時間旅行   作・麦茶

 私が若い時に体験した不可解な出来事について、もう話してもよい頃だ。私はこの人生の晩年期に入ってようやく、あの不思議な旅の意味を理解できたと思う。

 私は七歳の時から祖父の家で暮らしていた。家庭に問題のあったためである。その問題について詳らかにする必要は無いが、私の頭から親というものを消し去るには充分な条件だったことは確かだ。私は祖父との二人暮らしには何の不満もなかった。私は元来臆病な性質で、人の声など無い方がむしろ安心していられるのだ。祖父の館には壮重な黒檀材の扉や、豪奢な紅赤色でぐるりと金房のついた絨緞や、その他古めかしい贅沢品がひしめいていた。それらの装飾品は、七歳の想像力に富んだ青白い顔の少年をして、宮殿の扉、恐ろしい龍、溌溂たる馬、美しい姫君などを夢想させ、霧のために一フィート先も判然としない窓の外に背を向けさせた。また、祖父の館は玄関を入ると右の廊下の先に食堂が、左に居間があった。中央には幅の広い階段が寝そべっていて、それを上がると私の部屋、祖父の書斎などいくつかの小部屋がある。私は居間にいるのが好きだった。ことに冬は、がっしりした暖炉が差し出す炎の舌に足裏を舐めさせながら、揺椅子におさまって色々楽しい考え事に耽ったものだ。暖炉の上には巨大な振り子時計が掛けられていて、それも私のお気に入りだった。それは祖父の家にある唯一の時計なのだ。祖父が生まれてから一度も狂いなく、金色の振り子を動かし続けている古老である。一時間毎に、この時計から重々しく力強いチャイムが家中に響き渡る。居間から最も離れた二階の書斎にいても、その天国から降りそそぐような荘厳な音はよく聞こえただろう。 


 私が不思議な旅をしたのは、祖父の館で暮らして十年も経った頃である。その一年程前から、私は不本意な徹宵とお馴染みになっていた。なにか遠くのことが気になり神経が昂って、一睡もできずに夜を明かすのだ。自分の手の先にある、距離も時間も遠い出来事、本来無知であっても許されるような出来事の、その結末を知りたくて脳髄が働いていた。目覚めていながら夢を見ている気分だった。ベッドの上で輾転とし、いっとき眠れそうに思えてもやはり遠景が気になって、また無軌道に身辺のことに気を巡らして、胸元が虚しく息苦しくなる。行き場の無い気球がいっそ微笑みながら狂気の海上を浮遊し横断してゆくように、私も遠景に対する甘い気持ちを抱いて、眠れぬ夜を浮遊しているのだった。その寂寞とした感傷は、父や祖父の家系から来る私の神経症的性質を助長し、次の夜も私から安らかな眠りを奪うのだった。 


 さて、冬のある夜更け、振り子時計のチャイムがたっぷり十二の音を響かせた。私はその時もまた不本意な覚醒と共に、揺椅子の上で、なにか不安な気分を感じていた。ちょうど少年から青年に変わろうとする年齢だった。私は少年らしい快活さと、青年特有の孤独感との間で戸惑っていたのだ。戸惑いという感情は、自身の肉体と精神との相互理解に欠落が生じるという意味での知覚の齟齬である。身体が急に成長し、私はほっそりした長すぎる手足をいささか持て余していた。その一方で心は未だに少年のまま、サンザシの茂みの中で妖精たちに守られていた。その肉体的時間と精神的時間の食い違いが、私に茫漠とした不安を感じさせたのである。そんな心持で耳にしたチャイムの音は、不安定に変化する人間に対して圧倒的な不変の存在を示しているようだった。 


 私が振り子時計に目を移すと、チャイムの余韻を残しながら、振り子は規則正しく揺れていた。二本の針は振り子と同じ金色で、ぴったり合わさった状態から今まさにカチリと音をさせて、短針がほんの一歩右へ進んだ。その時だ、私が振り子時計の向こう側に、理性では説明しがたい強い引力を感じたのは。


