ? 生きているし、兄さんだろう?
全く別、全く別。
ぼくは自分にそう言い聞かせる。
深呼吸に合わせるかのように、岩崎くんは背中をさすってくれる。
数回、胸を上下させて、呼吸が落ち着いてきた。
顔を覗き込んでくる岩崎くんに、大丈夫だよ、と顔で示す。
さあ、トラウマの正体を暴きに行こう。ぼくは奮い立った。
大丈夫だ。
ぼくはさっき言いかけて言えなかった言葉を自分に言い聞かせる。それに、今回はなんだか、コメディのような気がするんだ。
「なあ」
岩崎くんがその緑色をした男に声をかけた。
緑色の全身、青色の短パン。筋肉質な上半身。
「お前、なにもんだ?」
「ぅぅぅううう」
「ひっ」
その男が人間とは思えないような唸り声をあげたため、ぼくはビックリして一歩引く。
やっぱりこいつ、ただの人間じゃないんじゃないか……
そう思った瞬間、岩崎くんがふっと肩の力を抜いた。口元がほころぶ。
「ああ、そっか。そういや全身緑色って言うとそっちの線もあったな。なあ、バナー博士」
彼が謎の敬称を告げると、緑色の男の顔もふっとほころぶ。
「わかってくれましたか!」
「ああ。これはなんのつもりだ?」
「あー、びっくりさせちゃってすいません。これは今度の学祭で披露する予定のコスプレです。歩いた感じとかを試したくて……」
ん?
学祭?
コスプレ?
ぼくの頭に、シリアスな雰囲気にそぐわない聞きなれた単語が流れ込む。
どういうこと? とぼくが間抜けな顔を晒していると、岩崎くんが一言、答えを告げた。
「ハルクだよ。名前くらいは知ってるだろ?」
「わお、インクレディブル」
<『ぐ』りーんにいさん 虚構>
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