黒犬の話。

朧童子

01:崩落

 あの日は、雨が降っていたことだけを覚えている。

 濃い緑と、雨のにおいと、それ以上にむせ返るような、かびたような土のにおい。

 においだけが満ちる暗闇の中で、雨が降っていると、そう考えていたことを覚えている。


 その日、山間の村と麓の街を結ぶトンネルで、崩落事故が起きた。

 小さな村だ。細く、歩きやすいとは言えないような一本の道だけで外と繋がっているだけの、十軒程度の民家が身を寄せ合って建っているばかりの、小さな村。

 山から土砂が雪崩れ落ちた轟音を聞いて、村から駆けつけた若者の人数も、片手で足りるほどだった。彼らの顔には、一様に諦めの色が浮かんでいる。誰もが、自分たちだけでトンネルを掘り起こすことは無理だと悟っているようだった。


 足取りも重い彼らが集まったのは、すっかり土砂に埋まったトンネルの出口だ。そこには、崩落に巻き込まれたらしい男が一人、倒れていた。

 偶然近くを通りかかった少女が既に手当てをしたためか、痛々しい見た目に反して命に別状はない。

 彼が生きていることを確認すると、村の若者たちは男は宿屋に運ぶことにする。事故の際に押し流されたのか、男の近くには荷物の類も見つからず、身元がはっきりとしなかった。

 けれども、小さな幸運もあった。随分とボロボロになってはいるが、旅に向いた動きやすい服を着ていることと、近々商人が村に立ち寄る予定になっていたことから、彼がその商人なのだろうと予想がついたのだ。

 改めて傷の処置をしてベッドに寝かせ、あとは彼が目覚めれば事情を聞くだけ──そう考えていた村人たちの予想は、奇妙な形で外れることになる。


 目を覚ました男は、ベッドから跳ね起きた直後、いきなり態勢を崩して床に倒れ込み、自分の手足へとまるで初めて見たかのような奇異な視線を向けたのだ。

 男の動揺ぶりに戸惑いつつも、村人たちは彼に対して、素性や事故の経緯を問うた。

 誰もが、疑問を孕んだ視線を向けながらも、その先の答えを薄々予感していたのだろう。


「わからない……俺は、何も思い出せない」


 狼狽する男の答えに、誰からともなく、諦めのため息が漏れた。それ以上の追求を、誰も口に出さなかった。


 その日も、朝から雨が降っていた。

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