16:夢想
「いってぇ……」
エルミットは、忌々しそうな呻き声をあげた。
村の中に吊るされていた、崖に注意、の看板を思い出す。教会の周りも、もっとわかりやすく看板を立てておくべきだったんじゃないか、などと場違いな不満を口にしようとして、やめた。これがブランドンの作戦だったのだとしたら、看板があったとしても、結局同じような結果になってしまうような気がする。
急斜面を頭から転がり落ちて、もしかしたら、しばらく気を失っていたのかもしれない。エルミットは少しだけ頭の中がすっきりしたように感じていたが、気持ちまでがすっきりしたわけではなかった。
村人も、明日やって来る視察の人間も、叩き潰したい相手はまだまだ残っている。
こんなものでは、まだまだ、壊したりないのだ。
「ねえ、君」
そんな思考を遮るように響いた声に、エルミットはぞわりと全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
嗅覚が鈍っていることを差し引いても、足音も、気配も、一切何も感じなかった。それなのに、いつの間にか、美しいあかいろが、そこにいた。まるで悪い夢が、現実に滲み出してきたように。
「僕はおつかいを頼まれてね、迷子の犬を探しに来たんだ。
フェルメネットって名前らしいのだけれど、知らないかな」
あまりにも懐かしくて、ひどい冗談にしか聞こえなかった。
フェルメネット。どうしてだが、聞き取れたつもりで聞き取れていなかった、フィンの不思議な言葉と同じものだと、わかってしまった。わざわざ、エルミットに理解できるように、音を整えてくれたのだろう。あの日のフィンも、エルミット、ではなく、フェルメネット、と呼んだのだ。ミネットお兄さん、と呼んでいるように聞こえていたのも、本当は、メネットお兄さん、だったのかも知れない。
ひどい話だ。そう思う理由に心当たりなどないのに、理解してはいけないものをわかりやすく噛み砕かれて理解してしまったような、ひどく趣味の悪い冗談のように思える。
「残念だったな……おつかいを頼んだヤツは、死んじまったぞ」
「僕にとっては、少しだけ気の長い散歩から帰って来ただけ、なんだよ。
ああ、言い忘れていたね。僕のことは、あのコの兄だとでも思っておいて」
悪夢のように美しいあかいろは、口元だけを歪めて、完璧な微笑みを浮かべて見せる。それだけ完璧な顔ができるのに、左右で色の違う瞳だけは、まるで興味のないものを見下ろしているかのような無機質さだ。その全てが、わざとやっているとしか思えない。
もしも今と違う出会い方をしていたら、例えば素知らぬ顔で街角でそう言われただけなら、上品な女にしか見えない外見で男だなんて、冗談だろう、と吹き出しただろう。こんな状況だからこそ、あのきれいな赤色と似ていて、しかし根本的に全く似ていない美しいあかいろは、何もかもデタラメな方がしっくりくる。
まるでエルミットの思考が伝わったかのように、不思議な輝きをする双眸がゆるりと細められ、ほんの髪の毛一筋ほどの、かすかな、かすかな、面白がるような色がよぎる。
「物分かりの良い犬は、嫌いじゃないよ。人の手を噛むのが好きだって言うのなら、気が済むまで待つのも暇だし、置いて帰ろうかと思っていたのだけれど、ね。僕の気が変わる前に、一つくらいなら、質問に答えてあげる」
形だけはため息が出るほど美しい微笑みに反して、なんとも不遜な、ふてぶてしい物言いだ。
急に質問などと言われても、エルミットには何も思い付かない。お前は誰だとか、本当は何をしに来たんだとか、そんな当たり前の問いかけをしたところで、真剣に答えてくれるような相手だとはとても思えなかった。
苛立ち紛れに、そんなもの要るか、と口にしようとして、しかしエルミットは口を噤む。何故だかわからないが、美しい少年に言われるがまま、何か問わなければいけない気になってしまったのだ。まるで見えない外からの力で、自分の感情が勝手に上書きされているような、むずむずと落ち着かない気分だった。
それでも。
一度だけ、本当に知りたいことが、教えてもらえるなら。
