12:記憶

 あの日も、雨が降っていたことを思い出した。

 エルミットが、エルミットと呼ばれるようになる前の話だ。


 不意に、記憶を失って目を覚ました時のことを思い出す。名前がないと不便だからと言うジュアンに、エルミットはいまいち同意していなかった。その理由が、今ならわかる。

 以前のエルミットに、名前はなかった。より正確に言えば、呼び名はあったが、それは個人名ではなかった。

 黒い犬、ブラックドッグ。それが、以前のエルミットの呼び名だった。


 この国には、人間や動物の他に、魔物と魔族が住んでいる。

 魔物と魔族の線引きは曖昧なものだったが、人間の言葉を理解できる生き物を総称して魔物、さらに知能が高い一部のものが魔族と呼ばれ、魔物の群れを率いるリーダーのようになっている。エルミットはその中で、魔族の領主から番犬として生み出された魔物だった。

 さて、人と魔族の関係は、国によって様々である。同じ街で一緒に暮らしている国もあれば、小競り合いの絶えない国もある。この国は、後者だった。百年ほど前までは比較的良好な関係だった、と魔族の領主が度々口にするのを聞いてはいたが、生まれて一年半程度のエルミットには実感の持てない話である。彼が見たことのある人間という生き物は、武器を手に領主の城に攻め込もうとする討伐軍くらいだった。


 山の中で、ブランドンと話した時を思い出す。討伐軍が野生動物を見逃すことに、なんとなく不平等さを感じてしまったのは、エルミットが魔物だったからこそだろう。


 ──そう、討伐軍だ。

 あの日、エルミットは、魔物たちは、魔族の領主は、討伐軍に負けたのだ。

 あの日も、雨が降っていた。負傷し、門を守りきれなかったエルミットは、息も絶え絶えに火の手が上がる領主の居城を見上げていた。自分たちは負けたのだと、誰に言われるまでもなく理解していた。

 普通なら、リーダーを失った魔物は散り散りになり、それらを一掃するために掃討作戦が決行される。しかしこの地には、普通でない条件が一つだけあった。


「あの山には、負傷した魔物も人間も差別なく介抱している村がある。非戦区だ。

 その村だけは襲ってはならない」


 魔物として生まれたばかりのエルミットが、最初に教えられたことだ。

 門番であるエルミットは、領主の居城を離れて村を見に行ったことはないが、大まかな場所は知っていた。その村に行けば、まだ希望はあると思っていた。

 しかしどういうわけか、村があるべき場所は討伐軍に囲まれていて、とても通り抜ける隙間はなかった。誰も彼も、エルミットがのこのこと顔を出せば、一斉に串刺しにせんばかりの殺気をみなぎらせている。あそこは魔物も人も助ける村だったのではないかと、エルミットは裏切られた気分になった。


 やむなく引き返したエルミットが次にたどり着いたのが、あのトンネルだった。あまり人が通らない道なのか、村の周りと違って討伐軍の姿はなく、代わりに大きな荷物を背負った男がいた。

 その男は、土砂の下に埋もれていた死体と、同じ顔をしている。

 崩落に巻き込まれた死体は損傷していたが、その首には獣に食いちぎられたような傷があり、不自然に服が剥ぎ取られていた。服とは対称的に、彼が背負っていた荷物は、死体のそばに転がされたままだ。

 エルミットの記憶の中で、まだ生きていた男は、旅に向いた動きやすい服を着ている。そして、宿で目を覚ましたエルミットも、全く同じ服を着ていた。


 思い出した。

 魔物であったエルミットは、あの商人の服が欲しかったのだ。

 においで敵味方を区別し、外見にさほど関心のなかったエルミットは、人間の服を着れば人間に紛れ込めると思ったのだ。今ならば的外れな考えに呆れてしまうが、当時のエルミットは本気だった。

 あの猪にやったように、商人に飛びかかって押し倒し、見つかりにくいように背の高い草むらに引き摺り込み、抵抗されたので首を噛み切った。動かなくなった男から服を引き剥がし、何とか自分で着ようとしたのだが、身体の作りが違うために当然うまくいかない。

 何とかしようともがくほど、爪や牙が服の生地に引っかかり、エルミットを焦らせた。

 そんな時に、能天気な声が降って来たのだ。


「わんわんさん、だいじょうぶ? おけが、してるの?」


 フィンだった。

 一体どうやって討伐軍に囲まれた村から抜け出したのかはわからないが、彼女のことだから、村が囲まれる前に散歩に出かけたまま迷子になっていた、なんてどうしようもない理由で外にいたのかも知れない。