 私は振り子時計から目を離せなくなってしまった。チク・タク・チク・タクと左右に揺れる振り子に合わせて、私の目も耳もチク・タク・チク・タクと音を立てて振動した。私の神経はその小さな音に支配された。次第に目の前が曖昧にぼやけ、振り子の揺動が寝不足で熱っぽくなった私の脳髄を柔らかく溶かし、私は恍惚として我を忘れた。そこへ、短針の動く音がカチリと響く。私の脳髄はその不協和音に激しく揺さぶられ、途端に暖炉の前に敷き詰められた濃紅の絨緞や、壁に掛けられた綴織が視界に甦る。私は綴織に目をやり、そこに織り込まれた金糸銀糸によって浮かび上がる勇ましい騎士の姿を認め、ほっと息をつく。そして異様なほど振り子に魅惑されていた自身に気づき、その理由を求めて再び振り子時計を見つめ、またも振り子の揺動に意識が吸い込まれる。ふと永遠という観念が私をとらえた。頭の中にチャイムの音が反復し、共鳴し、波紋のように身体全体に広がって、指先が震えた。私は強い暗示的作用を感じた。そして怯えながらも揺椅子からそっと降りて、時計のもとへ近づいた。暖炉の火はほとんど消えていた。私は、今になって思えばなぜそんなことをできたのか分からないが、暖炉の上に身軽く飛び乗って、時計の鈍く光る木目を爪で引っ掻いた。その間、私の脳髄には絶えずあのチク・タク・チク・タクという振り子の揺動が響いていた。時計の側面にある最も大きな木目の縁に爪を差し込むと、その木目がぐっと押し下がった。驚いて身を引くと、時計は暖炉の煉瓦壁からまるで扉のように分離し、私に向かってぽっかりと口を開いた。時計と同じ形の大きな穴が、暖炉の煉瓦壁に出現したのである。私は少しの恐怖と多大なる興味とを持って、穴の中を見つめた。見通す限り内部は暗黒に没していた。しかしどこからかチク・タク・チク・タクという音がかすかに聞こえるようだった。その夜の私は、この音にどうしても心惹かれていた。祖父は書斎に籠っており、ただ一人の召使は厨房にいた。私は誰に阻止されることもなく、振り子時計の扉を開けて、暗闇の中に足を差し入れたのである。




 暗闇の中で、硬質な地面が私の足裏に触った。私はこわごわ両足をその地面に下ろし、そっと周囲の様子を窺った。前方も後方も真に暗闇である。振り子時計の形をした開口部は、連続する闇の中で文字通りの空白として浮かんでいた。そこから円と四角形の合わさった光が流れ込むも、見えるのは黒い短靴を履いた私の足元だけである。開口部の縁に手をかけると、その先にささくれた木のような壁の感触があった。その場で足踏みをすると音が反響する。闇の向こうにも壁があるらしい。するとまた、その反響音に交じって、例の音がかすかに聞こえてきた。私はついに意を決して、壁に手を這わせながら一歩を踏み出した。


 光が遠くなるにつれて、目が闇に慣れてきた。壁に沿って進んでいるため道が直線なのか曲がっているのかはっきりしない。ただチク・タク・チク・タクという音は一足ごとに近づいている。私はすでに恐怖を忘れ、その音に合わせて心臓を動かしてさえいた。チク・タク・チク・タクと……。


 不意に目の前を白いものが横切った。暗黒に慣れた私の目はその淡い色彩にも慄いた。立ち止まり、じっと目を凝らしてその白色の行方を追うと、それは一定のリズムでかすかに左右に揺れながら、大きく円を描いて一瞬消え、また私の方へ近づき、眼前を行き過ぎた。今度はその正体を見た。黒いマントで全身を覆った男であった。後ろ姿にひらめく銀色の髪が老いを示していた。そして、私が今まで追い求めていたチク・タク・チク・タクという音は、その男の足音らしかった。男の足元には階段の段差がありありと見え、それは上にも下にも延々と続いていた。男はチク・タク・チク・タクと規則正しい拍子で足音を響かせながら、螺旋階段を登っているのだ。しかし上昇あるいは下降する様子は一向に無い。彼が私の眼前を通り過ぎるたび、彼の尖った耳が私の鼻と触れ合いそうに近づき、長年降り積もった埃と黴の匂いが漂ってくる。彼は途方も無く長い時間を、ついぞどこにも行き着かない移動に費消していると知れた。私は持ち前の神経質さでもって男を見つめ続け、その並外れて尖った耳が、右の方が長く、左の方が短いということに気づいた。加えて非常な急角度でその耳が天を突いているので、男が後ろを向いた時、その姿はちょうど十時十分を示す時計のようだった。男の正面の姿をまじまじと見ることは、何故か出来かねた。男が私に近づいてくると、その輪郭がふと曖昧になり、気づくと彼の長い方の耳が私の鼻先を掠めるのだ。彼がどんな顔をして近づいてくるのか、私には全く分からなかった。


