14:平等

 あまりにもきれいすぎて、頭がどうにかなりそうだなんて、エルミットにとって意味のわからない感情だった。ただただ、頭が痛い。脳が茹でられているような気分、とでも表現すればいいのだろうか。それもわからない。


「エルミットさん……恨まないで」


 立ち尽くすエルミットに、ジュアンがか細い声で言う。男も女も泣き叫んでいる、まるで洪水のような音の中、どうして彼の声を聞き取ることができるのかも、エルミットにはわからない。


「許してあげてください……私は、誰も、恨んでいない……フィンも、きっと、同じです。

 ……復讐は、何も生まない。エルミットさん……あなたは、相手の気持ちを考えられる、優しいひとだから……」


 嘘だ。

 エルミットは今、ジュアンの気持ちも、ブランドンの気持ちも、何もわからない。「ジュアンさんとフィンのためだから」と、エルミットを引き留めようとしたサマンサの気持ちだって、わからない。

 ほんの少しだけわかったような気がしたのは、以前も今も、フィンのことだけだ。何も知らずに、何の意味もないのに、誰にも求められてないのに、ただただ死んでしまっただけの、きれいな、きれいな少女だった。


「……フィンの死も、ジュアンさんの犠牲も、私が無駄にはしない」


 叫び続けて、叫び終えて、喉が潰れたようなひどい声で、嗚咽混じりにブランドンが言う。額を床に擦り付けたまま、顔を上げることもなく。

 それも、嘘だ。フィンが死んだのも、ジュアンが死にそうになっているのも、全部無駄なのだ。エルミットは、それが事実だと知ってしまっている。その事実を他の誰かが勝手に書き換えるなど、業腹であった。

 いつからか、視界の端に、きれいな赤がちらついた。あんなにきれいなフィンを長く見ていたから、彼女の血の色が、目に焼き付いてしまったのかもしれない。そんな、ばかなことを、本気で思った。


「せめて、二人の名誉だけでも、私が」

「違うだろ、オッサン。フィンは、無駄に死んだんだ」


 エルミットの言葉に反応して、萎れるように小さくなっていたブランドンの身体から、怒気が湧き上がる。血走った目に殺意さえ滲ませてエルミットを振り仰ぎ、しかし、そこで驚いたように動きを止めた。

 構わずに、エルミットは続ける。


「自己犠牲に満足するのは、フィンでもジュアンでもなくて、お前だろ。

 フィンは、無意味に死んだんだ。だから、お前も、村の奴らも、視察に来る連中も。

 全員、ここで、無意味に死ねよ。それで、ようやく平等ってもんだろ」


 絶望の眼差しを向けるジュアンと、信じられないものを見るようなブランドンの顔を見返して、それから、エルミットは教会の扉の向こうにいる村人たちをまとめて睨む。

 人々の間から、まばらに悲鳴が上がった。


「血色の目……!」


 エルミットに睨まれ、何人かがたじろぐように後ずさる中。

 逆に、迷いのない足取りで、前へ出る者がいた。


「……いいわよ」


 いつもは口の減らないサマンサは、鼻をすすって、辿々しく言う。エルミットが教会にたどり着く前から、ずっと泣いていた彼女の目は、真っ赤に腫れてひどい顔だった。

 彼女はいつものように声を張ろうとしたようだが、その喉からは弱々しい咳が出ただけだ。

 涸れたままで吐き出された声は、まるで別人のもののようだった。


「いいわよ。あたし、あんたに殺されても。

 だって、あたし、好きだったもの」


 目的語を欠いた言葉も、口が達者でいつもエルミットを丸め込んでしまう彼女らしくないものだった。


「好きだったの。ずっと、ずっと。あと十年早く生まれてたら、あたしがジュアンさんを幸せにしたのにって思ってた。お揃いの黒いワンピースを着て、フィンからお母さんって呼ばれて、三人で朝ごはんを作る想像だってしたわ。それくらい、本気で好きだった。

