近未来言葬   作・紫水街

 テレビは嫌いだが静寂はもっと嫌いなので仕方なくテレビを付けっ放しにして過ごしている。最近はどの局も財政難らしく、挟まれるコマーシャルはどれも自局の番組宣伝ばかりである。


 さっきまでガチャガチャとうるさかったドラマが終わり、十九時の合図とともにニュースが流れ出した。淡々と原稿を読み上げるキャスターの声に混じって、足音がした。これはテレビの中からではなく、どうやら家の外から聞こえてくる。


 来客だろう。この足音が止まってきっかり三秒後にインターホンが鳴れば、玄関先にいるのは十中八九私を担当している編集者の氷原ひょうばる紀正のりまさくんである。まだ若く、大変に快活で、すっぱり竹を割ったような物言いをする青年だ。編集者としての経歴はもちろん浅く、まだ二年目だが、意欲は十二分にあるし素直だし頭も決して悪くない。この出版不況時代にわざわざ出版社に就職したような物好きということも相まって、私は彼を大変気に入っていた。


 足音が止まった。私は原稿の手を止め、心の中で三つ数える。


 一、二、三。


 四。


 五。


 どうやら氷原くんではないらしい。


 何とはなしにそのまま数え続け、十秒に達しようとしたとき、ようやくインターホンが鳴った。


「はい」


「……氷原です」


 珍しいこともあるものだ。壁に飾っている猟銃に触れないようそっと通り抜けて玄関へ向かい、扉を開け、氷原くんを客間に通した。黒い革の仕事鞄をいつにも増して大事そうに抱えている。視線を足元に落としてじっとしており、表情が窺えない。私が椅子を指し示すと、無言で頭を下げてから座った。


 どうやら待っていても自分からは口を開きそうにないので、私は席を立って台所へ赴き、棚から紅茶のパックを取り出しつつ声を張り上げて尋ねた。


「何かあったかね」


「何か、とは?」


 平静を装って訊き返してきた氷原くんだが、やはり声にはいつもの覇気がない。


「言いたくないのなら言わなくていいさ」


 私が肩をすくめながら茶菓子を客間へ持っていくと、氷原くんは溜息をひとつ零した。


「さすが先生。お見通しですね」


「君は自分が思っているより内心が顔や態度に出る人間だ。気をつけたまえよ」


「はあ」


 氷原くんは諦めたように鞄の留め具を外し、中を探る。見慣れた分厚い茶封筒を取り出すと、私に向かってゆっくりと差し出した。


 封筒に私の字で「近未来言葬(仮題)」と書かれている。今度出版する予定の原稿、そのゲラに相違なかった。


 つまり氷原くんの陰鬱な気分の原因となっているのは、私のゲラであるということか。封筒を受け取り、中からゲラを取り出して一目見た私は奇妙な悲鳴を上げた。


「真っ赤じゃないか」


 氷原くんは俯いて動かない。


 ここで言うゲラとはつまり校閲済み原稿のことだ。書き上げた私の原稿が校正者によって誤字、脱字、衍字、誤用などをチェックされ、指摘と修正案の記載されたゲラになって戻ってくる。それを踏まえて書き直した原稿がさらに別の校正者にチェックされ、再び戻ってくる。それを見てまた書き直し、編集部の認可を経て、ようやく原稿は本になるというわけだ。


 校閲された私の原稿は、赤文字で真っ赤に染まっていた。


 たとえばこうだ。







「灸を据えてやる【「灸を据える」は鍼灸師の方々の職業差別に繋がる用語です。「お仕置きしてやる」等】」


 銃口を男の眉間に突きつける。男は唖【「唖」は差別用語です。「先天性の病気により発言・発話に困難を抱えている人」等】のように口をぱくぱくさせていたが、やがて一言だけ吃り【「吃り」は吃音症に苦しむ方々への差別に繋がる言葉です。「言葉に詰まり」等】ながら「気でも狂ったか【「気が狂う」は差別用語です。「頭が平常時とは明らかに異なる思考をしてしまった」等】」とだけ漏らした【「漏らす」は排尿・排便に困難を抱えている方々を不快にさせるおそれがあるため不適切な用語です。「つぶやいた」等】。男の股間には湯気の立つ【「立つ」は卑猥な単語を連想させるため不適切です。「湯気の出る」等】染みができつつあった。


「センズリ【「センズリ」は卑猥で不適切な用語です。「自慰行為」等】のしすぎか? いっそキンタマ【「キンタマ」は卑猥で不適切な用語です。「睾丸」等】撃ち抜いておかま【おかまは差別用語です。「肉体的な性と精神的な性との乖離に向き合い、己の人生を豊かなものにしようと日々努力する人々」等】にしてやろうか」


 盲撃ち【「盲撃ち」は差別用語です。「やみくもに撃っても」等】しても仕方がない。どこを撃つか決めなければ。私は散弾銃を男の股間に向けた。男の股間の染みが広がった。再び男の眉間に向け直した。男の目と鼻と口からそれぞれ別種の液体が流れ落ちた。面白くなって股間に向け、また眉間に向け直した。股間に向ければ股間からの、眉間に向ければ顔からの、垂れ流される【「垂れ流す」は公害を連想させるため放送禁止用語に指定されています。「放出される」等】水分放出量が多くなった。







 一枚一枚めくっていく。どのページにも赤で尋常でない量の書き込みがなされている。仮にこれをすべて訂正するのであれば、もはやそれは校正者の作品として発表したほうが適切だろう。どこまでが私の作品だと言えるのか……こんな問いかけをテセウスの船と呼ぶのだったか。


 台所から湯が沸く音が響いていたが、私は席を立つ気になれなかった。この出版社からは既に何冊か本を出しているが、こんなことは初めてだ。


「いったいぜんたいどういうことかな」


「ご覧になっている通りです」


 氷原くんは消えいりそうな声で言う。


「これはつまり、私に何も書くなと言っているのか?」


 我ながら硬質な声が出た。


 確かに作家・出琴いずこと紫陽しようとしての私の作風は、あまり一般受けするものではない。エログロナンセンスに特化した娯楽作ばかり書いているせいか、コアなファンこそ付くものの、文学賞の受賞歴もなければ作品のメディアミックスも経験したことがない。長いこと別のペンネームでポルノ小説をインターネット上に投稿しているが、あるいはそちらの名義のほうが知られているかもしれない。


 そんな木っ端作家にもこうして仕事を持ってきてくれるのだから、出版社には感謝して然るべきなのだろう。


 しかし。


「この指摘をすべて聞き入れて修正したとして、それは私の、私が胸を張って世に送り出せる私の作品だと思うか?」


「……思いません」


 氷原くんがさらに身を縮める。


 私は立ち上がり、目を瞑って深呼吸した。これがたまたま変な校正者に当たったわけではなく編集部の方針だとしたら、ここで氷原くんを責めてもどうにもならない。


「すまない。これを校閲したのは君ではないというのに」


「いいえ。これは自分の力不足です」


 氷原くんは今日初めて顔を上げ、私の目を直視した。


「留川事件で、編集部は変わりつつあります。僕の部署だけではなく当社全体、いいえ、出版業界全体が怯えているんです。次は自分のところの作品が標的になるのではないかと」


