13:真紅

 エルミットが戻った村は、出かけた時に輪を掛けて様子がおかしかった。

 まず、人の気配がない。村に十軒程度しかない民家には、所々にランタンの明かりが灯っているので、本当に誰もいないわけではないのだろう。それなのに、まるで誰もが息を殺して隠れているように、生き物らしい気配がない。

 エルミットは妙に嫌な気分になって、教会に続く石畳の上を小走りに駆けた。

 小雨の降る曇り空の下、奇妙なことに、丘の上は明るかった。


 エルミットがたどり着いた教会からは、火の手が上がっていた。

 それは、思い出したばかりの、魔族の領主がいた居城を想起させる。燃える教会の周りには、十名程度の村人が集まっていて、それぞれが苦渋に満ちた顔をしたり、啜り泣いたりしていたが、教会に近付こうとする者は誰もいない。

 エルミットは、すぐに、フィンとジュアンの姿がないことに気付いた。この教会に住んでいる二人が、この場にいないのは、不自然だった。

 考えるより早く、閉じられた正面の扉に向かおうとしたエルミットを、腕を掴んで止めるものがあった。

 一体誰が邪魔をするのかと、舌打ちをして振り返れば、サマンサがいた。


「ダメよ、エルミット! お願い……ジュアンさんと、フィンの、ためにも」


 意味がわからなかった。燃える教会を眺めていて、何がジュアンとフィンのためになると言うのだろう。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしたサマンサの手を振り払い、エルミットは扉を蹴り開ける。

 閂が掛かっていない扉は、呆気なく開いた。

 開け放たれたその先、燃える教会の中には、いくつかの人影がある。


 エルミットは、意味がわからなかった。

 集まった村人たちの誰もが、簡単に開く扉に触れもせずに、教会を見上げて泣いていたのが。

 炎に照らされてなお、椅子にもたれて俯いたジュアンの顔が、紙のように白いのが。

 最近教会に来ていなかったブランドンが、小さく小さく体を丸めているのが。

 そして、床に飛び散った赤色が、どうしてこんなに美しいのか。

 一瞬、その色彩に魅せられて息をのんだエルミットだったが、すぐに我に返って声を荒げた。


「おい……おい、オッサン! 何してんだよ、周り見ろよ!」


 呼びかけながら大股で近付き、そして、またしてもエルミットは息をのんだ。

 姿が見えないと思っていた、フィンがいた。


 こんな状況なのに、どうしようもなく危機感の薄い彼女は、寝ているのだろうか。

 左右で色の違う、不思議な輝きをしたまるい瞳は、薄い瞼の下に隠れてしまっている。無造作に床を流れる、細くて色素の薄い金の髪は、不規則に揺れる炎の色を反射して、場違いにきれいだった。こんなにきれいな金色は、彼女が山でベリーを摘んでいる時、差し込む陽光の下で見たきりだ。

 ベリーと言えば、この美しい赤色は、一体なんだろうか。熟れた果実より、ずっと鮮やかで。壁を舐める炎の色より、ずっと深くて。今までにエルミットが見た中で、一番きれいな赤だった。


「……殺すつもりなんて、なかったんだ」


 呼吸さえも忘れて、ただ見入っていたエルミットは、ブランドンが何を言っているのかわからなかった。何を、と問おうとして、言葉にならない喘ぐような息だけが口から出て、初めて彼は自分が息をしていなかったことに気付く。息の吸い方を忘れるなんて、エルミットにとって初めての経験だった。おかしな息の吸い方をしたせいで、焼けるように喉が痛み、胸の奥が疼く。


「エルミットさん……?」


 引き攣ったような首を押さえ、咳き込むように息をするエルミットの耳に、囁くような声が届いた。なんとか片目を開けてそちらを見れば、腹を抱えるような姿勢で椅子にもたれかかっていたジュアンが、薄らと目を開けている。

 ジュアンは、生きている。ブランドンも、死んでいるようには見えない。ならば、誰が。「殺すつもりじゃなかったのに」、死んでしまったのは、一体誰が。


「……恨まないで。

 これは、事故だったんです……ブランドンさんも、村の皆も……本当に、私と、フィンを、救おうとしただけ……それだけ、だったんです……」

「ジュアンさん、喋らないでくれ。これは……全て、私の罪だ。頼む、罪人として、死なせてくれ」


 懇願するようなジュアンの言葉も、懺悔するようなブランドンの言葉も、どちらも意味がわからない。

 わからないのだから、納得だってできるはずがなかった。


「……どういう意味だ。一体、何があったんだよ」

「余所者には、関係ない。余計なことを、するな」


 その言葉に、エルミットはカッと顔が熱くなった。

 思わずブランドンを殴り付けてやろうと拳を握り込んだところで、「違います」と諌めるようなジュアンの声が割り込んで、止まる。


「……彼は、他人なんかじゃ、ありません。彼には……全てを知る、権利があります」

「だが」

「お願いします……私は、あまり長くは、喋れません。どうか、お願いします……ブランドンさん」


 掠れ、弱々しい声で、それでも強くはっきりと。ジュアンに頼み込まれたブランドンは、黙って考えているようだった。教会の外に集まった村人たちの、すすり泣く声が風に乗って微かに聞こえる。