 ともあれ、エルミットにとっては幸運だった。あまりにも甘やかな声をかけられたものだから、威嚇するのも忘れてしまった彼の元へ近付いて、フィンはせっせと手当てを始めた。頭の回っていなかった魔物のエルミットは、この草むらの中が非戦区の村なのかと、突飛すぎる疑問まで持ったくらいだ。


 ただ、途中危ういこともあった。

 トンネルに続く道の先、村の方角から、まとまった足音と鼻につく金属のにおいが流れてきた時は、さすがに身を固くした。草むらに入っていてもフィンの淡い金髪は目立つので、麓の街へ引き返していく討伐軍には当然見つかる。万事休すかと思われたのだが、しかし、彼女が「わんわんさんが、おけがをしてて」と言えば「犬が動けないようなら、大人を呼んで来るんだぞ」とだけ返し、彼らはそのまま歩き去って行った。どうやら、飼い犬が茂みに足を取られて怪我をした、程度に思われたらしい。

 今思えば何を思ってそう考えたのか理解できないのだが、魔物であるエルミットは、このままフィンの飼い犬になるのもいいかも知れない、などと考えたものだ。ブラックドッグと言っても、普通の犬とは外観が異なる。硬質な黒い毛並みに、身体の要所要所を覆う外骨格、何より暗闇でも燃えるように輝く赤い目は、エルミットが魔物である証拠であった。


 慣れた様子で手当てをしてくれたフィンを思い出し、次に山で猪を見た時の反応を思い出し、エルミットはようやくあの時の違和感に納得する。ようは、彼女はあの猪も、人間の言葉がわかる魔物だと思って話しかけたのだろう。それに対して「そいつは言葉が通じない」と制止したブランドンの言葉も、フィンの勘違いを理解しているから出たものだ。

 魔族の領主が言った通り、やはりあの村では、人だけでなく魔物も介抱されていたのだろう、と改めて認識を正す。


 ともあれ、フィンの手当てを受けたエルミットは十分に駆け回れるほどに回復し、フィンの「わんわんさんも、いっしょにくる?」という申し出に甘えることにした。その時には魔物のエルミットは、彼女のひどくまろやかな声と、頭を撫でる小さな手と、不思議と心地よいにおいが、すっかり気に入っていたのだ。けれど、まさに彼らが村に移動しようと道に戻った瞬間に、あの崩落事故が起きた。

 いち早く地響きに気づいたエルミットがフィンを突き飛ばしたため、彼女は転びながらも土砂に巻き込まれることは免れたようだが、代わりに逃げ遅れたエルミットは生き埋めになってしまった。上下左右もわからないまま、目の前の土の壁を掻いてみても、どこに進んでいるのかわからない。

 土のにおいばかりの暗闇で、魔物のエルミットは諦め気味に目を閉じた。


 もしも、自分が人間だったら、彼女にちゃんとお礼を言えたのに。

 せっかく、あの商人の服を手に入れて、人間に紛れ込めると思ったのに。


 今のエルミットが振り返れば、毛皮の上から服を引っ掛けた程度では何の変装にもなっていないのだが、魔物のエルミットは完璧だと思っていたのだ。そうして、ついに命運も尽きたと意識を手放したエルミットは、記憶の代わりに何故か人間の姿を手に入れて、村人に助けられ、今に至る。


「……なんで人間の姿になっちまったんだろうな」


 そこだけは未だにさっぱりわからないが、こうして魔物だった自分が殺した男を発見し、記憶も取り戻した今、やるべきことは一つだろう。小雨が降り始めた雲の下、エルミットは男の死体を埋め直し、道具を戻して村に引き返した。

 トンネルが復旧し、さらに人手が増えて整備され始めたら、多少移動させたとしてもあの死体は見つかるだろう。その前に、二度も助けられた魔物のエルミットとしてフィンに礼を言って、村を出て行った方がいい。

 それは頭ではわかっていたが、どうしても、つまらない気分になってしまう。

 水気を吸って肩に張り付く黒髪を払いながら、エルミットはぼやいた。


「はあ。……やっぱり、荷物なんざ、見つからない方が良かったな」

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