 留川事件。


 半年ほど前から世間を賑わせている連続殺人事件だ。全力で捜査にあたる警察を嘲笑うかのように犯人は手かがりさえ掴ませず、被害者の数は今も増え続けている。


 付けっ放しにしていたテレビのBGMがやや重苦しいものに変わった。見れば、ちょうど留川事件の特番が始まるところだった。


『……たまたま複数の殺人事件の被害者が相次いで見つかったとは考えにくいとされています。令和二十年五月十日、警察はこれが同一犯による犯行であると公式に認定しました』『最初の被害者が見つかった場所から、やがてこの連続殺人は留川事件と呼ばれるようになります』『留川事件の最大の特徴は、その手口にあります』


 これまでの事件の詳細と、判明している限りのが記載されたパネルがでかでかと映し出された。そう、残虐な殺人のひとつひとつが何かしらの娯楽作品――推理小説、ミステリドラマ、猟奇映画、その他その他――の手口やトリックを模倣したものであるというのが、この事件の最大の特徴だった。


 たとえば最初の被害者は『車線上のアリア』二話を模倣するように線路に括り付けられていたし、二番目の被害者は『あの鐘をあなたで鳴らす』の手口通り、寺院の梵鐘で頭を砕かれていた。三番目は『ヴェニスにトランス』のヒロインのように鎧を着せられた状態で水路に沈んでいた。他にも『生け簀のライバー』のような人気作から『四十二角館殺鼠事件』のようにマイナーな作品まで、模倣する対象は多岐に渡っている。現在は八人目の被害者まで発見されているが、まだ増えていないとは言い切れない。今この瞬間にも九人目が殺されているかもしれないし、もう日本のどこかにまだ見つかっていない死体が転がっているかもしれない。


『こうやって見ると、殺人を娯楽として扱う作品がこんなに多かったのかと思いますね』以前は刑事物のドラマに出ていた若手女優が大げさに怖がってみせる。


『確かに、こーゆー残酷な作品って本当に世の中にあっていいんか? って思ったことあったよな。多すぎてゼンゼン気にしなくなってたけども』大御所芸人が同調した。


『フィクションだから、面白ければ何をしてもいい……そういった免罪符に甘えてきた負の側面がこうやって最悪の形で噴出したのだと思います』辛口が売りのコメンテーターがしかつめらしく頷く。


『どのような理由であれ、倫理的でない作品が世に出回るのは認められるべきではない。ましてや「売れるから」などという安易な理由でそれに加担してきた人々に何の罪もないとは思えませんね』ここでコメンテーターはわざとらしい渋面を作った。『……もちろん、我々も含めてですが』


『エンタメの在り方を見直すべき時が来たということでしょうね』司会者がまとめる。


 私はテレビを消した。


「……もはや倫理的でない作品はお呼びでないというわけだ」


 留川事件が社会に与えた、いや、与えている影響は凄まじい。設立された被害者の会は警視庁前で警察の捜査の遅れを糾弾するデモを連日のように開催している。活動はそれに留まらず、手口を模倣された作品たちに対する批判にまで及んでいた。


 人の死を軽々に描く推理やミステリ、グロテスクな表現を含むアクションやファンタジー……そういったジャンルの作品は、たとえフィクションであっても犯罪を教唆するおそれがあると以前から指摘していたが、ここに来てそれが証明された――これが被害者の会の言い分である。それは小規模な不買運動に始まり出版社への投書、SNS上での抗議、その他さまざまな形で声高かつ継続的に主張され続け、じわじわと広まりつつあった。


 エンターテインメント業界が過去の己の悪行を省みて意識改革に励まなければ、未来はない……ついに業界の内側からもそう主張する人間が現れ始めた。鳴り物入りで公開予定だった映画「大造じいさんとガンズ・オブ・パトリオット」なども公開を無期限延期するという告知がなされている。予告編を見たが、冒頭からいきなり七人が殺されるのではさぞ目を付けられやすいだろう。


 馬鹿馬鹿しい、などと言えていた頃はまだよかった。


「最近は放送コードの規制もますます強まっていまして。あくまでも使用の自粛という形でひっそり存在していたはずの放送禁止用語のリストも上司からおおっぴらにメールで送られてくる始末で……先生の作風は理解しておりますし可能な限り尊重したいのですが、どうやら校正担当も、どんな些細な言葉も見逃すなと言い渡されているらしく……」


「だからといって」


 私は続きを言いかけて、ぐっと飲み込む。どんなに大きな出版社とて先行きに不安を覚えているのは同じ。暇な奴らがあらゆる出版物に目を光らせ、攻撃の隙を窺っている昨今、発行される出版物に瑕疵でも見つかれば格好の的である。誰もそんなリスクを背負いこみたくはない。それに……そんなリスクを背負ってまで出版するほどの価値は、残念ながら私の作品にはないだろう。


「殺人に関係する語彙は当然として、少しでもどこかから批判を受けそうなものは全部チェックされます。書き直さなければ会議も通りません。それで突っ撥ねられた作品がもう数え切れないほどあって……会議を通すことが編集者の仕事なのに、力不足で申し訳ありません。今ある指摘に沿って、作品の雰囲気を保ったまま改稿するのは、やはり難しいでしょうか……?」


 氷原くんがおそるおそる訊いてくる。


「私がここで、できる、と断言できる作家であれば君の仕事も楽だったろうにな」


 苦笑する私に、氷原くんはなぜだか急に満面の笑みを浮かべた。


「そうですね!」


「えっ」


「僕もそんなことができるとは思いません。言葉は文脈で意味を持ちます。誰かを差別する意図で発する言葉が規制されるのが正しいとしても、それがどのような文脈でも一律に差別用語として扱われてしまうとただの言葉狩りです。特に先生の元原稿、言葉が持つ野生、脈動する荒々しさ、それをすべて殺すような改稿をしろなんてとても!」


「お、おお……」


「なので、こうしてはいかがでしょう。けっこう前から使われている手法なのですが、昔の作品などには『不適切なものもありますが当時の表現をそのまま使用しています』と表記することで再出版の際に言葉狩りから守っているんです。つまりですね、先生の作品の最初か最後に注釈を入れて、この作品に差別的意図はありませんとアピールするんですよ!」


「……それで済むのか?」


「大事なのは姿勢です。差別を許さない、表現の自由を守る、このふたつは決して相反するものではない。どちらの姿勢も明確に見せておくことがクレームを入れてくる人々に対する盾になるんです」氷原くんが口の端に泡を溜めて熱弁するので、私はすっかり気圧されてこくこくと頷いた。


