03:名前

 宣言通り、男はその日のうちに宿を出ることになった。

 ベッドから立ち上がった当初は足元が全く安定せず、自分は今までどうやって歩いていたんだと自問したものだが、一度バランスを取ることを覚えれば早かった。

 ジュアンが言うには、一時的なショックで混乱していただけで、本当に歩き方を忘れていたわけではないのだろう、とのことだ。

 事実、村の中心から外れた教会までの道は、古く不規則な石畳になっていたのだが、まるで問題なく歩くことができている。

 宿を出てしばらくは、足元の石畳しか見ていなかったものだが、今は煉瓦造りの家々や、森と村を区切る木製の柵や、崖に注意と書かれた看板や、離れた位置にあるものを眺める余裕すらある。何より、消毒液のにおいから解放されて、雨上がりの空気を思う存分に吸い込めるだけで、すっかり気分が良くなった。


「はわ……おにいさん、あるくのはやい、なの」

「ん? そうか……?」


 気分良く景色を眺めながら歩いていたところで、情けないフィンの声に振り返れば、確かに、男から随分後ろにフィンとジュアンがいた。同じくらいのペースで歩いているつもりだったが、うっかり置いて行ってしまったらしい。

 立ち止まって待っている男の方へ、いまいち急いでいるようには見えない緩やかな歩調のままで、二人が追いついて来る。

 元々の身長差と、さらに道の勾配も合わさって、男の視点はジュアンよりも高い。ジュアンは頭ひとつ分高い位置にある男の顔を見上げて、眩しいものを見るように目を細めた。


「あなたは背が高い分、足も長いですからねえ。

 ああ、そうです。後回しになっていましたが、あなたの名前はどうしましょう。忘れていると言っても、呼び名がないと困りますよね」


 ね、と同意を求める語尾で言われたが、生憎と男は同意しかねた。

 記憶を失う前のことはわからないものの、宿で目を覚ました後も、こうして村を歩いている間も、名前がないことで不都合が起きているようには感じないのだ。

 男は腕を組んで少し考え、それでも気分が変わらなかったので、正直に首をかしげる。


「名前なんてなくても、なんとかなるんじゃねぇか?」

「いやいや、困りますよ。きっと。

 ……困りますよね、フィン?」

「んーと……」


 話を振られたフィンは、考えているような考えていないような、絶妙に気の抜けた声を溢しながら首を傾げる。どうもこの中では、ジュアンの旗色が悪いらしい。

 渦中にいる男としては、今後も特に困る気配を感じていなかったのだが、もう一度考えると少しずつ気分が変わってきた。

 これが二人であれば、いちいち名前を呼ばなくても「ねえ」とか「あの」とか声を掛ければ事足りるが、今日からしばらくは三人で暮らすのだ。「ねえ」と声を掛けただけでは、どちらを呼んでいるのかわからない。

 二人の名前を知っている男は呼び分けられるが、名前のない男を呼ぶとき、困るのは二人の方だろう。しばらくは居候になる上に、日常で気を遣わせてしまうのは、確かに良くない。良くない、のだが。


「そうは言っても、名前なあ……何も思いつかねぇよ」

「そうですねえ。逞しい方ですから、強そうな名前が良いとは思いますが」


 強そうな名前、と言われると、不思議と男は前向きな気分になった。そんな名前であれば、呼び名を付けられることに不満はない。問題は、具体案など簡単に浮かばないことくらいで。

 ふと、遠くで子供の笑い声がする。男がなんとなく視線を向ければ、兄弟らしき二人の子供が、笑い合いながら樽を転がしている。樽を遊び道具にしているのか、それとも何かの仕事を手伝っているのか。彼らのことを男は何もわからないが、彼らにも名前はあるのだろう、と漠然と考える。あの子供たちの親も、名前を考えるときはこうして頭を悩ませていたのだろうか。

 それぞれに考えに耽っていたためか、真上を少し過ぎた太陽に照らされた、雨上がりの小道に沈黙が落ちる。子供たちの笑い声が遠ざかって聞こえなくなれば、他の物音と言えば自分たちの足音くらいだ。悩み事をするのが馬鹿らしくなるくらいの、長閑な空気が流れている。