 男は何も言わない。私も何も言わない。黙然と進み続ける古老と、黙然と立ちすくむ青年が、先も後も見えない暗闇の中に存在している。ただ、全く別個に存在しているのではない。私のみが古老の闊歩する音に吸い込まれ、振り子時計に圧倒されていた時と同じように、その絶えざる動きに圧倒されている。


 私は何らかの確固たる認識を、あるいは逃げ道を探して頭を巡らした。実際に巡らせたのである。すると右手の方に、アーチ状の空白がほのかに浮かび上がった。空白は頼りなく震え、今にも消え去りそうな気配である。チク・タク・チク・タクという音が大きくなり小さくなりするにつれて、空白は薄くなり、濃くなり、かすかに揺れた。


 チク・タク・チク・タクと歩く古老は私に注意を向けない。永遠という観念が再び私をとらえた。彼は永遠なる存在であろうか。振り子時計は永遠であろうか。私の精神が灰白色の脳髄の渦から未来永劫抜け出せないように、彼もまた常に一定の拍子で一定の空間を回転し続ける。それはある種の永遠である。しかし永遠なるものは、このように狭苦しい運動の中に収斂されるものだろうか。私の頭の中から、チク・タク・チク・タクという強迫的な音が少しずつ弱まっていくのを感じた。同時に、視界の端に見えていた淡い空白がぐっと存在感を増して、その向こうから風さえ吹いてくるようだった。私はふいとそちらを向いた。そして駆け出した。




 暗い道を抜けて、明るい真っ白な光のもとに出ると、最初に人の顔が目に入った。それは厳めしい顔をした老爺で、祖父に似ていた。その肌は大理石の白さ、目じりの皴は刃のように鋭利なひだをなして、唇は深い頬ひげの中に埋もれている。ひげは胸元まで垂れ下がっている。何層にも重なった布が腰から下を覆い、その布は老爺が腰掛けている山の岩肌と一体化していた。老爺は、山から削り出された彫刻だった。天を衝く高い山の側面を、その老爺の四肢が隠していた。私が茫然と老爺を見上げている間、木々の一本も無いその山は、時折光を反射してゆらめいた。彫刻の老爺は巨大な砂時計を持っていた。大理石に挟まれたガラスの容器はメビウスの輪に似て、流れ落ちる白砂はきっと落ちきることはないだろう。それほど巨大で、緩慢で、そして不動の存在だった。


 コトンと左手に物音がした。そちらを見ると、若草の上に一人の少女が立っていた。栗色の髪をおさげにして、真っ白なワンピースに赤いエプロンをつけ、大きな砂時計を抱えている。物音は少女の赤い靴が鳴らしたものらしい。砂時計の中には細かな粒が踊っている。少女が持つには重すぎるのではないかと思ったが、そのとび色の瞳はむしろ私への興味を強く示していた。少女の小さな唇が開いて、可愛らしい音の粒が転がり出た。


「どこから来たの。」


「さあ、僕にも分からない。」


「何しているの。」


「さっきは、山を見ていた。」


「山じゃないのよ。時の翁よ。」


 私は少し首を傾げて、少女に先を促した。少女は砂時計をさも大事なお人形のように抱え直して、「くふん」ともったいぶった空咳をした。


「時の翁の砂時計は、私たちの砂時計と違って、ずっと落ちきらないの。翁は永遠を生きているから。私たちは砂が落ちきったら死んでしまうけど、翁は死なないの。」


「……永遠を…………」


「私たちの時間はとっても短いから、翁のように永遠を生きることはできないの。お母さんが言ってた、死んだら、全部忘れてしまうんだって。砂時計の砂が全部巻き戻って、何もかも巻き戻って、ね、それでまた、赤ちゃんになるんだって。」


 話している間にも、少女の抱える砂時計はサラサラと少しずつ砂を落としていく。砂時計の大きさに比べて、砂はずいぶん少なかった。この子は幼くして死ぬと、すでに決まっているのだ。


