冬の信心   作・奴

 その年僕は大学生の二年目を過ぎようとしていた。卒業論文とか就職とかあるいは大学院進学とかを乗せて、のべつ動きつづける思考が生命の途上を走りだしたころであった。経済や能力を車輪にして進みだんだん右の道か左の道か決断するころであった。この時節に僕は右の鎖骨を折った。全治するに半年はかかった。


 僕はそれで望外の帰省と入院に遭い、講義の終わらないうちから故郷の空気を吸い吐かねばならなかった。ただ二年生であるだけ助かったと思う。それに労働も教習所も見送ったあとだった。憂慮すべきことがらはそれだけ少なかった。僕にあったのは学問と遊戯の二者で、しかも遊戯といえ、本を読むか、合間に麻雀をするか、じつに小さな世界である。僕の生活はこの三方向に進むだけ進んだ。この途中で事故を起こして文字通りに骨を折った。夜に自転車で坂を下って、何を考えたか電柱に素直にぶつかった。ブレーキなど握らなかった。しかし鎖骨以外は無事だった。どうやってその一本だけを折るような衝突になったかは全然記憶しないけれど、事故の瞬間以後、異常な痛みとともに僕の右手はほとんど不随だった。


 生活が一変した。指一本でさえ使えなくなれば大いに困る。いわんや腕一本使えぬことの何とままならぬことか。雨傘を持つこともできなくなった。医者にかかると、慎重にすれば入浴もよかろうというが、いったいひとりでどれほど上手くやれよう。僕は親元に帰るまでろくに湯浴みしなかった。飯だけは無茶をしてでも食べた。


 それで折れた骨をできるかぎり装身具で固定して、高速バスで鳥羽津(とわづ)を発った。都市高速から自動車道に入り、分(わい)田(た)を通って和木谷に降り立つ南下の経路は、もはやお決まりの帰途であったが、緊急の状態となった僕には長くも短くもあった。故郷に戻るのだという情動よりも、僕が見据えていたのは手術とそののちの生活のことだった。いっとき不能になっている四半身がただの質量として、というよりは自律せざる肉塊としてつながれたままであることを、僕は憎まずにはいられなかった。それは僕のうちにある忌み子だ。忌み子は僕の片隅にあるばかりで、具体的に何もしてはくれない。肉体が生み出す力源が四肢に流れ、そのいくらかは使えない右手のなかでいたずらに消えゆくと思えば、この片腕はいったい何であろう。上着を着れば僕は健康な青年になった。けれどもその下には真っ二つに折れてしまった白い骨が、肉のなかに埋もれているのだった。


 和木谷の停留所に両親の迎があり、宅には兄がいた。実家の景色はひとつとして変わりがない。僕は帰ってきたのだ、骨折し、悔いの冷たい色に塗抹されて。救いは肉体上の損失を埋めるほどあった。風呂とか、食事とか、就寝とか、何にも家族の助けがともない、それでようやく僕は尋常の生活を過ごした。物質的に平生のとおりである、しかし、精神上は、観念上は、じつに荒涼としている。僕の地図に明瞭だった学問も遊戯も、骨を折るとともにひびの走った心から滴下する涙のせいで滲んでいるようだった。僕に必要なのは、それでも滲まぬもの、涙で盲(めし)いた目を眼窩まで照らすような光だった。両親の迷惑、学友の心配、研究の不如意、経済的・心理的・肉体的負担を、全部ともに受けてくれるような救いの手だった。そんなものが願うとおりに顕現するなど、いかにもあてがない。


 神は不可知だと僕は無音のままつぶやいた。ある種の偉大なもの、それよりも大いなるものが考えられないもの、分析的に完全なものは、ことばによってあたかももっともらしく論証されたにすぎない。僕は神が何なのか、知っているつもりである。けれども信じきれることはなかった。神が実在する、なら、ここに連れてくる以外、信じようがないじゃないか……


