09:秘匿
ジュアンは、初対面の相手さえも、手放しで信用してしまうような男だった。
同じくらいの信頼を、出会ったばかりのフィンから向けられただけなら、エルミットはさほど疑問には思わなかっただろう。フィンはこの小さな村で、たいそう愛されて育ったような娘だからだ。
彼女の性格はいたくのんびりしたものであるが、危ないと言われれば大人しくするだけの聞き分けの良さがあり、屋根の修繕が一区切りついた時を見計らって軽食を運んでくるような気遣いもでき、何より、無条件に人を和ませてしまうような、柔らかな空気を纏っていた。そんなフィンは村の中でも指折りの人気があるようで、自然と人の善意にだけ触れて、これまで成長して来たように見える。
そんな少女が、見ず知らずの男に対しても友好的に接してしまうのは、至極当然と言えるだろう。
しかし、ジュアンはフィンとは違う。聞けば30代に差し掛かったばかりだと言う彼が、実年齢よりも随分と老けこんで見えるのは、草臥れた容貌によるところが大きい。元々は大きな街の教会に勤めていたが、人の良さにつけ込まれ、苦労の多いボロ教会での仕事を押し付けられた──とは、教会で飲み薬を買った帰り、門の向こうで誰かを捕まえては噂話を捲し立てていた、蓮っ葉な女性からの情報だ。
噂の真偽の程がどれほどかは怪しいものだが、少なくとも、ジュアンが苦労しているというのは本当だろう。診察や薬の処方だけでなく、村人からの悩み相談も受けるほどに信頼も篤い彼が、まさか騙されたことに気付かないレベルの脳内お花畑なわけがない。
そう思っているからこそ、エルミットは、ジュアンは漠然とした善意ではなく、強い意志によって相手を信じる男なのだろうと思っている。
何が言いたいのかと言えば、そんな男に難しい顔をして診察されるのは、とんでもなく気が重いということだ。
「ええ、骨や神経に異常はなさそうですね。大事がなくて何よりです」
「お、おう。まあ、このくらい、かすり傷だからな!」
「この腕の傷は?」
「……あー……こ、転んだ」
「……」
物言いたげな視線が痛い。エルミットはぐっと言葉に詰まり、左右に視線を泳がせた。
猪と取っ組み合いになって山を滑り落ちた、と正直に言うのを避けているのは、何もブランドンに言われたことを守っているわけではない。エルミットとフィンが出かける時に、ジュアンに何度も念押しされているからだ。野生動物の影でも見たら、危ないからすぐに戻って来い、と。
今回の命令違反は致し方ない状況だったと思うのだが、いざとなると、言いにくいことこの上ない。
そのまましばらく、居心地の悪いエルミットが落ち着かずに視線を泳がせていたら、根負けしたようにジュアンがため息をついた。
「……ブランドンさんに、言われました」
「あ? あのオッサンに?」
「今回のことは、自分の不注意で、怪我人を出してしまった。それで済ませてくれ、と」
それは、ブランドンがエルミットをひと睨みして去る前の、あのやりとりのことだろうか。
思ってもみないところから真相を聞いて、そして内容が予想外だったこともあって、エルミットは目を丸くした。
「あなたの、この傷。転んでぶつけたようなものじゃありません。一体……何があったんですか」
痛みに耐えているような、泣くのを堪えているような、弱々しい声だった。
俯いて肩を震わせるジュアンの、くすんだ灰色の頭を見下ろして、エルミットは唇を噛む。これ以上は、隠せそうにない。
観念して、エルミットはぽつりぽつりと話し始めた。
「……途中までは、あのオッサンの言った通りだ。俺たちは山に入ってすぐに出くわして、そんで、一緒にベリーのところまで行くことになって……帰り道に、狭い道のところで、イノシシと鉢合わせた」
ジュアンが、はっと顔をあげる。その顔色は、いつもより白い。
薄いヘーゼル色の瞳が、心なしか潤んでいるように見えた。
エルミットは、ますます落ち着かない気分になった。
「ソイツは、ベリーを持ってるフィンに襲い掛かろうとした……ように見えた。