「その砂時計の話、もっと詳しく聞けないかな。そういうこと書いた本とか、ないの。」


「駄目だよう。あたし、今話したことしか知らないの。お母さんも、あたしに話してくれたことしか知らないって、言ってた。」


「でも、知りたいんだ。」


 少女は唇を尖らせて考えこんでいたが、急に「ちょっと待ってね。」と言うが早いか駆け出して、野原の中に消えてしまった。私はその時、今しがた自分が飛び出てきた空隙が無くなって、一面春の緑に覆われていることに気がついた。透明な青さの空には綿雲が冗談のように浮かび、どこから照っているのか美しい日光が、可憐な花を震わせる。私はどこから来たのだろう。そうしてここは何処なのだろう。振り子時計に誘惑され、砂時計に呑まれかかっている私は…………。


 時間と命は同義だろうか。少女とその母親にとっては、そうらしい。命を時間で計ることはたやすい。しかし、時間を命で区切らないために、人間は記録を始めたのではなかったか。口伝に始まり、石板に刻み、ペンで書き記し、電子の亜空間に保存する。そうして人間はひと時の幸福に歓喜しながら太古の虐殺に怯え、無理解の時代に這いずりながらいつか救われると期待する、その過去と未来の観念は記録することから生まれたのではないか。


 無気味な春の風に乗って、白い鳥の羽根が一片ひらめいて寄って来た。「これに乗りなよ。天使の羽根だよ。」姿は無いが、さきほどの少女の声がそう促した。二本の指でつまんでくるくる回して遊ぶのにちょうど良いほどの華奢な羽根だが、私が両足を乗せると、見る間に浮き上がって飛び始めた。驚くほどの快速力で白い山壁に突っ込むかと思うと、ふと重力から解放されたように真っ直ぐに上空へ向かっていく。その速度を保ちながら私の足元は揺らぎもしないが、私の意識は何度も足を踏み外して、青空へ転げ落ちていった。




 次に目を開けた時には、足元は白い岩場で、大理石のように滑らかな表面だった。時の翁の上に立っているのではないかと思われた。少し離れたところに、数人の老人がぽつぽついるのが見える。皆一様に空色のぼろをまとっているが、互いを気にする素振りもなく方々に突っ立って遠くを見つめている。一番近くにいた老人に近づき、「あの……」と言いかけるが早いか、老人は「聞いてくれ。」と私の袖をぐいと掴み、このように話し出した。


「例えば、君が僕と一緒に、長い時間を共にして、薔薇や、羊を育てて生きてきたとするだろう。そしてある時、僕が死んで、君が孤独になるとする。君は夜空に輝く星を見て、僕のことを思い出すだろう。百の星が百の僕を、百の薔薇を、百の羊を思い出させるだろう……。君が僕に費やした時間の積み重ねがそうさせる。時間の積み重ねが、それをかけがえのないものにする。累積する時間の上に立って、君は世界を見ているんだ。な、そうだろう。そうだろう。」


 それだけ言って、老人は満足してしまったのかうんうんと頷き、私をそっちのけにしてまたも口の中でぶつぶつ言い始めた。考え事をしているらしい。こうなってしまった老人が容易に扱えないことは、自分の祖父でよく知っていたから、私はその場を早々に退散した。さてその先に進んでいくと、空色の老人たちは皆何事か口をもぐもぐさせて、やはり考え事をしているらしい。青い空と白い地面の狭間で、空色の木切れがこう何本も佇立していると何か無気味でさえある。誰だか分からないが偶然耳に入ってきた老人の呟きは、以下のようなものだ。


「……かつて私は、時間を流動するものだと思っていた……過去から現在をまっすぐに走り抜け、終わりのない未来へ駆け去ってしまうものだと……しかしおそらくそれは間違っている。時間というのは、同じような違うような時点をぐるぐる回りながら、次第に一点へ収束していくのではないか。それが時間であり、それが進歩でないか。時間は進歩する。永遠ではない歩み、螺旋階段を昇り詰めるような歩み。先は見えない。しかしきっと終わりがある…………。」


