10:交流

 しばらくは、天気の良い日が続いていた。


 山で色々なことがあった、その翌日のことだ。その日は、朝だけは、実に有意義だった。早い時間にやって来たブランドンが、前日の約束通りに食べやすく加工した猪肉をくれたお陰で、エルミットは初めて朝から肉を食べた。その時は最高の一日だと思っていた。

 しかし、穏やかな昼下がりの頃に、一大事が起きる。ジュアンとフィンがジャムを煮詰める様子を眺めていたときに、何の前触れもなく「あのね、マリーおねえさんにおしえてもらったの」とフィンの口からとんでもない話を聞かされて、エルミットは顔を引き攣らせたものだ。思いっきり吹き出した後で、必死に咳払いで誤魔化そうとしていたジュアンの顔が忘れられない。


 フィンを通じて知った話は、他でもない、山で起きた一件についてだ。娯楽の少ない村の中で、目新しい噂話は格好の餌食になり得ることを、エルミットはその時まで理解していなかった。

 くだんの出来事は一夜にして、ブランドンの断片的な証言に噂好きな女性たちの妄想が上乗せされ、なんとエルミットは、フィンを襲おうとした猪の背中に飛び乗り、暴れ馬を駆るが如くに山の上から下まで駆け回った後、猪が疲弊したタイミングにたまたま居合わせたブランドンと息を合わせて、見事に猪を倒したことになっていた。フィンはあの場に居合わせていて、そんな事実は一切なかったと知っているはずなのだから、マリーとやらから噂を大人しく聞くだけでなく訂正しておいて欲しかった。


「あ、いたいた、イノシシ乗りのエルミット」

「変なあだ名で呼ぶのをやめろ」


 あまりに脚色の酷い武勇伝は、「まあ実際は、転んで怪我をしたところでブランドンさんに助けられたんだろう」というエルミットにとっては不愉快極まりない誤解とともに、すっかり村の中に広まってしまった。原因の一端であるブランドンに文句の一つも言いたいところではあったが、そういう時に限って、彼は教会に来なくなっている。

 お陰でエルミットは噂の大本を正すこともできないまま、村の若者から大変不名誉なあだ名とともに、同情混じりの親しみの念を向けられる羽目になってしまった。そう、丁度、今のように。


「そう嫌な顔しないでよ。ジュアンさんから聞いたわよ。教会の修繕は殆ど終わったって。

 ねえ、次の仕事に、トンネルの復旧を手伝わない?」


 気さくに声をかけてくる、エルミットより二つか三つほど年下の娘は、とてもそうは見えないが、二日前に初めて話した相手だ。跳ねた赤茶色の髪を揺らしながら、「あたしはサマンサよ! あんたがイノシシ乗りのエルミットね!」と、ハキハキしたよく通る声で、フィンの「ミネットお兄さん」の上を行くとんでもないあだ名を告げた、台風のような娘である。

 なんとなくだが、彼女こそが問題のあだ名を考えた人物ではないか、とエルミットは睨んでいた。


「トンネル? ……ああ、俺が倒れてた場所か」

「そうそう。うちの村だけじゃ人手が全然足りないから、麓の街から掘ってもらうのを待ってたんだけど、どうも上から──つまり、村がある方ね、そっちから土がどんどん流れてきて、掘っても掘っても進まないんですって。

 それで、村の方でも、出来るだけ土を退けるように頼まれたの」

「トンネル塞がったままなのに、よく話が通じたな」

「ブランドンさんよ。何日経ってもトンネルが復旧する様子がないから、山を抜けて麓まで行ってくれたの」


 それでここ数日、ブランドンは教会に来ていなかったらしい。

 しかし事実を知ったところで、彼に対するエルミットの不満は消えなかった。

 エルミットの内心を知る由もなく、サマンサは軽快な口調で話を続ける。


「イノシシに乗って縦横無尽に、の下りは置いておくとして、あんた肉体労働は得意なんでしょ。

 荷物が見つかればお金の心配しなくて良くなるし、ダメだったとしても報酬は出るし、良い話だと思うのよね」

「なんで置いておかずにイノシシ出しやがった」

「まあまあ。で、良い話でしょ?」


 エルミットにとっては悪いことに、サマンサは口が達者な娘だった。

 煩わしそうに舌打ちをしても、まるで気にせずにぐいぐい押して来る。いつかジュアンから、「ひとは弱い生き物です」などと諭されたものだが、この様子を見ていると悲しいほどに信憑性がなくなっていく。