「……なんで、俺だけ、なんだよ」
質問の体をなしていないような、あまりにも言葉が足りない問いに、何が面白いのか少年はくすくすと笑う。白くてきれいな手を口元に添える動きの一つさえもが、驚くほどに品が良くて、ぞっとするほど白々しい。彼の言動も、そこから受ける印象も、何もかもがめちゃくちゃで、一から十までデタラメで、まさに悪夢のようだった。
夢の中のような都合の良さで、エルミットの問いたいことは、彼に伝わってしまったらしい。
「あのコが散歩から帰って来るときはね、かわいそうに、内容を覚えていることが、ほんとうに少ないんだよ。きっと、ショックを受けるようなことが、あったんだろうね。かわいそう、だよね」
同意を求めるような言葉を選びながら、彼はエルミットの気持ちなど、心底どうでもいいと思っているようだった。かわいそうに、と口にする時だけ、どうしてだか、彼は嬉しそうな声をするのだ。ちぐはぐすぎて、一体何を言いたいのか、ちっともエルミットの頭に入ってこない。
「今回も、あのコは土産話の一つも持たずに帰って来ると思ったのだけれど、そうじゃなかったんだ。犬がずっと吠えているからと言って、黒い犬を拾ったことだけは覚えていて、連れて帰って来れないかって、そう僕に頼むんだよ」
「……お前、わざと意味がわからない話し方、してるよな」
「さあ?」
倒れたままのエルミットを見下ろして、美しい少年は、あどけない子供のように首を傾げる。いかにも無邪気そうな動作が、背筋が薄ら寒くなるほどに似合っていて、ひどい冗談のようだった。
「でも、心当たりはあるでしょう? 君、ずっと鳴いてばかりだったのだから。
他のひとたちは、たくさん泣いて、苦しんで、それでも頭の片隅では理解して、諦めていた。それなのに、君だけは、理解できずに前にも後ろにもいけなくなって、ひたすら鳴くしかできなくなった。可哀想にね」
今度の「かわいそうに」は、本当に、どうでも良さそうに言う。
「他ならぬあのコの頼みだから、一度だけ僕が拾いに来たんだ。
泥遊びを続けたいなら、そう言ってくれていいよ。気兼ねなく置いて行ける」
「……遊んでるように見えんのかよ。その、お前の大事なやつを、可哀想な目に遭わせた奴らなんだぞ。
その上、犠牲は無駄にしないだとか、名誉を守るだとか、好き勝手ほざきやがって」
理性では、美しい少年の傲慢さに、腹を立てなければならないとわかっている。
それなのに感情は、見えない巨人の手で無理矢理押さえつけられているように、動けないままでいる。
彼が薄らと口を開くその一瞬の過程すら、大輪の花すら霞むほどに残酷で、その悍ましさに肌が粟立つ。
「遊んでるだけでしょ。意味がないことに、価値を見出そうと必死になっている点では、君も同じだ」
エルミットは、頭を金槌でぶん殴られたような気分になった。
言葉を失うエルミットを見下ろしたまま、「勝手にさせておけばいい」と、美しい少年はこともなげに言う。
決意がぐらついた瞬間に、忘れていた痛みと疲労がどっと押し寄せてきて、エルミットはパニックに陥りそうになった。
「それで、結局どうするのか、まだ僕は聞いていないのだけれど」
過負荷に悲鳴をあげる頭を抱えたいのに、鉛のように重い腕は動かない。足も潰れたように言うことを聞かず、のたうつことすら不可能だ。動けないままでもがき苦しむエルミットに、美しい少年はどこまでも無関心だった。こんな状況で、一体何を答えろと言うのだろう。
苦痛のあまり、硬く閉じた瞼の奥で、火花が散っているのが見える。
「……俺だって……俺だって、なあ……!」
言葉で表すことすら生ぬるいほどの苦痛と屈辱と、言葉にすることもできないぐちゃぐちゃな感情に任せて、血を吐く思いで口に出す。
もしも、それが叶うのならば。
「俺だって……ただ、アイツに……アイツの前で、言えたなら……それだけで、良かったんだ……」
限界を超えた負荷によって、意識が焼き切れる音がした。
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