 こんな話は止そう。完全性は存在を含んでも肉体をともなう存在を含むとは限らない。これは一般的な批判かもしれない。しかし今の僕は肉のある神を求めている。体に触れ、取りすがって救済されねば、僕の心の傷は癒えないのだろう。折れた骨も、あるいは神の手によってさすられることで、まったくくっついてしまうかもわからない、いやくっつくのだ。僕は神の抱擁の内側で浄化される。こぼした涙が我が穢身のその穢れを清め落とすと思った。僕の精神は究極的には、そうやってしか救われないはずだった。


 もう夜は随分冷えた。冬は僕の前に無遠慮に降りかかった。雪はなかった。ただ夜の底まで寒かった。水のような闇と冷気が身体に、ことに折れた骨に染み、僕の体が永久に死に絶えたまま復活しない気がした。風呂の湯の熱い感触は患部のまわりにできた内出血が作りだす火照りの一種のように嘘らしく思え、それでも風呂場の窓から入る寒風は我が身に晒すと現実のものとたしかに思えた。僕はどこに突き進むだろう。折れて妙な方向を向いた骨が肌の上からでもわかった。


 ところで、この年は新種の肺病が先年の冬から流行りだして、二度も押し寄せた流行の波が去り一瞬間ばかり凪いだところだった。春に陽気や花粉が風に乗り町を充満するように未知の病への恐怖と生命の危機感で張り詰めていた空気が緩んだ秋、あるいは私の心持も放埓になっていた。揺るがされた命の微細な振動が収まり、小児喘息を患った過去が心の底のほうを触る反面に一難をしのいだという安心が合わさり、およそ二分した精神においてだんだん安心の側面に偏りだした。だからあるときにこの肺病の話が持ち上がると、私の硬貨のような精神が投げ上げられ、その瞬時の気持や語らう相手などによっていずれが表を向くかが、現実の硬貨の投げ上げが物理法則や投げ方に影響されるのと同じように決まるのだが、安心してよい、何も恐れずあたうだけの衛生管理さえすればよいという世迷言でしばしば答えた。しかし今度のけがで出生の地和木谷に出戻るころ、三回目の怒涛が国を襲い世界を襲った。それは吉岡も同じことで、私の出発した直後から急増してとうとう日に百人は陽性者になった。僕は命をつないだという快楽で全身の筋肉すら緩んだような隙のある体が、肺病ではなく骨折で苦しみ、さらに感染が広がる寸前だった勉学の地吉岡を抜け出して誕生の地和木谷に帰り着いたのはすべてが何かの縁、運命によるもので、和木谷という温泉街が持つ磁場、重力が僕にはたらき、知らず知らずに引き戻されたのだと独り言ちた。


 帰郷から数日のうちに入院が決まり、件の肺病のために面談もいけないから僕はまったく孤独な病床に伏した。といってこの身にある傷というのも鎖骨それひとつであり、講義も申し出て休暇をもらったから、僕の本来十九歳の体には猛りが戻りつつあった。そしてまず空恐ろしくなっていた心持が治まり、次に手術があって体も治まった。しかし手術については今少し語らねばならないだろう……


 病棟には、そこは骨に関わるから整形外科病棟だが、若い者は僕ばかりだった。他はある拍子につまずいて足とか腰の骨にひびを作った老人で、だいたいが要介護だった。僕は彼らの生活というべきものを耳にしていた、というのも、僕のいた病室は二床あったが僕しかいず、彼らはみな別の病室にいっぱいに押しこめられていたから。僕はわりに気楽な病室で、漏れ聞こえる看護師や患者の声を耳にした。しかし、彼らのなんと不如意なことか! 彼らの生活にはまず看護師があり、なくてはならない。便所まで行くときに連れて行ってもらわねばひとりでは行けず、床に伏していても膀胱内部を撮影して、泌尿器のはたらきを評価される。たとえ悪くないとしても排泄には介護が必要だから、あるときには他者の目に性器が映る。人にみずからの性器を晒すことを想像してみるといい!