 やがて、ブランドンは、話を始めた。覇気を失った、空虚な声だった。


「……この村には、秘密がある。ここからそう遠くない山中には、少し前まで、魔族の居城があった。

 我々は、戦いで傷ついた者ならば、討伐軍の人間だろうと魔物だろうと保護してきた。その見返りとして、双方から、非戦区として認められていた。あくまでも、暗黙のもとに、だが」

「そうか」


 生憎と、エルミットもその秘密を知っていた。特に驚きもせずに一言頷けば、ブランドンは「驚かないのか」と笑うように言った。なんの感情も浮かばない声で。


「まあ、珍しい話でもあるまい。人間にも、魔族にも、情のある者はいる。

 公になっていないだけで、他にも同じような非戦区に認められた地域はあっただろう。

 ただ、討伐軍が勝利してしまったことで、風向きが変わった。王国の法の元では、魔物を匿うことは違法になるのだ」

「何だよそれ、勝手な話だな」

「ああ、そうとも。勝手な話だ。……それでも、理解のある相手であればまだ、戦時のやむを得ない事情として目を溢してもらうこともできる。そうでない時は、魔族と手を組んだ反逆者として、首謀者には処刑が待っている」


 嫌な気分だ。

 ブランドンの話を聞いて、段々とエルミットにもわかってきてしまった。

 どうして、これが、ジュアンとフィンのためになるのか。


「今朝のことだ。明日にでもトンネルが使えるようになれば視察が来ると、そう伝達があった。

 ジュアンさんは、話せば理解してもらえると言ったが、だが……そうでなければ、この村で、首謀者に祭り上げられるのは、ジュアンさんだ。もしかすると、フィンだって、共犯として処刑されるかもしれない」


 ブランドンの声に、初めて感情が戻った。苦悩だ。

 彼は古傷の刻まれた無骨な手を持ち上げて、頭を抱える。ふと、その手にも、きれいな赤色が見えた。


「それくらいなら、私が、身代わりになろうと思った。

 家族もいない私なら、一人の犠牲で済む。

 私が、ジュアンさんとフィンを脅して、魔族と取引をしていた首謀者──そうなる、はずだったんだ。

 それで済む、はずだったんだ……!」


 そこで、ブランドンの感情は、何かの限界を迎えてしまった。

 叫ぶような号哭を上げて、床に額を擦り付け、くぐもった声で叫び続ける。

 その様子を見かねたように、扉の外から、女の声がした。


「……フィンが、悪いんだよ」


 言葉とは裏腹に、何故か、その声には憐憫だけが含まれているのが、エルミットにはわかった。

 彼女の名前は知らないが、顔だけは何度か見たことのある女だ。教会の前を通るたび、フィンに声をかけては大事そうに抱きしめていた人物だったから、エルミットは顔を覚えていた。


「あの子が悪いんだ。もう時代は変わっちまったのに、怪我をした動物も魔物も、一括りに世話しようとするし……ブランドンさんが、芝居のためにジュアンさんに刃を向けた時も、あの子が自分から飛び込んできたんだ。

 本当に、バカな子だよ……! なんで……あんな、自分を犠牲にするような……!」

「フィンちゃんは、もしかしたら、本当にジュアンさんが襲われると思ったのかもしれない……それで、必死で、ジュアンさんを助けようとして……」


 咽び泣く村人たちの声を聞きながら、エルミットは、違うと思った。

 フィンは、自己犠牲を選んだわけではなかったのだろう。彼女は本当に、ただ、わからなかったのではないか。


 この村の中で、フィンは善意にだけ囲まれて、大事に愛されて育ったような娘だった。料理をする時さえ、怪我をしないように、包丁にも火にも触れないように気遣われて育ったから、あんなにも危機感がなかったのではないか。

 本当に、フィンには、わからなかったのだろう。目の前にある刃の鋭さが。それが自分の身体を貫いたとき、一体自分がどうなるのか。本当に、何一つ、わかっていなかったのではないか。

 あまりにも大事にされていたから、彼女は死んでしまったのだ。


 ようやく理解して、エルミットは床に倒れたままのフィンを見下ろす。

 今までに見た何よりもきれいな赤色は、彼女の血なのだ。エルミットは今まで、血の色と言えば黒だと思っていた。錆びたようなにおいのする、粘ついた、どす黒い液体。同じ血なのに、炎の光に照らされて、こんなにもきれいなのは、きれいなきれいなフィンが流したものだからだろうか。


 息を忘れるほど、息ができなくなるほど、気が変になりそうなほど。

 彼女は、こんなにも血に塗れても、他の何よりも美しかった。

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