「で、ではそうしよう」


「ありがとうございます!」


 氷原くんは満面の笑みで立ち上がる。


「改稿が終わったらまた原稿をお送りいただければと思います。こちらで別の校正者を通して再度お返ししますので」


「了解した。できる限りやってみよう」


 私は氷原くんを見送り、玄関の扉を閉めた。


 さて。


 文机に向かい、PCの電源を入れ、原稿を広げる。誤字脱字などの真っ当な指摘は当然修正する必要があるし、それ以外に指摘されている部分も納得のいくものなら変える。修正しても差し支えないと判断したところも直そう。何も意地を張ってすべて突っ撥ねるわけではない。


 とりあえず、指摘箇所をすべて直してみた。





「お仕置きしてやる」


 銃口を男の眉間に突きつける。男は先天性の病気により発言・発話に困難を抱えている人のように口をぱくぱくさせていたが、やがて一言だけ言葉に詰まりながら「頭が平常時とは明らかに異なる思考をしてしまったか」とだけつぶやいた。男の股間には湯気の出る染みができつつあった。


「自慰行為のしすぎか? 肉体的な性と精神的な性との乖離に向き合い、己の人生を豊かなものにしようと日々努力する人々にしてやろうか」


 やみくもに撃っても仕方がない。どこを撃つか決めなければ。私は散弾銃を男の股間に向けた。男の股間の染みが広がった。再び男の眉間に向け直した。男の目と鼻と口からそれぞれ別種の液体が流れ落ちた。面白くなって股間に向け、また眉間に向け直した。どうやら股間に向ければ股間から、眉間に向ければ顔から、放出される水分量が多くなるようだった。





 目眩がしそうになった。これを私の小説として世に出せというのか。


 とはいえ時代の潮流に逆らって生きていけるほど強い作家ではない。自分の中で曲げてもいい部分、曲げるべき部分、曲げてはいけない部分を見極めるのだ。


「やれやれ。新時代の作家の腕の見せ所だな」




 *




 心なしか、いつもより覇気のない足音が近づいてきた。


 最近のテレビ番組はどれもこれも流すに値しなくなってきたので、インターネットの動画投稿サイトからリラクシング・ミュージックなるものを垂れ流している。たまに入る鬱陶しい動画広告を消すためにお試しで有料プランに加入してみたが、今のところ実に快適なので今後も続けようと思っている。


 家の前で足音が止まってからインターホンが鳴るまでに二十秒を要した。


「はい」


「……氷原ですぅ」


 どうやら、あまり芳しくない知らせがあるようだ。


 私は原稿をPCで書くため、こういった修正作業も基本的にはメールのやり取りで済む。紙原稿のゲラにしても郵送すれば事足りる。それをわざわざ持ってくるのは、大抵それ以外に何か口頭で伝えたい用事があるときだと相場が決まっている。


「いらっしゃい」


 氷原くんはぺこりと頭を下げると、玄関先で鞄から原稿の入った茶封筒を取り出し、差し出してきた。


「上がっていかないのかい」


「いや……はあ……では……」


 あまりにも歯切れの悪い返事を漏らし、氷原くんは靴を脱いでとぼとぼと上がり込んだ。


 食卓に向かい合って座る。氷原くんが改めて差し出した茶封筒を受け取り、私は少し躊躇いながら封を開けた。


「げっ」


 原稿には赤文字で指摘がびっしりと書き連ねられていた。通常、二度目の校正というのは一度目の校正より指摘箇所が減るものだ。なのにこれはどうだ。赤文字が占める割合は、一度目より大きくなっているように見えた。




 ”【作品内にジェンダーマイノリティが登場しないのはどういった理由でしょうか? 一般的にとある母集団の中でジェンダーマイノリティが占める割合はおよそ一割とされていますが、この作品では明らかに十人以上の登場人物を出しておきながら一人たりとも登場していません。作劇上で不要だからなどという言い訳は通用しません。マイノリティは必要不要などという尺度とは関係なく実在します。マイノリティの不可視化こそエンターテインメント業界が背負ってきた罪です。】 


「ご機嫌いかがかな」


 銃口を男の眉間に突きつける。男は金魚のように口をぱくぱくさせていたが、やがて一言「どうして」とだけ呟いた。男の股間にはほのかに臭う染みができつつあった。


【平然とこういった汚い男性器を描写する神経を疑います。性被害に遭った女性のトラウマを想起させる危険性などを考えていない。著しく配慮に欠けていると言わざるを得ません。ジャップオスは皆去勢するべきです】


「そこの二人は私の家のベランダを玄関と勘違いしていたようだが、君はもしかして、トイレと勘違いしているのかな」


【作中で人殺しの道具を平然と出すのは殺人の片棒を担ぐのと同義です。作り話なら何をしてもいい時代は終わりました。先進的な欧米の基準を見習い、日本も犯罪を教唆するような内容のフィクションは有害であると法律で定めるべきです】


 私は散弾銃を男の股間に向けた。男の股間の染みが広がった。男の眉間に向け直した。男の目と鼻と口からそれぞれ別種の液体が流れ落ちた。股間に向け、また眉間に向け直した。股間に向ければ股間からの、眉間に向ければ顔からの水分放出量が多くなった。


【作中に女性を登場させなかったり、登場させてもひどい役回りを押し付けることは女性差別の肯定に繋がります。日本に蔓延る旧来の男尊女卑社会から脱却するには人々の意識を根底から改革していく必要がありますが、あなたの作品はその邪魔をするものであり非常に有害です。また、作中で女性の主要登場人物の割合が少ないのも、作劇上で不要だからなどという言い訳は通用しません。女性は必要不要などという尺度とは関係なく実在します。マイノリティの不可視化こそエンターテインメント業界が背負ってきた罪です。】






 よく見ると、赤文字は文章への指摘というよりも作品自体への指摘ばかりだった。登場人物の性的、政治的、人種的属性とストーリー上での役割。そして、もはや指摘の体を成さずに書きたいことだけ書いているものも見受けられた。


 氷原くんは椅子の上で最大限に身体を縮めて体操座りをしている。大柄な氷原くんの体重をすべて受け止めている椅子がミシミシと悲鳴を上げていた。


「説明してもらえるかな」


「……編集部の方針で、専門の校正者を通すことになって……」


「専門?」


「はい。人種、宗教、性別などについて正しい表現ができているかどうか、従来の校正者では限界があるということで、そういった分野を専門に学んでいる方を通さないと出版できないように決まったらしくて……僕もまさかここまで指摘が入るとは思ってなくてぇ……」


 氷原くんは言葉を濁したが、要は世界的な潮流に逆らわずポリティカリー・コレクトな表現をしろというお達しだろう。留川事件よりはるか昔から長きにわたって議論されてきた問題だ。エンターテインメントにおける人種、性別、宗教、その他その他の差別を許さないという風潮。


 日本の作品はある種ガラパゴス的な側面があり、非常に誤解を招く言い方をすれば、その独自の面白さゆえにこれまで白人様からお目こぼしされていた。ここに来てフェーズが移行したということだろうか。そういえば今や国際映画祭やその他の著名な賞なども、政治的に妥当な表現であり、かつ製作陣の中に黒人や女性、身体障害者、性的マイノリティが一定の割合で存在していなければ受賞はおろか選考の俎上にも上がらないと聞き及ぶ。


