02:処遇
自分の名前すら思い出せない男は、窓ガラスを叩く雨粒を眺めていた。
漆喰の壁と、所々が曇った窓ガラスに阻まれて、部屋の中には雨のにおいが入ってこない。
その代わりのように、つんと鼻をつく消毒液のにおいが、部屋には満ちていた。
彼は、困惑していた。
体のあちこちに包帯を巻かれ、どことも知らぬ一室で、顔も知らない人々に囲まれれば、誰だって混乱するだろう。
特に彼の場合は、その混乱に上乗せして、「金がないのなら宿には置いておけない」なんて話が頭上を飛び交っているのだ。
いっそ叫び声でも上げて窓から飛び出した方が良いのかもしれない。などと突飛な発想が浮かんでくるが、怪我のせいか頭を打ったせいか、思うように立ち上がることさえ出来ない身体では、考えるだけ無駄であった。
「トンネルの瓦礫を片付けていれば、途中で荷物も見つかるんじゃないか? いずれにせよ撤去はしないといけないから、金は荷物が見つかった後からでも……」
「あの土砂を見ただろう。掘り返したところで、財布の中身が無事だと思うか?」
「だからって、怪我した商人を叩き出したなんて噂になったら、次から人が村に来なくなるぞ」
「魔物の掃討は終わったばかりだ。麓まで歩いてもらっても、危険なことはないだろう」
「いくら討伐軍の掃討作戦が終わったばかりだと言っても、万が一にも野生動物に襲われでもしたら……」
……さっきから、ずっとこの調子だ。
同じ話をずっとしていて飽きないものなのか、と男は酷く冷めたことを考えていた。
荷物の類が今どこにあるかなど、男には当然わからない。どのくらいの所持金を持っていたのかも、一切合切が記憶にない。
どうせ置いておく気がないのなら、さっさと追い出せばいいのに、などと他人事のように考えながら欠伸をしていたら、それを見咎めて「おい」と低い声が掛かった。
声の主は、男が寝ている宿の店主である。小さな村の中でも年配に属する彼の顔には深い皺が刻まれ、分厚い眼鏡のレンズを通してなお、睨め付ける眼光は鋭い。
村の子供たちであれば、揃って竦み上がるだろう鋭い視線を受けて、しかし男は悪びれた顔ひとつしない。それが店主の神経をさらに逆撫でする。
先ほどまで店主に異を唱えていた、一回り年下に見える村人は、どうにか宥めようとする動作を見せるが、怒気におされたように腰が引けていた。
「随分な余裕じゃないか。お前のせいで、こっちは大損しそうだってのに……」
こめかみに青筋を浮かべた店主が、最後まで文句を言うより先に、まるでその先を遮るようにして、軋んだ音を立てて廊下に通じる扉が開いた。
ベッドに横になった男と、彼に掴み掛かろうとしていた宿の店主と、それを止めようとしていた村人と、それぞれの視線が一点に向かう。その一点、窓のない木造扉の向こうに立っていたのは、人の良さそうな黒服の男と、同じような黒い服を着た少女。
二人の姿を認めた途端、店主の身体から見る見る怒りが抜けていくのが見て取れた。
「……ジュアンさん」
「お二人とも、声が一階まで響いていましたよ。不安はわかりますが、患者さんの前では、どうかお静かに」
ジュアンと呼ばれた黒服の男に諭されて、揉めていた二人はバツが悪そうに視線を逸らした。
「あー……怪我の処置は、もう終わってるよ。
教会のあんたが、フィン嬢ちゃんまで連れて、どうして宿に?」
宿の店主がフィンと呼んでいるのは、ジュアンと一緒に来た少女のことのようだ。目が覚めたとき、教会の子供が最初に見付けて手当てをしていた、と教えられたことを、男はぼんやりと思い出す。あれは、フィンのことだったのだろう。
くすんだ灰色の髪をしたジュアンと、色素の薄い金色の髪をしたフィンは、親子と言うにはまるで似ていなかった。髪の色が違うなら、目の色も顔立ちも、同じところがひとつもない。
初対面の男にしてみれば、まるで生き物としての枠組みから異なるようにさえ見えた。
男はなんとなく、他の人々よりもずっと低い位置にあるフィンの顔を眺める。ジュアンの身長の半分しかないような、吹けば飛んでいってしまいそうな小ささだ。先程まで宿の店主の怒りにたじろいでいた村人が、額の汗を拭いつつもはにかんだ笑顔を向けて腰を曲げ、「フィンちゃん、教会から歩いて来たのかい。疲れていないかな?」などと一段高いトーンで話しかけているのを見ると、彼女を小さいと思っているのはエルミットだけではないのだろう。