 本当のことを言うとね、二人と仲がいいあんたにちょっと嫉妬したくらいだったのよ。イノシシ乗りってあだ名も、意地悪するつもりで考えたの。でも、あんたもいい男だから、ちょっとだけ本気で好きになっちゃったわ。……本当に、ちょっぴりだけ、だけど」


 返事をしないエルミットに構わず、サマンサは一人で言葉を続ける。


「だから……ジュアンさんも、フィンも、あんたまでいなくなったら……

 本当に、ブランドンさんが、罪人扱いされちゃったら……

 あたし、どんな顔して生きていけばいいか、もう、わかんない……わかんないのよ!」


 感情を露にして叫び、泣き声を上げるサマンサの肩を、横から飛び出して来た男が掻き抱いた。

 跳ねた茶色の髪が、サマンサに似ている男だった。


「だめだ、サマンサ……自棄にならないでくれ!

 頼む、娘は見逃してくれ……サマンサは、本当に、ジュアンさんとフィンが好きだった。二人のために何かしようと、必死だった。本当に……何も、悪くないんだ。殺すなら、どうか、代わりに私を……!」


 彼は、サマンサの父親なのだろう。必死に娘を庇う姿に、しかし、エルミットの心は動かないままだった。

 悪くないなら、死ななくていいと言うのなら。

 それならば、どうして。


「……フィンだって、何も、悪くなかっただろ」


 魔物のエルミットを撫でてくれた、あの白くてきれいな、いいにおいのする小さな手に、なんの非があると言うのか。

 そう言った途端、耐えきれないように崩れ落ちて泣き出したのは、サマンサではなかった。

 彼女は、「フィンが悪いんだ」と口にした、あの女だった。フィンをことさら大切にしていた筈の、名前も知らない女だった。


「ああ、あああ……!! どうして、どうして……どうして、あの子が死ななきゃならないんだよ……!!」


 感情が壊れたように泣き叫ぶ女は、本当は、本当に、フィンを大事にしていたのだろう。フィンが悪かったのだと、無理矢理にでも理由を付けなければ、耐えきれないくらいに。

 彼らを見て、改めてエルミットは思う。この村は、きっともう、壊れてしまったのだ。

 エルミットは彼らに同調も同情もできないが、叩き潰すことならできるだろう。

 そう思ったのが伝わったように、ジュアンがはっとした顔をする。


「だめです……エルミットさん。恨んではいけない……フィンだって、復讐なんて」


 ジュアンが声を上げ、椅子から腰を浮かせた途端、呻いてその場に崩折れた。

 片手で押さえていた腹から、どぱっと音を立てる勢いで黒っぽい水が飛び散り、引き攣った声を最期に動かなくなる。あまりにフィンの血が赤かったから、黒い水に見えたのがジュアンの血だと、エルミットは一呼吸置いてから遅れて気付いた。それを血だと思ったのは、生臭いにおいが、ぐっと濃くなったからだ。

 血の気を失ったジュアンの白い右手は、エルミットの方に伸ばされていて、けれど、届かないままだった。

 サマンサが悲鳴を上げてジュアンの名前を呼ぶが、彼はもう、答えない。


「──おっと!」


 まるで、ジュアンが事切れたのがきっかけだったようだ。

 その場を飛び退いたエルミットの影を、鋭い白刃が切り裂いた。わざわざ確認するまでもない、山刀を構えるブランドンは、山賊すらも震え上がるほどに凶悪な顔つきだった。


「誰に何と言われようと……二人の犠牲を、私が、無駄にはしない」


 怖気が走るほどの殺気を向けられたエルミットの口元に、凄絶な、獰猛な、牙を剥き出した笑みが浮かぶ。


「知るか。ぶっ壊してやる」


 視界の端が、きれいなきれいな赤に、侵されていく。

 エルミットはそれを感じても、何も嬉しくなかった。フィンがそこにいる気がする、なんて欠片も思わない。寧ろ、彼女は一欠片の意思も残さず消えてしまったと、そんな確信すらあった。

 彼女の赤色は、ただ美しいだけで、その上にも下にも何もないのだ。


 何もないからこそ、ただただ、彼女は美しいのだ。

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