文明人になってしまえばオムツは屈辱になりうる……わが器官の不能、ひとりではこんなことすらできないのだ……老いとともに、もしくは負傷とともに、己は愚かに成り下がった! しかしその自分でも愛さねばきっと堪える、あとわずかというところで耐えきれずに倒れてしまう。だから便を助けてもらうこと、性器を他者の面前にあらわにすることを意に介さない意気がいる。


この種の恥辱がなくとも、入院生活には、というよりは病棟という平生から離れた空間にはとりわけ精神に作用する気のようなものがあり、それ自体人間から溶け出し、また他人に溶けこむ。尋常ならば空気の流れが体を透き通るように毒のような霊気を洗い人から人へ移る前に大気に霧散するのだが、窓が閉め切られ対流の淀んだなかでは同じ身体で血のように廻るか、あるいは人から人へ、ほとんど大気によって濾過されないまま移る。だから院内にいると僕は熱病にかかり脳を冒されている気がした。講義、学問のしがらみがなければ痴呆のようなか細い思慮は何をも捉えようとしなかった。一切は上滑りして遠く見えなくなった。僕にまとまった観念はなかった。ここには取り立てた死の影、ろうそくの火の消え入るような危うい生命は見られず、それゆえ目の覚めるようなことがらもまずない。僕たちは土産の菓子折りのような生ぬるい安心感のなかで治癒を待ちあぐねた。ある人は半年もいたし、しかも回復は当分先のようだった。しかしきっと命は脅かされない。張り詰めた感情は日常の一秒間をも精緻に写し取るけれど、命がほとんど恐れなく保たれることが地体わかっているから、今眼前を過ぎる世界は情動をもたらさない。そんなものは捉えなくとも大局に一点の変化もない。みな知っているのだ!……ここにいるかぎり、我々の負傷ごときではまず死なず、そして無視してよいだけの先にある死以外にはもはや瞠目すべきことは起こりえず。


僕が見張るべきは、まさに明日ある手術だった。一方は肩の骨につながったまま、他方は首の筋肉に引っ張られてふつうより浮いてしまった骨をもとの通りにつなげるのは、肉体内部での固定のほかにはなかった。僕のときは折れた骨のなかに針金を通し、もとの一本のようにして自然とつくよう待つ方法が取られる。これは定番ともいうべきやり口で、また治りも早いらしかった。


その日、というよりはその時間、が来るまでに、まず朝食がゼリーだけになり、次に点滴が打たれる。お決まりのやり方、慣れたやり方で、医師のためには僕の若く心配のいらない肉体をとっても何の苦慮もない手術のはずだが、その道程はある種の厳粛さがある。僕の体は、まったく無意識のうちに(わずかばかり)裂かれ、そこから骨の芯に針金が通される。時間にすれば短いほうだろう、集中力を要するとしても。僕が台の上に眠る、というよりも感覚を断絶されているあいだ、母が外にいる。しかしただ待つというのではおそろしく長いことか! とこしえにも感じられる命のそばに刃が下りる。それは我が身に下るはずの僕よりも母のほうが、あるときには心骨まで感じることで、とりわけこの二時間半――それだけかかったが――のうちはその危険的の考えが絶えず心理の底をうごめいている。


あとのことは何とも言うべきではないだろう。あらゆる描写は気障で、衒学的で、僕の関与せざるところで起こったこと、そして終わったことなのだ。ただしあえて一言ばかり付すなら、僕の体の肉は治ろうとして、もしくは折れたまま順応しようとして骨を巻きこみ、手術はそのために医師の求めるようにはいかなかった。まず肉をかき分けなければならなかった。


