閃光 作・麦茶
一
流れ落ちる水滴がひとつ、ふたつ、かすかな音をたてて溜まってゆく。水滴の通った跡はほんの数瞬で錆びついたようにぼろぼろと消える。水滴のぶんだけ視界が揺れ、曖昧に点滅し、私は目を閉じる。
雨が降っている。
水たまりは徐々に大きくなる。零れ落ちる雨粒は細かなまま、しかしその速度は増している。更紗を軽く曳くような音が、いつかため息をかき消すざわめきに転じる。一粒ならば傘に落ちても音を立てない細かな水が、どうしてこんな大きな音になるのだろう。反響? 頭の中で?
傘の中は音が最も良く聞こえる場所なのだと聞いた。美しいドームの中で交わされる美しいやり取りを夢想する。それを雨音がすっかり包み込んで、彼らは世界の終わりを幻聴する。それを私は幻視する。真っ白な霧雨の中に溶ける、自分たちの世界を疑いもしない彼ら。
そこに赤い血を撒いたら素敵だ。雨粒と同じ大きさの命の欠片がばらばらと散らばって、彼らと雨は本当にひとつになる。私だけが雨に疎外されて、ぽつねんと立ち尽くしている。その間にも彼らは雨と同じ温度に、同じ軽さに、同じ粒子に還る。
目を開ける。シンクに溜めた水はすでに溢れそうなほど溜まっている。栓を抜くと、今しがたの夢想はごぼごぼと断末魔を上げて消えた。
二
青く広い空の上に白い雲が浮かんでいる。あれは白骨化した鯨なのだ。
群青色の鯨が、夜半のきらめく星々に魅入られて、そっと差し出したひれを、三日月がはっしと掴んで引き上げた。尾びれがわずかに海面を撫でて、鯨は夜に泳ぎ出す。星の合間を縫い、月に挨拶しながら、時折喜んで潮を吹く。きらきらと銀鎖のように舞い落ちた雫が、鯨の便りを海に知らせる。
そんな綺麗な背中の鯨が、昼日中の無遠慮な光に熱せられて、あんな姿になってしまった。
朝日の昇る時、空に広がる桃色や赤色の光は、太陽に突き刺されて身悶える鯨の血肉だ。その青白い腹が焼けた槍に引き裂かれ、内臓が肋骨の隙間からぼとぼと落ちる。内容物が地面に散らばり、世界を温める。朝焼けに立ち会う時、人はそれとは知らぬ間に、鯨の血肉を浴びて深紅に染まる。鯨の泣き声は四方に轟き、小鳥はそれに驚いて一斉に飛び立つが、鈍感な人類には何も聞こえない。ただ、涙と共に目を覚ます人間だけが、鯨の痛みを知っている。
太陽が高く昇るにつれて、鯨の身体は乾いていく。骨の表面が脆くなり、風に吹かれて新しい雲になる。鯨の骨は巨大な飛行船のように、すぐにも瓦解しそうな頼りない姿で、同時に雄大で夢幻的な気まぐれのままにあちらこちらと流れていく。そのあとを剥がれた骨片たちが追いかける。
昼間に漂う鯨の骸骨をかすめて、飛行機が飛んでいく。鯨は誰をも許容する。月が再び彼を湿らせ、その身体を海から作り出してやるまで、彼は無力な博愛家だ。
三
南十字に架けられるのはキリストではなくバレリーナだ。
遠くロシアの劇場で、一人のバレリーナが両手両足をぴんと伸ばして停止した。彼女の心臓もまた、同時に止まった。その時彼女は十字架にかかったのだ。かつてゴルゴタの丘で救世主を神のもとへ送り、多くの罪びとを地獄へ渡した、十字架に。
彼女の掌からは血潮が滴る。すらりと伸びた細い足にも、一筋の鮮やかなリボンのように血が流れる。ベルゼブブがその傍らで、彼女の屍肉を貪っている。爪先から滴り落ちた彼女の熱は、赤道の人々に絵空事のような寒い寒い国の出来事を夢想させる。真っ白な雪の上に開く深紅の花弁は、まるで貴婦人のように美しく匂う。熱帯のむせかえるような木々の間ではすっかり埋もれてしまうというのに。
