06:警鐘
幸いなことに、ブランドンを先頭にした落ち着かない山歩きは、細い山道を下ったところで一区切りが付いた。
何年も前に山が崩れた跡地だろうか、周囲よりも一段低くなった場所からは、ぽっかりと穴が空いたように空が見えていた。周りと違って、背の高い木が生えていないのだ。
その代わりのように、背の低い茂みが砂利の多い地面に覆い被さっていて、至るところに真っ赤に熟れた果実が実っている。フィンが摘みに来た果実はこの小さなベリーのようで、彼女は茂みの隙間を行ったり来たりしながら、甘酸っぱい芳香を放つ果実を、持ってきた籠の中へと入れていく。
開け放たれた天窓のような、開けた空から降り注ぐ陽光の中で、薄い金色の髪がきらきらと踊っているようだ。金色の輝きを縁取るような緑色も、時々籠からこぼれ落ちるように色彩を見せる赤色も、不思議な力で調和が保たれているようで、永遠に見ていられそうな気分になってくる。
「お前は、手伝わなくていいのか」
エルミットが、そんな景色をただただ眺めていた矢先、不機嫌そうな声で現実に引き戻された。
憮然とした顔でそちらを見れば、抜き身の山刀を手にしたブランドンが、一段高い場所から腕組みをして見下ろしている。
「ジュアンに言われてんだよ。
果実を集めるのはフィンに任せて、俺は野生動物が寄ってこないか周りを見てろって」
「それもそうか。お前たちは、そもそも二人で来る予定だったからな」
「……それに、俺が行くと、邪魔しちまいそうだし」
エルミットにとって、フィンは危機感に欠けた、動作の遅い子供だった。実を言えば、子供の背丈に合わせた小ぶりな籠に果実を集めるのだって、もたもたと時間をかけてやるものだと思っていたくらいだ。
それがまさか、あんな風にテンポよく身体を動かせるとは。
「あいつ、普段は呆れるほどとろくさいのに、案外動けるんだな」
「不思議な話だが、踊りとしてなら、複雑な動きもお手の物らしいぞ。ジュアンさんと村に越して来る前は、舞踏でも習っていたのかもしれないな」
「へー……」
いちいち睨みつけて来るような、あのいかめしい顔さえ見なければ、ブランドンとの会話も苦ではなくなってきていた。あるいは、実に楽しそうに踊るフィンを見ているお陰で、些細なことでイライラせずにすんでいるのかもしれない。
歌詞ではなくハミングで紡がれるリズムは、記憶喪失のエルミットは当然知らない曲調であった。それでも、その柔らかな音程と、たゆたうような動作に触れていると、彼女の世界に引き込まれてしまうのだ。耳障りでしかなかったブランドンの低い声からさえ、角を取り払ってまろくしてしまうほどに。
「ミネットおにいさん、ブラドーおにいさーん」
ぼうっと見入っていたために、エルミットは自分が呼ばれていることに、少しの間気付かなかった。
きらきらとした金色が寄ってきて、青と緑のまあるい瞳が視界いっぱいに広がったところで、夢から覚めたようにハッとする。しゃがみこんだ姿勢のままで、ぼんやりしているエルミットを心配したらしく、フィンが顔を覗きこんでいた。
「ミネットおにいさん?」
「お、おう。なんだ?」
「くだもの、いっぱい、なの」
じゃーん、とやり遂げた顔でフィンが差し出す籠の中は、食べごろのベリーでいっぱいだった。
エルミットが呆けている間に、彼女はしっかり仕事をこなしていたらしい。目の前にある少女の頭に手を伸ばして、くしゃりと撫でる。
「お前、すげぇな。それじゃ、村に戻ろうぜ。
これだけあったら、ジュアンも喜ぶだろ」
「うん」
頭を撫でられて、フィンは嬉しそうに笑顔を浮かべる。人懐っこい子犬みたいだな、とエルミットは思った。
立ち上がり、ぐぐっと身体を伸ばしてから振り返れば、ブランドンは一足先に来た道を戻り始めるところだ。その後ろをフィンがちょこちょこと追いかけて行くので、来た時と同様に、最後尾にエルミットが続く。
ただ、来た時と違う点が一つある。フィンが持っている、果実でいっぱいの籠だ。
「おい、フィン。その籠、俺が……」
「しっ、静かにしろ!」
代わりに持つぞ、と言おうとした声を遮って、ブランドンが鋭く、しかし押し殺したような声を出す。