あの図体じゃ、俺が飛び乗っても大した邪魔にはならねぇだろうと思ったから、引きずり落とすことにしたんだ。牙を捕まえて、崖みたいになったところから飛び降りた。んで、下まで引きずった後、俺の方は大した怪我もなかったから、倒れたままのイノシシに跨って、首を噛んでトドメを刺した」
そこまで言って、思い出したように、急いで付け足す。
「……俺が一人でイノシシを倒したってのは、村では言うなって、あのオッサンが。
俺は別に、隠すことじゃねぇと思ったけどよ……」
隠そうとしたのはブランドンの言葉以外にも理由があるのだが、それでジュアンに心配をかけたのが後ろめたくて、誤魔化すように言いきる。話し終えたエルミットが再び黙った後も、しばらくの間、ジュアンは頷きながら、「そうだったんですね」と繰り返した。
「……ありがとうございます。本当のことを、話してくれて」
「あ、ああ。これで、全部、だと思う」
「この傷……痛かったでしょうね」
「別に……大したことねぇよ、このくらい」
「ふふ。やっぱり、あなたは強いですね」
傷の上から清潔な布を当て、包帯を巻きながら、ジュアンはしみじみと口にする。
同じようなことを、宿屋で最初に顔を合わせた時にも言われたものだ。あの時は、まるで聞き分けのない子供に向けるような響きだったのだが、今は全く違うように聞こえる。
「でも、そうですね……ブランドンさんの言う通りです。
村の人たちの前では、一人で野生動物に勝てるなんて、言わない方が良いでしょう」
「……何でだよ?」
「多くのひとは、とても弱いからです。自分より強いものに、どうしようもなく、怯えてしまう」
意味がわからない、と考えていたのが顔に出てしまったらしい。エルミットの顔を見て、ジュアンは困ったように微笑んだ。どこか、疲れきったような笑みだった。
「例えばですよ。例えば……ブランドンさんが、あの刃物を突きつけてきたら、とても怖いと思いませんか?」
「いや、刃物の一本くらいなら、どうとでもなるだろ」
ジュアンは真面目に言っているのだと伝わってくるが、エルミットにはどうにも納得できないシチュエーションだった。例えでなく、実際に突きつけられたばかりなのだが、その時もエルミットは別に怖いとは感じていない。
けれども、否定されるのは予想外だったのか、かぶりを振ったエルミットの前で、ジュアンはまた困った顔をする。
「怖くないんですか……困りましたね。あなたほど強くない人にとっては、ものすごく怖いんですよ」
「強くない……フィンか? いや、アイツ、意外と平気そうな顔で突っ立ってんじゃねぇか?」
弱そうな、と考えて真っ先に浮かんだ少女は、エルミットも呆れるほどに危機感がないのだ。
しかし。……もしも。
「……だが、実際に斬られたら、痛くて泣くだろうな。何で自分がそんなことされたのかわかんなくて、やり返すこともできなくて、ひたすら泣いちまう……ような気がする」
想像しながら言葉を続けたエルミットを見て、ジュアンはゆっくりと目を伏せ、頷いた。
「そうですね。フィンなら、きっと痛くて、怖くて、泣いてしまいます。
大人の私だって、同じ状況になれば、怖くてどうしようもなくなるでしょう。
本当にそんなことをされる時だけでなく、されるかもしれないと思うだけで、怖くなってしまう。
ひとは、とても弱いんです」
包帯を巻き終わったエルミットの腕に、そっと両手を添えて、彼は続ける。
「でも、あなたは強いと同時に、優しいひとです。他のひとの気持ちを、ちゃんと考えてあげられる。
大丈夫。今は難しくても、村の人たちがあなたを受け入れる時期が来れば、わかり合えますよ。
それまでは、あなたがびっくりするくらい強いことは、内緒にしておきましょうね」
「……わかった」
まるで小さな子供に言い聞かせるような言葉だったが、不思議と飲み込みやすかった。
エルミットは今日まで、ジュアンとフィンは全く似ていないと思っていたのだが、その認識を訂正する。どちらの声も、まるで魔法のように、棘を取り払ってしまう力を持っている。そこだけは、とてもよく似ていると思った。
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