遠くロシアの劇場で、彼女はイコンを抱いていた。温かな風の吹く西方の聖地を思い、自己欺瞞的に微笑んだ。彼女は酔っていた。狂っていた。赤道上の人類は、熱情が自身のためにあることをよく知っていた。彼らこそ理性の人だった。
バレリーナの笑い声はやむことを知らない。赤道上に月がかかる時も太陽がねめつけるように行き過ぎる時も、甲高く笑いながらくるくる回っている。四肢に血潮をまとったまま、キリストの救いを信じ込んだまま、今しも地獄の一部となりながら……。
今夜も彼女の飛沫を浴びて、月は美しく恐ろしい。
四
一枚岩をひと足ひと足登っていく。何人も登っていく。何を求めて登るのか。個我の楔を自然の岩に突き刺して、それで満足か。自然を征服した気になったか。ほとほと嫌になってきた。手を離した。
身体が浮かんだ。空気が緊張している。それから急転直下に景色が変わっていく。嫌な気持ちはしない。背中に張り詰めた生気を感じる。全身が一瞬膨らんで、解放され、熱を持ち、冷やされていく。私は大きく息を吸って、巨大な岩に身を打ちつけた。
死んだと思ったが、目は開いている。遥かに聳える岩山が、そこにしがみつく矮小な人間が、見える。欲動を崇拝する意識体がそこにいる。指を伸ばせば彼らを押し潰してしまえそうだ。壁にとまった小虫を潰すように、呆気なく。
木々の輪郭を目でなぞる。冬の日差しが沁み通る。下草が身体を包み込む。今、私は虎であり、鹿であり、水滴であり、小石であり、誰かであり、誰でもない。誰も私を考えない。だから私はどこにもいない。考える私は私ではない誰かだ。私の身体は四散して、小さな宝石や金平糖や落ち葉にでもなるといい。土を這い、崖を下って、それらは海まで届くだろう。海に沈んだ小さな綺麗なものたちは、いつか魚の一部となって、あるいは船の木切れとなって、人間たちに還るだろう。そして彼らに囁きかけるのだ。個我の亡者よ。
五
身体がすっと軽くなる。腹の底から意識が抜け出ていく。皮膚一枚のうすっぺらな私を残して、今夜も意識は出て行ってしまう。
私が眠っている間、地球の反対側に飛んでいって、今まさに目覚めようとしているもう一人の中に、この意識が入り込む。それはブラジルに住む独り身の青年かもしれないし、フランスで猫と一緒に暮らす老婦人かもしれない。彼または彼女は目を覚まし、自分の身体に意識が宿っていることにまずは安堵して、新しい一日を始める。じつは意識は毎晩出ていって、しかもまた別の身体に入ったりしているのに、彼らは全然気づかない。
そうすると意識が身体に帰ってこなければ、その人は眠り続けるし、もしかしたら死んでしまうのだろう。眠るように息を引き取った大勢の人間の意識は、今なお他の誰かの腹でぐるぐると息をしている。虎のように歩き回り、新しい身体を探している。
虎の形をした魂が夜霧から朝靄へ駆けていく。新しい身体が生まれた。まだ皮膚ばかりの、空っぽの腹の中へ、虎の魂が滑り込む。血が満ちる。内臓が膨らむ。細く強い呼気が喉から口元へ、せり上がる。目覚めよと声がする。体内で虎が暴れている。
継ぎはぎの布団を押しのけて、褐色の肌の少年が起き上がった。虎は今目覚めた。少年の視界に初めて光が灯った。盲目のグリーンアイがとうとう自らの母の姿を認めた。世界の夜は明けたのだ。虎はぐるぐると喉を鳴らす。
六