 この老人たちは誰もが時間について考えを巡らしているらしい。私は時の翁の足元で少女に言われたことを思い出していた。この地に生きる人間は誰しも自分の寿命を示す砂時計を持っている。しかし、この老人たちはそれを持っていないようだ。枯れた手足で地面に立ちつくす姿と相まって、亡霊のような……。しかし彼らがどのような存在だったとしても、ここには時間の議論をする場がある。時計の文字盤を回り続ける老爺や、流れ落ちる砂だけを見つめる少女と違う、何か知っている人々が、ここにいるはずなのだ。


 ふと気づくと、地平線の彼方が薄暗くなり、見る間に真っ暗になった。夜が来たらしい。しかしこの白い岩場は明るいままだ。私は再び、時間学者たる老人たちを見渡し、口元をほころばせた。




 地平線の夜は、私が短い眠りから目覚めるとすでに白みかけていた。岩場の老人たちはその場に立ち尽くしたまま、目も開いたまま、口も動いたままだ。彼らの虚ろな瞳は私を映さない。私は一番近くにいた老人のもとに歩いて行った。昨日から思案が進展したかと期待してのことである。老人は私をみとめるや否や「聞いてくれ。」と私の袖をぐいと掴み、話し出した。


「例えば、君が僕と一緒に、長い時間を共にして、薔薇や、羊を育てて生きてきたとするだろう。そしてある時、僕が死んで、君が孤独になるとする。君は夜空に輝く星を見て、僕のことを思い出すだろう。百の星が百の僕を、百の薔薇を、百の羊を思い出させるだろう……。君が僕に費やした時間の積み重ねがそうさせる。時間の積み重ねが、それをかけがえのないものにする。累積する時間の上に立って、君は世界を見ているんだ。な、そうだろう。そうだろう。」


 私は思わず手を引っ込めた。しかし老人は気にも留めない様子でうんうんと頷き、また考え事に舞い戻ってしまった。私の心臓は急に非常な速さで鳴り始めた。


 この老人は昨日と同じことを言っている!


 寒気すら覚え始めた私の耳に、またこんな声が入り込んできた。


「…………時間を流動…………過去から現在をまっすぐに…………へ駆け去って…………しかし……間違っている。時間というのは…………回りながら、次第に…………それが時間…………進歩する。永遠ではない歩み、螺旋階段を…………先は見えない。しかしきっと…………」


「やめてくれ!」


 思わず叫んだ私の声を、しかし誰も聞いていないようだった。青い空と白い地面に挟まれて、佇立する、空色の枯れた木々のように……。


 その日もまた地平線の彼方は夜になり、朝になった。しかしこの地は変わらない。夜にも朝にもならない。老人たちは地面に立ちすくんだまま、ただ時間のことを考えて生きている。いや、これが生きていると言えるだろうか? 在るものは変化しなければならないはずだ。たとえ夏至の日がいつまでも真昼のように明るくても、いつかは夜が来る、それが時間を持つもの、時間のなかで生きるものの定めだ。だのにどうしてここは変化しない? 私は何日もここで過ごしたと思うのに、髪も爪も全く変わらない。靴のすり減りさえない。まるで、私はここから一歩も動いていないかのようだ。少女の声が脳裡を掠める。

「それが永遠だよ………………永遠だよ……」


 なぜ彼らがこうなってしまったか、私にはいくらかの想像がついた。つまり、彼らは時間を客観的に分析してやろうと思うあまりに、自身の時間を手放してしまったのだ。時間を手放すということは、時間に縛られないことではあるが、同時に時の流れから置き去りにされることでもある。時の翁を見放し、翁に見放された彼らはこの岩場で、時を司るがゆえに時の無いこの地で、永遠に生き続けることになるのだ。しかし……しかし、時間を手放すことが時間を客観視する唯一の方法だろうか?


 今や何年も昔のことに思える、徹宵の夜を思い出した。眠れないままベッドの上を彷徨し、いつまでも今日のままかと思っていても、空が白んできたらもう新しい朝だ。明日の早朝に今日の夜更けは含まれない。しかし古い夜もまた明日の範疇にある。今日の夜と、明日の暁との境は何処にある? 今日から次の今日への橋渡しを見守るために、私は船を下りなければならない……?