「しかし、これらの議論は今に始まったものではない。どうして急にまた……これも留川事件か?」


「そうですね、直接の原因ではありませんが。以前からずっと働きかけはあったようですので、事件で弱腰になった出版社たちがとうとう押し負けた、というのが正しいかと……」


「はあ……」


 チェーホフの銃、という言葉がある。


 最後まで誰も発砲しない銃を、舞台の上に置いてはいけない。作劇上の手法であり、要は物語に出てくるものには何かしらの意味がある(逆に、意味のないものを無闇に登場させることは混乱を招く)というものだ。


 マイノリティを登場させるとき、読者は作劇上の必要性をそこに読み取る。


 スポーツ部活動ものの青春小説があるとしよう。転校してきた、実家が古武術の道場である、そういった特殊な属性の人物たちがストーリー上で一切活躍せずに終わったら? 何の掘り下げもされないまま終わると、肩透かしを食らったような気分になるだろう。それは叙述トリックなどに用いる場合を除き、読者に対するある種の裏切りとなる。


 性的少数者についてはカミングアウトなどの問題も関わってくるため話は複雑になるが、つまりはそういうことだ。作劇をおこなうとき、作り手は常に、想定する大多数の読者にとっての「普通」を考えなければならない。


 しかし、当のマイノリティたちにとってはたまったものではないだろうな、とも思う。自分たちの存在がすっかりものとして扱われるのだ。何か役に立つときだけは出演してもいいよ、と。これほど耐え難い屈辱はない。マイノリティの不可視化こそエンタメ業界が背負ってきた罪であるというのも、決して的外れな意見ではないのだ。


 このように、多数派と少数派の断絶は想像をはるかに超えて根深い。ポリティカリー・コレクトであることは決して作品の面白さを担保しない、そのことも断絶に拍車をかけている。


 しかしながら、だ。


「ごめんなさい……」


 目に涙を溜めながら氷原くんが頭を下げる。


「前にも言ったが、君のせいではない」


 私は氷原くんの頭を撫でた。


「頭を上げたまえ。……それにしても困ったな。また注釈でも付けるか?」


 半分諦めながら呟くと、氷原くんは頭を跳ね上げてパッと目を輝かせた。


「いいですね!」


「え?」


「注釈ではなくとも、地の文に付け足すだけでいいんです。この登場人物はジェンダーマイノリティで、この登場人物が主人公に対してカミングアウトをおこなっていないため直接的な描写が存在しないだけだ、みたいな感じの描写を入れたらどうですか? 自分がマイノリティであることを周囲に隠している、あるいは時代的背景により自分でも気づいていない。そういうことにしましょう。これで解決です」


「それじゃ……なんというか……根本的な解決にはならないんじゃあないか?」


 それに、キャラクターの造形はストーリーの根幹に関わる部分だ。ただのマジョリティと、マジョリティに扮したマジョリティでは言葉や行動にどうしたって違いが出る。強い言い方をすれば、その違いも描けないのなら作家をやる必要はない。


「根本的な解決が望めるとすれば、それは社会が変容してすべてのマイノリティが平等に扱われるようになったときです。どれだけ楽観視しても今後数十年程度では変わりません。それまで出版を待ちますか?」


「いや……しかしだな……」


「必要なのは社会全体の意識改革です。それは一朝一夕で成し得ることではないし、先生の作品だけに背負わせるべきことでもありません。先生の作品の出版と意識改革を同時に進めるには注釈を入れて一人一人が考えるきっかけを作るのが最適解だとは思いませんか? それがめぐりめぐってよりよい社会を形作っていくのです」


 興奮した氷原くんがぶんぶん腕を振り回しながら叫ぶので、私は「わかったわかった」と彼の肩を掴んで押し留めた。


「私の作品をそこまで買ってくれてありがとう。ではその方法でいってみよう」


「よろしくお願いします!」


 氷原くんはぴょんと立ち上がって私の手を掴み、ぶんぶん振り回してから私の頬にキスを浴びせた。それからスキップで家を出て行った。


 どうやら日々の仕事の重圧で少しおかしくなってしまっているようだ。


 それもそうだろう。初めての事態に皆戸惑っている。留川事件の被害者は既に二桁を超えた。警察の捜査は遅々として進んでいないらしい。世間では犯人像が好き勝手に作り上げられており、警察関係者、政治家、そういった類の人間なのではと邪推されているようだ。そして、犯人がいなくとも鬱憤は溜まっていく。群衆は手頃なを求め始める。


 フィクションに対する風当たりはますます強まっていた。留川事件被害者の会が独自に公開した「作品ガイドライン」に少しでも抵触する作品は悉く槍玉に挙げられ、インターネット上で作者や役者共々個人情報を公開され、ひどい嫌がらせをされているという。私がインターネットをあまり見ないようにしているのは、それらを目に入れないようにするためでもある。


 これを受け、推理やミステリはもちろん、人間が死ぬ描写のあるものは刊行しないと明言した出版社さえ現れた。巷では日常系と呼ばれるドラマやアニメが再流行の兆しを見せているらしく、さもありなんといった様相である。


 今後、この業界はどうなっていくのだろうか。


「作家以外の仕事でも探すか……」


 適当な登場人物の登場シーンにできるだけマイノリティ的な要素を後付けしていきながら、情けなくなった私はぽつりと呟いた。




 *




 足音が止まってから一分以上が経過した。


 最近は家の中でずっと環境音シリーズの中の『生活音:複数人』を流している。これには誰かの話し声、キッチンの水音、廊下に響く足音、などが収録されている。別に寂しさに耐えられなくなったとかそういうわけではない。自衛のためである。


 そんな人工的な生活音に紛れて久しぶりに本物の人間の足音が聞こえたと思ったが、待ってみても一向にチャイムが鳴らない。残念、聞き間違いかと玄関の覗き穴に目を当ててみれば、幽鬼のような出で立ちで玄関先に佇む氷原くんの姿が見えるではないか。


 しばらく見ない間に随分と痩せ衰えており、目だけを爛々と輝かせていた。


「入りたまえ」


 扉を開けると、氷原くんはびくっと身を竦ませて両手で顔を覆った。「ごめんなさい! 叩かないで!」


 どうやら、思っていたより重症のようだ。


「叩かないよ」


「あっ、先生……すみません、チャイム押してないのに扉が開いたからびっくりして」


「びっくりしたのはこちらも同じだが……もしも君がパワハラなどを受けているのなら、然るべき場所に出たまえよ」


「あ、いえ、それは大丈夫です……上司も同僚も同じ状況ですので」


 なんとなく察した私は黙って氷原くんを招き入れた。


 留川事件の被害者数が四十人を超えたあたりで私はニュースを見なくなった。新聞も購読しない。時々インターネットを眺めるだけ。世間から切り離されたような生活である。しかし留川事件より身近で恐ろしい問題が迫ってきているのだけは、嫌でも感じ取れた。