ともあれ、施術は無事に終わった! 僕の体はある程度は通常に立ち返った。しばらくして抜糸し、そのうち右腕を吊るしている三角巾も取れる。それまでは、肩や鎖骨に負担がいかぬよう、折れた側の、すなわち右手はほぼまったく使えなかった。また新しい生活様式を得て、適応し、進まねばならない……食事のほかでは使えない右手は、以前に打ち明けたような僕の観念のもとで暗に虐げられた。過去の生活に比べたら明らかに不便な現在の生活と、それをもたらしてなお半身に下がったままの愚かな子、こんにちは! 僕のありうべき冬は、お前の無二念な切断のせいで崩れ落ちた――いや、僕自身のせいで! いったい僕は何をしていたのだろう? すべてあの一回の過失じゃないか。ためらいなく漕ぎ出した自転車の猛烈な突進が、僕の迎えるべき日々を無下にした。そこには友人との歓楽も勉学の快も、あるいは誕生日さえ、すべてあった。享受すべき楽しみはおおかた失われ、かわりに病的な余暇を得た。おめでとう、本当に! 僕は世迷言のつもりなどなく、つまり真心からこう言ってみせた、「よくやった!」と。避けるべきを避けず、得ないでよいものを得た、荻野昭雄、お前はすばらしい成果を残した!


僕の心はざっとこのようであった。治療には莫大な金がかかり、学業成績にはいくぶんかの傷がつき、家族にはしばらく心配事がひとつ生じる。僕はそのことを憂う。その前に雪が降りかかる。


といって、だれが僕を慰めるだろう? 新種の肺病が病人を見舞いから退け、病床に伏せるひとりひとりは孤独である。看護師にしたって、よほど憔悴した患者なら、夜伽という形でも何でもやって救い出そうと努めるかもしれない。僕が心労に身をやつすことは傍目にいくらとも見えない。押しこめられた心情は、膵臓とか肝臓に現れた病のようにいつまでも現前せずに畳みこまれたままだった。


肉体ある存在がどれほどに僕を助けてくれようか。僕は目の前の看護師に、それが男性であれ女性であれ、救いを求めてなどいなかった。


いかなるものに対しても人間は無力だった。というのも不完全だから。我々は神の似像というだけで、けっして完全的ではなく、また神的部分があるわけでもなかった。万事不如意な肉体に落としこめられた現実の人間では、質的であるあまりにいったいどうにもならない。たとえば我々は人を救うけれど、それは精神的でなくてきっと物質的であり、徳義的である。救済はもとより精神上に作用する浄化を指すのだから、本当は実質上の、道徳上の行いは救済には入らず、それはもっと卑近なことば――支援とか言われるべきだった。看護師がやるのも悉皆支援である、援助である。かようにして人類は救済しえず、それはより精神的・(形而下的人類に対する)形而上的・非物質的・観念上的で「それより大いなるものが考えられないもの」――つまり神によって成されるものである。救済はここにおいて神的であるから、すくなくとも人間の領域には存在しえない。人が神の似姿であるのと同様にして援助は救済の似姿であるに違いない。そして、人間は神の側に立てないし、神は人間の側には立てない。


より正確には、看護師が行うべきは看護であろう。彼らは救済をしえず、ただ救急、救護の一面からのみ人にはたらく。救の字が入るのは人間側から見るときその性質が同種に思われるからにすぎず、またそれじたい誤謬である。僕はこの誤りをいかにしても指摘したく考えるが、このためにはまず神の存在証明を存在(オント)-(-)神(テオ)-(-)論(ロギア)の側から語らねばならない――切断面こそがたとえば救済などの神-人間の一方的現象の連結部である。


この論証過程を、僕はいまだにわずかとも組み立てられていない。神は観念上に置かれるなら、おそらく経験的に証明できるものではないが、といって神という字句のうちにその存在が措定されているようでもない。僕はここから神を満足に定めえぬ気がした。これは一般論かもしれない。生活に内在する神は偶像で、というよりは根本的問題を抱えた偽な言明であり、我々が神という語を口にするとき、実際には何をも語っていないのだろう。現実に神は、前経験的で非経験的なものとして話されなければ決着がつかない(その実在を知る前に犬について話し、それから犬それ自身を発見することも我々は考えてよい)。あるいは、ある種の理論で話してからどうにかしてその存在を示してもよいだろう。デカルトが神について『方法序説』『省察』で記すことをそのまま借用しさえすれば済む。その徳義上の問題を抜きにして。