「あー、わかったわかった。穴掘りは詳しくねぇが、見様見真似で何とかなるだろう」

「あはは、あんたのそういう前向きなとこ、あたし好きだわ」

「そうかよ」


 きゃらきゃらと笑いながら囃し立てられても、間に受ける気にはならない。

 適当に聞き流しながら返事をするエルミットに、サマンサは気を悪くするでもなく、「作業は明日から始まるみたいよ」と時間帯と場所だけ告げて去って行った。

 彼女の勢いは、今日も台風顔負けであった。そう長い間話していたわけでもないはずなのに、どっと疲れた気がする。

 はあ、と疲れた息を吐き出したのと同じタイミングで、「ミネットおにいさん」と後ろから声をかけられ、エルミットはゆるりと振り返る。こちらのあだ名も最初は抵抗があったのだが、イノシシ乗りなどと言う赤面ものの経験をしてしまった今では、逆に落ち着くように感じてしまう。


「おう、フィン。どうした?」


 聞いた後で、フィンが小さなカップを二つ、トレイに乗せていることに気付く。

 どうやらサマンサと話している声を聞いて、二人分の差し入れをしに来たようだ。


「のみもの、もってきたの。サマンサおねえさんは、かえっちゃった、なの?」

「あー、そうだな。さっき帰っちまった。アイツの分は、フィンが飲んでいけよ」


 片方のカップを受け取って、エルミットはそのまま地面に腰を下ろす。貧乏を絵に描いたような教会の庭には、庭で休憩するための椅子、などという気の利いたものはないのだ。朝から屋根によじ登ったり柵を飛び越えたりしていたエルミットは、今更服に土がつくことなど気にしなかったが、フィンの黒いスカートを見ると、地面に座らせるのが悪いように思えてくる。

 自分の横、まばらに雑草の生えた地面を軽く払ってみたが、そもそも土が剥き出しの地面なので意味のない行動だった。何をしているんだ、と冷静になったエルミットは自問する。

 しかしフィンは、どうやらエルミットの行動が自分のためのものであると気付いたらしく、「ありがとー」と笑ってそこに座ってしまった。彼女の頭の回転は緩やかではあるが、気が利かないわけではない。


「あー……いや、飲み物ありがとな」

「うん」


 結果的に服を汚させてしまった、とエルミットは一瞬後悔したが、嬉しそうににこにこしているフィンに謝るのも違う気がして、言葉を変える。笑顔で頷くフィンを見ていると、どうにも面映い心地になって、意味もなく空など眺めながらカップを口元へ運んだ。

 エルミットにとっては、よくわからない草の葉を適当に混ぜているようにしか見えないのだが、特製らしいハーブティーは甘味と渋味のバランスが取れた飲みやすいものだ。汗をかいたときには、冷やしたものに柑橘を一絞りして飲むのも喉に心地よい。はたまた今日のように、湯気のたつ一杯をゆっくり飲むのも気分が温まる。


 たっぷりと時間をかけて、温かいハーブティーを飲みながら、エルミットは考える。

 サマンサの持って来た、トンネルの復旧作業の話だ。

 例えば、無事に荷物が見つかったとして、その後はどうなるのだろう。自分は旅の商人だったと言われても、これっぽっちもしっくり来なかったのだが、記憶が戻らないままで商人など続けられるものだろうか。

 そもそも、自分は、どうしたいのだろう。次の村や街に、商売のために行きたいのだろうか。……この教会を出て?

 正直なところ、エルミットはすっかり教会で暮らすことに慣れてしまった。この先もずっと、ここで暮らすとしても不満はないだろう。強いて挙げるなら、食事は少々侘しいものがあるものの、エルミットが強さを隠さなくて良くなったなら、山へ入って獲物を狩れば良いだけだ。

 そんな未来を選択しても、きっと、フィンもジュアンも、反対しないだろう。


「……お」


 そこまで考えたところで、傾けたカップから何も流れてこないことに気付く。いつの間にか、ハーブティーを飲み終わっていた。


「……ごちそうさん」

「ごちそうさま、なの」


 空になったカップは、来た時と同じくトレイに乗せて、フィンが建物の中に運んで行く。

 小さな背中が扉の奥に消えるまで見送ってから、エルミットはようやく立ち上がった。


「復旧なあ……別に、荷物なんざ、見つからなくても良いのにな」


 ごく自然に、そう思った。

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