 同業とのやりとりやネットサーフィンなどでいくつか耳に入ったショッキングな事件がある。


 曰く、人気作家の誰それの自宅に火が付けられた。曰く、他社の編集者が外回り中に襲われて負傷した。曰く、とある映画監督に毒入りの差し入れが送りつけられた。要は過激なフィクションに携わる人間への私刑がおこなわれている、というものである。


 これが本当なら、いつ自分に飛び火しないとも限らない。流している環境音は苦し紛れの自衛の一環だ。


「今日はどういった用事かな」


 氷原くんはぼさぼさの頭を一応手ぐしで整えてから、にへらと笑った。


「うへへ。ご報告と、注意喚起に……」


 このような状況下でも、己の作風を曲げないクリエイターたちは一定数いた。そして、その影には同じく一定数のマネージャーや編集者、スポンサーたちがいた。世論に負けず、自由な作品を。協力して表現の自由を守ろう。そういった気概で世の中に挑む人々は確かに存在していたのだ。


 私と氷原くんも、その類の人間だった。


 二度の校正と大幅な改稿、注釈を加えた上で私の新作「近未来言葬」は出版された。


 注釈には大変苦労したが、今では奇妙な満足感さえある。


 たとえば主人公に散弾銃を向けられていろいろなものを漏らす男だが、実は性同一性障害を持つレズビアンであると注釈を入れた。少数派の中の少数派を登場させつつ元のストーリーラインから逸脱しない、完璧な采配である。マイノリティは舞台の小道具ではないと主張する人々に対する当てつけのように思い切りマイノリティを小道具として使ってしまった気がしなくもないが、なぜかこれで社内会議は通ってしまったらしい。


 些細な問題はあれど、挑戦的かつ配慮を忘れない仕上がりになったと自負している。


「じゃあ順番に聞こうか」


「はい。まずご報告ですが……近未来言葬、重版かかりました。二万部突破です。これまでの先生の作品の中でも一番売れています」


「なんだって?」


 私は耳を疑った。これまで私の作品が初版含めて一万部を超えたことはない。


「ヒット作じゃないか」


「ヒット作です」


 氷原くんは胸を張った。


「これでもう、数万部売ってから言え、と上司に怒られることもなくなります。まあ上司は現在絶賛入院中なんですけどね。ワハハ」


「ワハハじゃないよ」


「考えられる要因なんですが、まず単純に面白いこと。これは譲れません」


 私は照れて頭を掻いた。


「ありがとう」


「それから競合が少ないことですね……時勢柄どの出版社も躊躇するタイプの作品ですから、読者も飢えていたのでしょう」


「……それだけか?」


 それだけでヒットするのなら苦労しない。


「あと、僕も理由を考えてみたのですが、インターネット上に転がっていた意見として面白かったのが『規制に対する反抗そのものが文学として成り立っている』と……穏当な表現を模索して試行錯誤した痕跡そのものがひとつの作品として鑑賞に値するという」


「なんじゃそりゃあ」


 頷けないこともないが、どこか釈然としない。


 私の表情からそれを察したのだろう、氷原くんは慌てて「もちろん一部の意見ですよ」と手を振った。


「ちなみに賛否両論です。評価は最高と最低が乱立しており平均ぴったり2.5、レビュー欄では表現規制推進派と反対派が水掛け論を繰り広げています」


「まあ予想の範疇ではあるな。レビュー欄はさておき」


「それと、他の作品と比較すると明らかに電子版の売り上げが大きいんですよね。……まあ、書店で買おうものなら有害フィクションに賛同する者と見做されて暴行されかねないというのが主な理由だと思いますが」


 私は呆れて顔を顰めた。


「そんなことになっていたのか……」


「はい。それが本日お話ししたかったこと、ふたつめです。フィクションに携わる人々の身の安全を保障するのが刻々と難しくなってきています」


 聞いた噂は本当だったらしい。


「最近どうにも物騒らしいね」


「ええ。出版社の建物に出入りするだけでじろじろ見られたり怒鳴られたり、ひどいときは殴られたり包丁を投げつけられたりします。ですので最近は出社せずに仕事をしています。数十年前のコロナ禍でも実現しなかったリモートワークがようやく実現した、と上司が病室で喜んでいました。あ、上司はもう喋ることができないので筆談でですが」


 どういう表情をしていいのかわからず、私はとりあえず曖昧に笑っておいた。


「じゃあもう外に出なくてもいいわけだ。安全じゃないか」


「いえ、そういうわけでもないのです」


 氷原くんは自分の身体を両腕で抱きかかえた。


「留川事件の被害者は増え続けてます。当然、被害者の会の人数も増え続けてるようで、一説によると既に五百人以上。ひとつの組織と呼ぶにはあまりにも大きくなりすぎたせいか内部で複数に分裂しているらしいんですが、その中のひとつがとんでもない過激派らしくて……有害なフィクションを助長する人間は多少乱暴な手段を用いてでも止めたほうが社会のためになる、という論調で……」


「なんだそりゃあ」


 あべこべだ。そのうち被害者の会の被害者の会を設立する日がやってくるかもしれない。


「有害なフィクションの流布に加担した人々は現在の法では裁けないため我々が裁く、と。実際に人々を扇動し、私刑を主導しているのがこの団体です。卑怯なことに、奴らは実際には手を汚しません。実行しているのはこの思想に賛同している匿名の人々で……捕まえても捕まえてもキリがないんです」


 私は天を仰いだ。


「それで、あの、関連する書き込みとかたくさん調べたんですけど……先生の個人情報も、かなり出ています。中には家を特定して襲え、なんて物騒なものまで。本名や住所もいくつか書き込まれています。大抵的外れですが、どこから流出したのか、正しいものもありました。どうしようかと悩んでいます。ああいった書き込みというのは、無闇に消そうとするとそれが真実だと逆に主張することになるんです……それで迂闊に削除申請するわけにもいかなくて」


 私は頭を抱えた。


「警察にも相談したんです。ただ、相変わらず留川事件にとんでもない数の人員を割いてるみたいで、もう軽微な暴行や脅迫なんかの事件については捜査の手が足りないらしいんです。ましてやインターネット上での書き込みなんて事件未満の事件には」


 氷原くんは拳を握りしめた。


「おまけに電話で『そんなもの出版するからだ』とまで……人々の安全を守るべきポリ公がこの体たらくでは」


 文字に起こしたらポリ公のところに【不適切です】と校正コメントが入るだろうなと思いつつ、私は頷いた。


「危険だね」


 正義感に突き動かされる群衆ほど危険なものはない。そして私は悪の側、断罪される側である。そんな私の名前や住所が次々とインターネットの海に放り出されているわけだ。「一度痛い目を見ないとフィクションの危険性がわからないやつ」「罰されるべき人間」のレッテルとともに。