真っ暗な部屋の窓から、雪が降っているのが見えたので、駅に行かねばならないと思った。冷え切った床から起き上がり、人に見とがめられないよう用心しながら外に出た。寒い、暗い、真冬の夜だ。空気は凛と静まっている。私は突然駆けだした。駆けなければならないと思った。きっとあの子が私を求めて泣いているのだ。私を抱いていないと一睡もできない、可愛い私のご主人さま! 凍った街路に残った轍を辿って走る。景色は飛ぶように過ぎ去っていく。駅はもうすぐだ。
駅には大きな機関車が止まっていた。ご主人さまの持っているのより何十倍も大きい。黒々とした車体が少しずつ、白い雪に染められていく。私は機関車の中に入ろうと手あたり次第にドアにぶつかってみたが、家のドアのようにはいかない。どうしたものかと辺りを見回すと、一か所だけ窓が開いていた。ああ、しかも、その窓際に座っているのは私のご主人さまだった。私は自慢の綿毛のような手を差し出して、ご主人さまをじっと見つめた。温かい小さな手が私の手を掴んだ。その時、激しい汽笛の音が鳴り響いて、機関車は動き出した。それに伴って、私もずるずると引きずられていく。ご主人さま、私も連れて行ってください。叫ぼうにも声は出ない。ああせめて遠吠えのひとつでも出来たなら! 泣き出したくなるほどの痛みが手と、胸に走って、ご主人さまは行ってしまった。右の足先が無くなっていた。自分の足先にあとを頼んで、私はそのままばったり倒れた。
一滴の血も涙も出ない、私はただのおもちゃに過ぎない。
七
藤棚に、まとわりつくクマバチは、何の夢を見ているか?
空。
八
真っ暗な海にも白いうさぎが跳ねる。だから怖がることはない。しとねの中にサソリが忍んでやって来ても、彼はそこで眠るだけ。だから怖がることはない。
ただしバケツに溜まった雨水には、命を掬われないよう注意して。
九
青い目の、美しい少女が、裸で、座っている。誰もいない、窓のない、暗黒の部屋で。窓はあった。しかしレンガと漆喰で塗り潰された。彼女の目は潰されなかった。天を塗り潰すほど、彼女の迫害者らには勇気がなかった。真っ暗な部屋の中、彼女の瞳だけが輝いている。明るい昼ばかり映してきたその瞳には、闇がもの珍しかった。どうして光が無いのか、どうして自分一人なのか、彼女は分からない。白い肌は彼女の瞳に映らないが、それでも十分美しかった。
彼女は座っていたベッドから立ち上がり、部屋の中をひと回りしてみた。一脚の椅子が足にぶつかり、腿に痛みを残した。他には何もなかった。彼女はその場でくるりと回転した。魔女の力でドレスが現れるようなことは、なかった。これからどうしようかと彼女は考えた。何もすることが無いのだから、しばらく動き回っていようと思った。彼女が瞬きをするたび、ちかちかと青い瞳が輝いた。人々が彼女を恐れる原因になった瞳である。美しい、禍々しい瞳である。
ぐるぐる動き回って、疲れて眠りに落ちた彼女は、夢を見た。彼女の青い瞳を抉り出そうと追いかけてくる従者たち、逃げる彼女を止めようとする父、母。目を覚ました彼女の瞳は燃えていた。青白い炎はパチパチと弾け、彼女が胸苦しさに歩き回ると、そこここに稲妻のような閃光を残した。彼女は忘れようと部屋の中を徘徊し、疲れて眠り、そしてまた夢に見た。そのたびに閃光が散った。忘れることはできかねた。彼女が最初に知った憎しみであり、恐怖であり、絶望であった。
バタ・サンドを食べたい、と思いながら彼女は最後の一歩を踏んで、動かなくなった。閃光だけが残った。青い瞳の呪いの話。
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