「つよそう……」


 そんな空気の中ではあるが、フィンもちゃんと考えてくれているらしい。

 周りの空気と同化したような、どことなく舌足らずで間延びした声で、


「ひーみ、めあーとーに、くらふぇきーすふぇまきーぐーらすと、かいとすーらすた?」


「……は?」


 一瞬、寝ぼけて白昼夢でも見ているのかと思った。それくらい、唐突で意味のわからない衝撃だった。

 最初から最後まで、男はフィンが何を言っているのか聞き取れなかったのだ。

 最後のイントネーションから、何となく「これはどう?」と問われているような気はするのだが、一体何を言われて、何の意見を求められているのかがさっぱりわからない。ならば当然、答えるべき言葉も見当がつくものではない。呆然としている男と、首を傾げるフィンの間で、ジュアンは徐に両手を叩いてパチンと音を鳴らした。


「フィン、通じていないので、彼に説明する時間をください。

 それで──今のは、急にびっくりさせましたよね。すみません。さっきの言葉は、フィンの故郷で使われているものらしいのですが、私も全く話せない言葉でして……あなたの名前を一生懸命に考え込んでしまって、無意識に出てしまったのだと思います」


 説明されても、咄嗟に返事が出なかった。

 あまりにも突然過ぎて、男の思考は未だに混乱を引きずっている。困ったように苦笑するジュアンと、不思議そうな顔をしているフィンと、二人の顔をたっぷり三度は見返して、それからようやく思考が動き出す。

 人間、驚くと本当に頭が真っ白になるんだな、と男は妙にしみじみと実感した。


「そ、そうか……色んな言葉があるんだな。それじゃあ、あー、最初の方に出たヒムってのでいいんじゃないか? 俺の名前」


 最初の方に、そんな発音があった気がして、男はとりあえず口にしてみる。しかし、言い出したはずのフィンは、少しだけ困ったような顔で首を左右に振った。

 初対面のフィンに対して、まるで人形のようだと思ったものだが、よく見ていると、彼女はくるくると表情を変える。手振りを交えることも多く、周りの空気ごとぱっと色付くように感情を表す様子を見ていると、もう人形だとは思えなくなるのが不思議でもあった。


「ひむはね、こわいおなまえ、なの」

「怖い……? あー、お前が最初に言ったのは別の言葉で、ヒム、だと悪い意味になるってことか?」

「うん」


 男にとってはどれも等しく意味のわからない言葉なので、ヒムでも何でも構わないと思ったのだが、フィンが悪い意味だと言うのなら避けた方が良いだろう。そうは思うが、他には何と言っていたのか、思い返そうとしても思い出せない。

 本当に、フィンが不意打ちのように言った言葉は、何の意味もないデタラメな音の羅列としか思えないものだった。小綺麗な顔をした少女の口から飛び出してくる言葉としては、あまりにもインパクトが強すぎる。


「んーとね……ふぇーるみねっと、は、だめ?」

「ウエ? エー……エルミット? さっきとは違う名前か?」


 今度は前後がちゃんと理解できる言葉だったので、男は辛うじて聞き取ることができた。

 強そうな名前、という当初の目的からは些か外れたようにも感じるが、先程のやたら長い呪文のようなものと比べれば、名前と認識できるだけ上等な名前であるように思う。

 何より、再び呪文のような謎の言葉を聞かされるのは、少々心臓に悪い。


「エルミット、か。そっちの方が呼びやすいだろうし、それで良いぞ」

「ミネット、おにいさん!」

「待て、お前今、女の名前みたいに略しただろ」


 明らかに響きが変わったことに気付き、男は修正を求めたつもりだったが、ニコニコしているジュアンが横から水を差す。


「素敵な名前だと思いますよ。エルミットさん」

「すてき、なの」

「……そうかよ」


 柔和な笑みを浮かべるジュアンと、心から嬉しそうにしているフィンに挟まれては、強く言う気が失せてしまう。

 結局、古びた教会にたどり着くまでの間に、舌足らずなフィンの発音を訂正することに失敗したエルミットは、彼女から「ミネットお兄さん」というあだ名を付けられることになった。

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