「ええ。近いうち先生のところに何らかの実害が及ぶ可能性は、残念ながら高いと言わざるを得ません。特に一人暮らしですし」


 家に一人だとわかれば格好の的になりかねない。そう思って流し始めた環境音だが、どうやら正解だったかもしれない。


「しかし、どうしようかね。私には帰る実家もないし」


「そこで提案があるんです」


 氷原くんが椅子から立ち上がり、食卓を回り込んでぐっと顔を近づけてきた。


「わ。何だい」


「しばらく僕の家で、二人で一緒に暮らしませんか? 一人より二人のほうが安心できますし。うちはオートロックの高層マンションなので、こんな安アパートの二階に住むよりは安全でしょう。決行の日はもう決めてあるんです。先生は必要最小限の荷物をリュックか何かに詰めて運べるようにしておくだけでいい。あ、一応武装しておいたほうがいいかも」


「あ、ああ」


 椅子から立ち上がって後退りすると、氷原くんも同じ距離だけ動いて顔を寄せてきた。


「それに僕、気づいたんです」


 顔がますます近づいてきて、鼻息が頬をくすぐった。顔を背けようとしたが、目を離せない。いつしか壁際まで追い詰められていた。


「な。なにに」


「僕はもう先生と離れたくない」


 氷原くんの厚ぼったい唇が私の唇に吸い付き、生き物のように蠢く舌が口内へと侵入してきた。壁と氷原くんに挟まれ、覆い被さられて、私の腰からへなへなと力が抜ける。


「もが」


 舌が絡み合い、淫猥な水音が頭蓋に響く。


「ん……ふっ」


 氷原くんの逞しい腕が私の首を撫で、鎖骨をなぞり、下へと降りていく。敏感な突起に触れるか触れないかのところを、焦らすように指が這い回る。


「ぷは。だ、だめだ氷原くん」


 言葉とは裏腹に、下腹部が熱を持つ。


「何がだめなんですか? 教えてくださいよ、ポリティカリーにコレクトな表現で」


「あっ」


 溺れていく。


 氷原くんの厚い胸板に押し潰され、肉の重さを全身で受け止めながら、私は知らず知らずのうちに彼を強く抱きしめていた。




 *




 しんと静まり返った夜がなんだか不気味で、無機質な生活音の音量を少しだけ上げた。


 約束の時間が近づいている。


 氷原くんの家にしばらく避難する、その決行日である。深夜に氷原くんがレンタカーで迎えに来る手筈になっている。人に見つからないようさっと乗り込んで、さっさと移動してしまえばこちらのもの。必要最低限の着替えと仕事道具を詰めたリュックは既に用意している。


 ふと、遠くから足音が聞こえた気がした。


 耳を澄ませてみたが、物音はない。


 幻聴か。そんなにも待ち遠しいか、と自分で自分を嗤ったそのとき、再び何かが聞こえた。今度は聞き間違いではない。一人や二人ではない足音が、徐々に近づいてくる。


 さっと身構えた瞬間、足音が止まると同時に凄まじい衝突音が響いた。この家に用のある人々が、扉に勢いよくぶつかった。あるいは、何かをぶつけている。どうやら礼儀というものを知らない人種である。


 何が起こっているのかを推し量るには十分すぎた。


「留守か?」


「いや、明かりは点いている。物音もする」


 ぬかった。私は慌てて垂れ流していた環境音を消す。消した瞬間、これでは中に人がいると知らせたようなものではないかと気付いた。


 思わず舌打ちをする。焦ると冷静な判断ができない。


「音が止んだな。居留守を使う気かもしれない」


「ベランダの窓を割って入るぞ」


「見せしめだ」


 漏れ聞こえる会話に、膝が震え始めるのを感じた。


 ここは二階で、大した高さではない。裏に生えている木をうまく伝えばベランダに侵入することは容易い。バリケードを築くか? 私は首を振る。壁になりそうなものが本棚と机しかない。この程度では数の力で簡単に破られてしまうだろう。


 全員が裏に回ったらこっそり玄関から出られないだろうか。


「玄関は俺達が見張っておく。ベランダから入って、クソ野郎を捕まえたら中から扉を開けてくれ。まだ生かしておけよ」


 一瞬だけ浮かんだ期待はすぐに打ち消された。


 ああ、なんというタイミングで! 私は自分の不運を呪った。


 このまま抵抗せずに捕まったとしてどうなるか。「見せしめ」と言っていた。最高に運がよくとも病院送りは確実に思われた。さりとて抵抗して相手を逆上させてしまったらどうなるかわからない。火に油を注ぐようなものだ。


 どう転んでも地獄が待っている。


 どうしようもないという諦めを、突如湧いてきた怒りが押しのけた。これでいいのか? むざむざとやられるのを待つのか? 私は、壁に飾ってある銃に目を向けた。取材を兼ねて射撃を習ったとき購入したものだ。最近は使ってこそいないものの、手入れは欠かしていない。


 ベランダのほうが騒がしくなってきた。


 私は居間まで戻り、リュックを背負い、飾っていた銃を手に取った。全長120cm、上下二連式の散弾銃だ。弾薬は隣の金庫に入れてある。金庫を開け、取り出した実包を下、上と装填してさらに二発分を指に挟み持ち、残りはショットシェルケースごとリュックのポケットに突っ込んだ。


 ベランダの窓ガラスに何かがぶつかる音が聞こえる。


 私は引鉄に指をかけた。


 ロードレイジ、という言葉がある。日本語では広義の煽り運転と言い換えてもよい。人間は車に乗っているとき、自他の境界を車の容積まで拡張する。つまり車の速さ、重さ、馬力を己と同一視し、気が大きくなってしまうのだ。自己の過大評価、その結果として粗暴な言動や乱暴な運転などが見られるようになる。


 人の力を凌駕したものを所持していると気が大きくなるのは、何も車に限った話ではない。ナイフを持ったチンピラも銃を持ったヤクザも、あるいは包丁を持った家事手伝いにさえ、その傾向は見られる。


 それは私とて例外ではなかった。


 ベランダに面した窓ガラスに再び何かがぶつけられ、ぴしりとヒビが走る。こちらからカーテンで仕切っているため外の様子はうっすらとしか見えないが、襲撃者たちは裏に生えている木を伝って次々とベランダに登ってきているようだった。


 ベランダには何人いるだろうか。いつのまにか恐怖は消え失せていて、純粋な高揚感だけがあった。何人いるだろうか。そのうち何人、仕留められるだろうか。


 私は勢いよくカーテンを開け放った。


 ひび割れた窓ガラスの向こう、今まさに角材を振り上げていた黒人の男が凍りつく。その横にはこちらを見てニヤけ面をしているアイヌ民族の女、そしてその後ろにスマートフォンで誰かと連絡を取ろうとしているエスキモーの男。なお、ここで書いた性別は暫定であり、実際は違うかもしれないし、肉体的な性別と精神的な性別が乖離しているかもしれない。


「三名様ご案内」


 私は散弾銃をぶっ放した。


 三人全員を狙えればよかったのだが、生憎、散弾銃というのはそこまで広角で弾が散るわけではない。二十メートル離れてようやく直径一メートルまで広がるかどうかといったところ。至近距離では強みを活かせない。しかし、間を窓ガラスが隔てていれば話は別である。