フィンはまんまるな瞳をぱちぱちと瞬かせてから、鈴を転がすような声で「うん」と頷く。こくりと頷いた小さな頭を撫でながら、ジュアンが穏やかな声で切り出した。
「フィンから怪我人がいると聞いて、念のため具合を見に来たんです。そうしたら、お二人の声が聞こえまして。盗み聞きのようになってすみませんね」
似ていない二人のうち、ジュアンが喋り始めると、大人しく立っているフィンは、まるで人形が佇んでいるように見えてくる。今までの老いと苦悩が、皺として目尻に刻まれたような、どこか草臥れた雰囲気を纏うジュアンと比べて、フィンは生き物と呼ぶには整いすぎているように感じるほどだった。
けれど、村で暮らしていれば、二人が並んでいる姿に違和感を覚えることもなくなるのだろう。少なくとも、宿の店主ともう一人の村人は、何も感じていない様子である。
「ああ……そうだったのか。見苦しいところを見せてしまったな」
「いえいえ。宿も商売ですから、あなたの不安もわかりますよ。ただ、お金がないので追い出すと言うのは、賛同しかねます。
代金は私が立て替えますし、せめて傷が癒えるまでは、休ませてあげてください」
お願いします、と深々と頭を下げられて、宿の店主はわかりやすく戸惑う様子を見せた。
ジュアンからワンテンポ遅れて、フィンもペコリと頭を下げる。彼女の長い髪が、薄く埃の積もった床に触れそうになるが、本人は気にしていないようだ。
「ああ、ほら、二人とも顔をあげてくれ。他ならぬジュアンさんがそう言うなら……だが、あんたのとこの教会だって、他人に金を出す余裕なんてないだろう?」
「しかし、困っている人を見捨てるわけには」
そこまでの話を聞いて、男は今までとは違う居心地の悪さを感じた。
あのジュアンとフィンと言う二人は、自分たちの生活も苦しいのに、見ず知らずの自分の為に更なる苦労を背負い込もうとしているらしい。邪魔者のように扱われるのも面白くないが、そこまでされるのもよろしくはない。
「待て、待て待て」
考えるより先に、思わず口を出していた。
「なんでお前らが、俺の責任取ろうとしてんだ。そりゃあ、今は身体が妙な感じだが、骨が折れて歩けんってわけでもないし、しばらく横になってりゃ動けるようになる。今日にでも出て行ってやるよ」
「ふふ、逞しいですね」
男は啖呵を切ったつもりだったが、ジュアンはにこにこ笑うばかりだし、フィンもつられたように微笑むだけ。
本気にされていないな、とムッとした男がベッドから立ち上がろうとした時に、ようやくジュアンは表情を変えた。
「だ、ダメですよ。無理をしないで。
わかりました、こうしましょう。今日、宿を出るまでの代金は、一度私が立て替えます。
あなたには、そうですね、教会には空き部屋がありますから、荷物が見つかるまではそこを使ってください。代金はその後に返していただければ」
ジュアンは、これならば問題ないだろう、という顔をしているが、そんなわけがない。
宿の店主たちが、まさにその部分で揉めていたのを聞かされていた男は、彼の楽観的な考えにため息が出た。
「荷物が潰れて金にならなかったら、お前らが損するだけじゃねぇか」
「なら、動けるようになったら、少し働いてくれませんか? 屋根を修理したり、山で果実を集めたり、やることはたくさんありますから」
それは、お金に余裕のない教会、というイメージをはっきりと肯定する内容だった。
男の視界の端で、宿の店主たちがやれやれと首を振っているのが辛うじて見える。どうもジュアンとフィンは、いつもこんな調子なのだろう。
そんな生活をしていれば草臥れた容貌も当然だ、とジュアンを見て思う一方で、小綺麗なフィンはもしや本当に人形では、なんて考えまで浮かんでくる。
この二人は男にとって、ある意味命の恩人と呼べる筈なのだが、感謝の念より先に呆れが出てしまうのはどうしたものか。
「……わかった。しばらく世話になるぞ」
「ええ、よろしくお願いします。
さ、フィンもご挨拶して」
ジュアンに促され、彼の足元に半分隠れるようにしていたフィンが、とことことベッドの端まで寄ってくる。
左右で色の違う、青と緑の瞳が真っ直ぐに男を見た後で、ふにゃりと笑う。
「えと……よろしくね、なの」
「おう。よろしくな、フィン」
いつの間にか、窓ガラスを叩いていた雨の音がやんでいた。
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