彼のただならぬ様子に、エルミットは文句も言わずに口を閉じて、前方に意識を集中させる。二人の間にいるフィンだけが、何が起きたかわかっていない顔で首を傾げていた。
最初に気付いたのは、においだ。掘り返された土のにおいに、青くささの残る生木のにおいが混ざり、それから。
思考の途中で、ガサガサと前方の茂みが揺れる。ブランドンが無言で近付いてきた時よりも、大きく、そして重心の低い息遣いが、緑の奥から漏れ聞こえる。
自然と、エルミットは地面に手をつくほど、姿勢を低くしていた。
「まずいな……こっちに来られたら、逃げ場がない。
おい、ミネットと言ったか……お前、フィンを抱えて斜面を登れるか。そうすれば、後は私が……」
前方を向いたまま、ぼそぼそと声を潜めてブランドンが指示を出すが、言い終わるより早く、相手が姿を現した。
くすんだ緑の茂みをかき分け、ぬっと顔を見せたのは、身体の所々に乾いた泥のこびりついた猪だ。その体躯は、大人が二人でようやく抱えられるほど。何かを食べているように、しきりに口を動かしているが、どうにも満腹な様子には思えない。
猪の剣呑な視線は、フィンに……より正確に言えば、フィンが持っている籠の中身、みずみずしい果実に向いていた。
しかし、射抜くような視線を向けられているフィンは、こんな時も緊張感なく首を傾げている。
「ぶーぶーさん、おなかすいてるの?」
「よせフィン、そいつは会話が通じない!」
一瞬、フィンと、彼女を静止するブランドンに、違和感があった。
だが、声をかけられたことがきっかけか、猪がぐっと足に力を込めるのを見た瞬間、エルミットの頭から疑問は弾け飛んだ。猪が走り出すよりも早く飛び出し、フィンとブランドンの横を無理やり抜けて、滑り込むように足を前へ。前足を蹴られた程度では、猪は怯む様子もなかったが、牙に腕を引っ掛けたエルミットが重力に従って下へ滑り始めると、すぐに引きずられてバランスを崩した。
「っち……!」
ゆるい弧を描いた猪の牙は、見た目に反してその表面は滑らかではない。獣の牙は、肉を裂くための武器だからだ。エルミットも、当然それを知っている。服の上からでも、ざらついた牙の表面が肉に食い込むのがわかったが、慌てて手を引くことで傷が広がることも知っている。構わず腕に力を込め、横倒しになった猪を道連れに、先ほどまでいた砂利の地面までの距離を滑り落ちた。
地面にぶつかる瞬間に身体を丸めて、できる限りの衝撃を逃したが、それでも細かい砂利で切ったらしくあちこちが痛む。しかし、それだけだ。骨はどこも折れていないし、意識だってはっきりしていた。
頭上でブランドンが、何やら騒いでいるのが聞こえるが、今は相手をしている余裕もない。
軽傷のエルミットよりも、体勢を崩したままで引きずられた猪の方が、遥かにダメージを受けている。跳ね起きたエルミットは、倒れたままの体躯に跨り、大きく口を開けて背を逸らした。
──牙は、獣にとって、肉を裂く武器だ。
教えられるまでもなく、エルミットはそれを知っていた。
分厚い毛皮に覆われた、ずんぐりとした首の下、太い血管が走っているだろう場所に狙いをつけて、反動をつけて食らいつく。
森のにおいを生臭さが上書きし、エルミットの身体の下で、獣がもがいた。しかし、その決死の抵抗も、彼を振り払うには力不足だった。体重をかけ、下顎にさらに力を入れて、命の脈動を守る肉と骨に、そして守るべき血管に、致命的な亀裂を入れる。
足音も荒く、細い道を駆けてきたブランドンが追いついたのは、猪が動かなくなってすぐのことだ。血相を変えて駆け寄った彼は、山刀で猪の急所を一突きし、その手応えのなさに、ようやく猪が絶命していたことに気付いたようだ。
「まさか、お前がやったのか? 武器も使わず、一人で……?」
「……あ? 牙くらい、誰にでもあるだろうがよ」
信じられないものを見るような目で、猪の血で口元を汚すエルミットを見下ろし、ブランドンは言葉を失った。
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