 窓ガラスを突き抜けた散弾が正面で角材を振りかぶっている男に突き刺さると同時に、角材によって既にひび割れていた窓ガラスが粉々に砕け散り、ベランダの三人へと真正面から降り注いだ。


「ぎゃあ」


 まず悲鳴を上げたのは角材を振りかぶっていた男である。直径2.41mmの散弾が400個ほど込められた装弾は窓ガラスとの衝突によって幾分かその数を減らしたものの、およそ七割が無事に男の腹部へと着弾した。至近距離から放った散弾たちは高い運動エネルギー密度を持ち、腹部の皮膚を円形に突き破ると柔らかな内臓に点ではなく面の衝撃を与え、背中の皮膚に直径32cmの穴を開けて背後へと抜けるに至った。男は角材を振りかぶったままゆっくりと倒れ、背後の壁にはてらてらと光るピンク色の腎臓、副腎、膵臓、下行結腸、その他諸々が工事現場のスプレーの落書きのようにある種の計算された緻密さで配置されていた。


 その間、残り二人の襲撃者の関心は専ら割れて降り注いだ窓ガラスに向けられていた。


 もっとも窓の近くにいて室内を覗き込もうとしていた女の顔には細かく割れたガラスの破片が目算で百以上は突き刺さっており、しかし貫通するほどの威力を持っていないガラス片は、皮膚を1cm抉り皮下脂肪および表情筋の層を掻き回すに留まっていた。


「うおごぶろろろろ」


 がぱりと開いた女の口から赤黒い血液と黄色い皮下脂肪の塊が混じり合って飛び出した。どうやら皮膚の下でガラス片どうしが接触し、掻き回された皮下脂肪の層が重力に従って口内へと滴り落ちる通り道を作ったと見えた。まだ状況を把握していない女が瞬きするたびにガラス片が擦れ合ってじゃりじゃりと音を立てた。


 二人の後ろでスマートフォンを操作していた男は、狙いを逸れた散弾が三個ほど脚に突き刺さったことにも気づいていない様子でへたり込んだ。スマートフォンを操作していた人差し指が飛んできたガラス片によって第二関節の半ばから切断され、さらに自分の顔の横に湯気の立つ臓物たちが突如として貼り付けられたからである。


 私は砕け散った窓ガラスを踏み越え、悠々とベランダに出た。


「ご機嫌いかがかな」


 銃口を男の眉間に突きつける。男は金魚のように口をぱくぱくさせていたが、やがて一言だけ「私は性同一性障がいに悩むレズビアンだ」とだけ呟いた。男(これ以降は精神的性別にしたがって女と呼ぶことにする)の股間にはほのかに臭う染みができつつあった。


「そこの二人は私の家のベランダを玄関と勘違いしていたようだが、君はもしかして、トイレと勘違いしているのかな」


 私は散弾銃を女の股間に向けた。女の股間の染みが広がった。女の眉間に向け直した。女の目と鼻と口からそれぞれ別種の液体が流れ落ちた。面白くなって股間に向け、また眉間に向け直した。股間に向ければ股間からの、眉間に向ければ顔からの水分放出量が多くなった。


 私は迷った末に散弾銃の弾は節約すべきであるという考えに至り、落ちているガラスの破片の中からできるだけ細長く鋭い角度を持つものを選び出して彼女の開きっぱなしの喉に押し込んだ。


「むぐ。げ。ぶ」


 彼女はじたばたしつつも私の手の助けを借りて熟練のマジシャンのようにガラス片を嚥下したが、どうやら少し失敗したらしく、首の後ろ、第七頸椎あたりからガラスの切っ先がわずかに飛び出してしまった。ついでなので股間をガラス片で切り裂いて去勢し、精神と肉体の性別を近づけておいた。


「おい、どうした。窓は割れたのか」


 下から声がしたのでベランダから身を乗り出して覗くと、木に登ろうとしている姿勢で固まっている女、あるいは男が二人いた。先にベランダに登った三人が急に返事をしなくなったので不審に思ったと見える。こちらを指差して何事か喚こうとしたので、とりあえず一発撃った。二人がちょうど射線上に重なるようにして立っていたため、やや広がった散弾はそれぞれの右頭部と左頭部に仲良く半分ずつ着弾した。折り重なるようにして倒れた二人の手は固く結ばれており、二人の頭に半分ずつ空いた穴は身体の絶妙な重なり具合によって真っ赤なハートを形作った。私は感動し、「愛は性別を超えるもの也」などと呟いた。


 これからどうしたものかと思案していると、私の耳が玄関のほうから物音を拾った。扉を叩く音。「今の音は何だ」「捕まえたなら早く扉を開けろ」叫ぶほどではないが大きめの声。


 ベランダに回り込んだのが全部で何人かはわからないが、他に人影は見当たらない。おそらくこれで全部だろう。あとは玄関にいる奴らを片付ければ……と散弾銃に弾を込め直したところで、急ブレーキ音と車のドアが開く音が聞こえてきた。少し遅れて、慌てたような足音。


「なんだ貴様らは」


 氷原くんの声である。私は心が急速に浮き立つのを感じた。


「お前こそなんだ。怪我をしたくなければ引っ込んでろ」


「この家の住人の知り合いか?」


「恋人だ」


「恋人だと? じゃあお前も――」


 私は恥ずかしくなって玄関まで走っていき、勢いよく扉を開けた。けっこう重いものに当たる感触がしたけれど気にせず限界まで押し開く。扉に薙ぎ払われるようにして倒れこんでいる二人の男に、先程込めたばかりの弾を二発ともぶっ放した。


「先生!」


 氷原くんがこちらを見て嬉しそうに微笑む。


「折悪しく狙われてしまったが、とりあえずこれで全員撃退したよ」


「無事で何よりです。ただ、こいつらをこのまま放っておくとまずいかもしれませんね……」


「む。まあ先に殺されそうになったのは私なのだから、正当防衛が成り立つのではないかな」


「明らかに過剰防衛でしょう」


「そうか。だとしたらまずいな……いや、まあ刑務所の中というのはある意味もっとも安全な場所かもしれないが」


「いいえ、先生は僕と暮らすんですから刑務所などに入ってもらっては困ります」


 私はひどく赤面した。


「でも、これでは言い逃れできまい」


「いいえ、ひとつだけ方法があるんです」


「方法?」


「はい」


 氷原くんは声を低めて囁いた。


「こいつを留川事件の一部にします」


「なんだって?」


 私は叫んだ。んだって……だって……って……って……と夜の住宅街に叫び声が反響した。


「しっ。ここで話すのも何ですから、まずは僕の家へ。荷物はそのリュックと銃だけでよろしいですか?」


「あ、ああ」


 私は混乱しているまま車に押し込まれ、氷原くんの家へと向かった。




 *




 都市部のタワーマンションの一室。壁一面の本棚から溢れ出すように床にまで書籍が散乱しており、実に氷原くんらしい部屋であると言えた。


 向かい合って座り、出されたお茶を飲みながら私は「さて」と切り出した。


「どういうことだ? 君は留川事件について何か知っているのか」


「ええ。もちろん全貌は僕も把握していませんがね」


 それから氷原くんが語ったのは、実に壮大な計画であった。


「これはマスコミ……特に出版業界が仕掛けたものなんです」


 売り上げの低迷に窮した出版・マスコミ業界の上層部が極秘に練り上げたひとつの計画。フィクションを模倣した殺人事件を派手に起こすことで、業界全体が大きな「話題」を得ることになる。事件の特番、事件について論じる書籍……それに伴う出版や放送の活性化……一部の「有害な」フィクションを敢えて槍玉に挙げることで、低迷している業界に活気を与えようとしたのだ。