 強く首を振った。こんな考えに至るのはこの場所にいるためだろう。早く脱出した方がいい。流れる川の水を定義することが不可能であっても、流れる川の流れ方を論じることはできるはずなのだ。そうしなければならない。白い大地を踏み砕いて、私は永遠の地から飛び降りた。なぜこれほどまで時間に執着しているのだろうと不思議に思う自分が頭をもたげ、自由落下の風圧で即座に押し潰された。




 気づいた時には野原の上に横たわっていた。無時間の岩場はどこにも見当たらない。起き上がってみると、「おはよう。」と声がした。見ると親指くらいの大きさをした小人が、野原の上で腰に手をあててこちらを見上げている。私はちょっと頭を傾けて返礼した。濃紺の三角帽を被り、鮮やかな緑色の服を身につけている。身体の作りは人間と同じようだ。小人は何度か瞬きをした後、一度長く目を閉じた。そしてまた、私を見上げて「おはよう。」と言った。私ももう一度返礼した。


 それが何度か繰り返された。しばらくは挨拶したがりの性質なのかと思って付き合っていたが、だんだん面倒になってきた。そこへ、小人がこんなことを言った。


「君は数日ここにいるようだが、いったい何をしているんだい。」


「数日なんていないよ。まだほんの二、三十分てところじゃないかい。」


「いいや、おれの時間では数日だね。寝て、起きたら、あんたが目の前にいる。それが何べんも続いている。これは数日間あんたがここにいることの証明だろう。」


「そうかな。」


 どうやら小人の一日は恐ろしく短いらしい。いや、彼にとっては、私の一日が恐ろしく長いことになるのだろうか。永遠というものも、このようにひどく長い有限の時間だったなら、どんなに救われるだろう。


「おはよう。それで、今日もいったい何をしているんだい。」


「特に、何も。さっき酷い目に遭ったもんでね。」


「ふうん。」


 それから私は、彼にとっては数週間にもわたる長い時間をかけて、今までのことをすっかり話した。彼は毎朝「おはよう。」と言い。私も毎朝返礼をした。無時間の岩場から転落した時の様子を話して、ひと息ついた頃、彼の目じりには鼠のひげよりも細い皴がいくつか刻まれていた。


「ずいぶん苦労したんだな。」


「苦労した。どうやって帰ったらいいのかも分からない。ただなんだかよく分からない力に突き動かされて、ばたばた駆け回っているだけだよ。」


「出口なら、ある。」


「どこにさ。」


 小人はすっかり細くなって干からびた腕を伸ばし、私の背後を指差した。


「自分の背後にあるものには、一人では気づけないものだな。」


 振り返った。この世界に来て初めて振り返ったような気がした。私の真後ろの空間に、ぽっかりとアーチ状の穴が開いていた。




 慌てて小人に礼を言って、私はすぐに立ち上がった。小人は鷹揚に手を振って無事を祈ってくれたが、彼はもうすぐ死ぬだろう。長くとも短くとも、身体の時間は有限だ。


 そのアーチ状の入り口、あるいは出口は、私がこの世界に駆け込んだ時にくぐったあの空白を思い出させた。迷いなく中に入ると、すぐ足元に階段が現れた。私はそれを、どこか予定調和的に感じていた。ひと足踏み出すと、階段は軋むことなく私の足を押し返した。また、ひと足差し出した。一段上った。


 一段、もう一段と徐々に足を置いていく。階段はわずかに曲線を描いており、螺旋状になっていると知れた。見上げると、はるか彼方に白い光の点が見えた。あれが出口だろうか。強く階段を踏みしめる。


 永遠にも近い時間が流れ、無数とも言うべき段数を踏んだ気がする。しかし、永遠と、時間とは、同義でない。時間は歩みだ。連続だ。永遠は時間の停止だ。挫折だ。いつしか歩調は速くなり、階段を跳ね飛ばすようにして駆け上がっていた。白い光の点が、ついに私の身体全体を照らし出した。出口だ。




 それからのことを簡潔に記しておこう。私は屋敷の庭の端にある、すでに枯れた井戸の中から這い出した。急いで居間に戻ってみると、振り子時計はいつも通りに揺れていて、時刻は十二時を一分も過ぎてはいなかった。召使いも祖父も、私がいなくなったことに気づいてはいなかった。その時は一夜の不思議な夢と決め、そう信じて過ごしてきたが、今でも振り子時計の揺曳に何かを期待する私がいる。

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