眇たる学生・二   作・樋口橙華

 通勤時間を外れ、程よく混んだバスの中で吊革に掴まる猫背男は吉田晴人という学生である。彼は平成三十年六月二十五日の午前九時に某町の自宅を出発し、十時三十分の講義を受けるべく通学の途に就いた。


 そもそも大学は人口の多きにつられて若者も多く生み出される都市に湧き出るものであるが、都市とは住宅の生い茂るところに行政を加え、商業の拠点を突き刺した結果であって、広くまとまった土地などもとよりなく、それ故都市に遠からず、近からず、街とも山とも言い切れないところへ追いやられる。人々が大学に向かうには都市の中央からであれば車、電車、あるいはその両方を頼らなければならない。


 この学生はしきりに時計を見つつ落ち着いている。彼の感情は今すぐに運転席に駆け寄り既に自車両の遅延を痛感し今乗っている乗客とこれから乗ってくる乗客を待たせている事実にストレスを感じている運転手を心中察せず急かすほどに冷静さを失っている。しかし、バスの中で携帯を扱えばたちまち気分が悪くなるが故に暇を持て余し、全く無警戒にくつろいでいる他の乗客を観察してあれやこれやと想像を膨らませているような他人から見てみれば、どこにでもいる温厚、真面目な性格と察する若者で、その平凡男が今遅刻か否かの瀬戸際にあるなど言われなければわからないほど理性があった。


 バスが遅れることは乗客の責任にあらず。されどその日の道路で発着は前後することは自明であって、またそれは備えておけばよいものであって、つまり遅延は遅刻の理由にならないためである。


 彼は顔を下に向けて携帯を点けて時刻を見、また顔を持ち上げて窓の外を眺むるとき、さらに首を左右に振り、瞳を自在に回転させ壁をなぞっている。片足はつま先をつけるのみで、肩は適度に脱力して、老婦人の座っている椅子の傍にある鉄棒に器用に寄りかけていた。


 遅刻の懸念は焦燥を中心にぼんやりとした塊を彼に植え付けた。それ故彼は時間を表す光の輝きが変わった途端に携帯を覗くことを止めず、勢いよく右から左に飛んでいく景色がどうであったか覚えることもしない。しかし彼の理性はこのバスが法外な速度で遅れを帳消しにすることはなく、道程が突如縮まることもないことを知っていた。ここで何か焦ったところでそれは空回りするだけならば、この雨風の凌げる箱の中で小休止をとることこそが最善と考えたのである。この理性の決断が塊の核を抜き取り、核の除かれた焦りと言い切れない何かが無意味に電気を消費させ、ここに落ち着いて焦っている青年と言うありふれた珍しいものが現れたのである。


 エアブレーキが足のいくらか下で何度も鳴った。吉田はいよいよ遅刻の予感が強まり、理性の制止も愈々手が回らなくなったあたりで漸く駅前に到着した。この郊外に至るまでに少しずつ空いた椅子に座らず立っていた邪魔者は、ここで一刻も早く降車するためであると体現するべくドアへ向かったが、この小心者は老婦人に先を越されてしまった。当の本人には何の意識もないが、この何十年と磨かれた無駄のない立ち回りに彼の歩行は敗北を喫した。この負けず嫌いに焦りの遺した濁流を溢さずにおける理性はもはや足りず、気がつけば老婦人は階段を踏み外し、ゆっくりと倒れている最中だった。吉田は覚えず後ずさりしたが、肩に誰かの手が当たったと感じ、ここで立ち止まるべからずと自戒して階段を降りた。


 彼はこの倒れた老婦人と彼女に声をかける運転手の間をくぐり、横へ流れて通り過ぎつつ考えた。


 「考えることが渋滞している。今の今までこの人に対してまったく意識を遣ることがなかったから降車を急ぐあまりに押し込んでしまったかもしれなければ、今遅刻を受け入れてこの人をひととおり助け、バスの遅延でなく人助けを遅刻の理由とすれば教授も大目に見てくれるかもしれない。いや少なくとも印象は悪くはない。」


 吉田は一歩進んだ。


 「だがここでこの人を助ければ後ろの人は俺がこの人を押したと勘違いするかもしれない。確かに急いでいたが、俺の生まれてこのかた体育以外では鍛えてすらいない体で婦人が吹き飛ぶわけがない。私はやっていない。それに、この人を助けたことをいかにして記録する。今この瞬間に先を急いで間に合えば何ら問題はない。」


 吉田はまた一歩進んだ。


 「だがここで立ち去ってしまうのはあまりに薄情ではないか。これを一日中、いやそれどころではなく長い間これのことで思い悩み得体の知れない何かに向かって懺悔を繰り返すことこそ我が身への損害だろう。」


 吉田はさらに一歩進み、彼の理性は再び主人の宰相として働き始めたとき、後ろに数人の気配を感じた。誰かが老婦人に駆け寄ったのである。


 「ああよかった。だがしかし今振り返れば自分と同じように先を急ぐ人の勘弁してくれと言わんばかりの表情が目の前に現れ、引き返せば救助活動の補欠に加わることになろう。これこそ変な気がする。何か算段を立ててからやってきたような間の悪さだ。こればかりは避けなければならない。とすると、とうとう機を逃したわけだ。もう先を急ぐ他にない。」


 青年の脳内では未だ色々な思想の塊がぶつかり合っているが、大学へ行く方針だけは空間にピンと張って静止し、船頭が羅針盤の定まるを待って舵を切るが如く、彼の身体は動き始めていた。

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