「これを見てください」


 留川事件以前と以降のテレビ視聴率。新聞購読率。書籍の販売利益の推移。氷原くんが差し出したタブレットの画面に映るグラフを見て、私は唸った。確かにどれも上がっている。そしてそれ以上に……ひとつの大きな事件、ただそれだけでここまで上がってしまえるほどに、元の値が低かった。本当に、切羽詰まっていたのだ。こんな事件を起こしてしまえるほどに。


「大衆は情報を求めます。それだけではありません。実は留川事件で殺し方の題材となったフィクション作品たち……それらの売り上げもまた、上がっているのですよ」


「あんなに批判を受けているのにか」


「批判を受けているから、です」


 私は納得し、頷いた。宣伝は球数だ。客がその商品に興味を持ち、購入に至るまで誘導するには、とにかく情報を与え続けなければならない。通常、人は一度目に入った程度でそれに興味を持つことはないが、何度も目に入れば意識に上らずとも脳が覚える。そしてある日、何らかのきっかけによって認知は興味へと昇格する。世の中に流される広告・宣伝のどれもが日々それに腐心しているのだ。


「有害なフィクションだと叩かれていようが、気になったものは読みたくなるものな」


「ええ。先生の最新作もそうでしょう。世間的によろしくない本であったとしても、話題に上がれば気になってしまう。おおっぴらに公言せずとも皆読んでいる。皆見ている。いわばアダルト作品のような位置付けです。最近はインターネット上で『この本が有害である』というリストが多数公開されていますが……その中には私たちのような業界の人間が作ったものも混じっており、それを見た人間に表示される広告もカスタマイズされる仕組みになっているんですよ」


「嫌厭する一部の人間よりも、それに興味を惹かれる人間のほうが多ければ問題ないわけか」


「はい」


 私は茶を啜った。


「それで、留川事件の一部にするというのはどういうことだ?」


「先生ならもうお分かりでしょう。事件の犯人がどれだけ優秀でも、手がかりを一切残さずに数十件の殺人をおこなうことなど不可能ですよね?」


 大方予想通りではあったが、改めて聞くと空恐ろしいものを感じた。つまり、そういうことである。


 出版・マスコミ業界には世の中のありとあらゆる情報が蓄積されている。それには政治家や官僚の不祥事、裏の繋がりなども含まれているが、それが記事となって世に出回ることはない。権力者どうしで繋がっているに止められるからだ。


「蓄えてきた情報によって警察方面の上層部にも脅しをかけています。権力を得れば得るほど、人間には後ろ暗いところが増えていく。留川事件の捜査は今後も進まないでしょう……現場でどれだけ捜査が進もうと、警視庁の上層部がそれを打ち消すように動くのですから」


「情報は武器だな」


「ええ。情報は武器です。大衆は曇りガラスの窓越しに受け渡された情報をただ鵜呑みにするしかない」


 仮にインターネットの海に真実の欠片が落ちていようと、その百倍千倍の偽物が波間を漂っているのだ。誰もその正確性を担保できない。


「ですから先生を襲った人間も留川事件の被害者に名を連ねるでしょう。なあに、散弾銃で撃ち抜くなんて特徴的なやり口、きっとすぐに適当なフィクションが見つかりますよ。それに、つい最近どこかで読んだような内容ですしね」


 頷こうとして、引っかかりを覚える。


「見つかる? もしかして」


「はい。殺し方は適当な作品から選ばれていますが、こうやって殺した後に選ぶのも初めてのことではないみたいです。この計画に反対した人、あるいは不幸な偶然によってしまった人……最近被害者になってるのは割とそういった方々が多いようですから」


 少しだけ身構えた私に、氷原くんが笑いながら近寄ってくる。初めて出会ったときから変わらない爽やかな笑い方。


 先程、私の家に駆けつけたときのことを思い出す。目の前で人間を二人撃ち抜いたというのに、少しも驚く様子を見せなかった。何かを尋ねることもしなかった。まるで、私が襲われたことなど最初から知っていたように――。


 聖書の通りだ。悪魔は、天使の笑顔でやってくる。


「心配しなくても大丈夫ですよ。先生はもうこちら側だ」




 *




 留川事件の新たな被害者が報道されると、世間はしばらくその話題で賑わっていた。


 なにしろ七人同時の殺害は事件の中でも初めてのことである。『出琴紫陽という作家の最新作「近未来言葬」を模倣して殺害されていた』というニュースが出回るや否や、インターネットでは有害なフィクションとして好き放題に批判され、不買運動や出版差し止め、中には私刑を呼びかける声までもがあちこちに投稿されていた。


 ふと、足音が聞こえてきた。以前暮らしていたアパートより壁は厚いし防音もしっかりしているが、玄関扉の前を誰かが通る音はさすがに響く。


 足音が止まった。


 私は心の中で三つ数える。


 一、二、三。


 きっかり三秒後にインターホンが鳴り、「氷原です」と声がした。


 私はパソコンを閉じ、玄関扉を開けにいく。彼の家なのだから自分の鍵で入ってくればと思うが、私が家にいるとき、氷原くんは毎度きっちりインターホンを鳴らす。


 扉を開けると、そこには満面の笑みの氷原くんが立っていた。


「いい知らせですよ先生。『近未来言葬』の売り上げ、まだ伸び続けてます」


改ページ









※この作品はフィクションであり、特定の人物・属性・団体・思想・信条・運動等とは一切関係ありません。


※この作品はフィクションであり、特定の人物・属性・団体・思想・信条・運動等を揶揄する意図はありません。


※この作品はフィクションであり、不適切な語彙が多数登場しますが、作中の時代設定を反映したものであり、差別を助長する意図はございません。


※この作品はフィクションであり、犯罪、特に殺人や暴力を肯定または教唆する意図はありません。


※この作品はフィクションであり、ノンフィクションではありません。


※この作品はフィクションであり、最低限フィクションと現実の区別が付く読者を対象としています。


※この作品はフィクションであり、フィクション以外の何物でもありません。




※LGBTQIAへの配慮として、この作品の主人公の身体的・精神的性別については一切言及しておりません。好きなように解釈してお読みください。

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