以下では神のありようについて仔細に語らないし、語ることはできない。というのもその論証について、僕の不出来を近因として筆を擱かねばならないから。代わりに神からその姿態を借りた人間のうちでもっとも神に近い者について考えたい。というのは、よし神がいるとわかったとしても、我々は経験できることがらとして神について記述することはまったく不可能であるから、何らかのものごとを著してもいったい人間の土地にある。我々は神の周辺の事項にかんしては、沈黙せねばならない。その代替に、人間のなかでも神的な者を書くことで、いくばくかの痕跡――祭壇、神画、神像、あるいはイコンを、目に見える事物として残せるだろう。


院内には何人か、それに近い人物があった。私の信念はその人らの姿を書くことで掴みうる。まとめて言うならば、それらはみな女性で、背が高く、またそれだけ細身だった。これは神の似姿としての人間のあるべき様子であり、すなわち神的人間はかならずこういう姿態になる。身につけている衣服を脳裡に全部剥がしてみるとよくわかる。それらはみな肉少なく骨ばった体で、胸や尻も、他の部分に比べたら豊かであるにしても市井の女などよりはいくらも痩せている。要すれば直線を見出せるのだ。不動の一筋が身体に伸び、それゆえにつねに張り詰めた感触がある。けれども同時に慈悲深く笑んでいるから、少しとも近寄りがたく思わせない。伸びやかな体になお伸びやかな足があり、また腕がある。指は細く長い。わっと手のひらを張ると、何でもその内側に収められるような感がある、いや彼女らの体は僕らでも、僕らよりずっと大きなものであろうとも、さらに言えば、この地球という一個の惑星でさえ包みこんでしまえそうだった。それほど悠然として偉大である。むき出しの肉体が大地の上にゆるやかに躍動し、一歩々々進む足は空を切り雄大で、首筋から肩、肩から胸あるいは背中へ流れる柔らかできめの細かい肌が輝く。我々はまずその背の高く美しいのに目を向け、次に立ち居振る舞いの清げなるに心奪われ、その柔和な顔立ちに出会う。そのときには、我々の心の煤けたところがさあっと潔白になり、彼女にある清冽な心が川で禊するように洗い流される。そしてきれいになった心のまま、彼女の胸に抱かれる……美しい、細くもたしかな力ある腕のなかに身を巻かれるなら、人の生命は彼女の熱によってきっと温められる。澎湃な血流がもう一度熱を作り、体が復活する。濁りきった血肉すべてが新しく清廉になれる。生きてみようと思える。幸いにも彼女には肉体があり、我が身を包むべき腕があり、身心を活発に戻してくれる熱があり、穢身を寛容する微笑がある。細く入り組んだ人間の精神構造をさっとほどく細き指が、髪を梳き頭を撫でる細き指がある。かように畏敬すべくも慰藉を乞うべき者は、他にけっしていない。なぜなら彼女は神的だから。彼女に見受ける灼然たる光はみな聖哲な位格のためである。我々はその下にひざまずき、取りすがる。彼女の向ける憐憫ひとつが落ちくぼんだ心を一挙に変える。そして力能がみなぎる。溌溂になれる。


私はかように神人を考える。希う。そして現実に拝跪し、救済を庶幾する。けれども、彼女たちのあたうところは救済の周辺にも達しないようである。というのはやはり彼女たちは神人性のある女であるばかりだから。彼女たちにある畏れ多き力源は、つまるところ神のまがいものとして機能しているだろう。僕は諦観しているのだ。彼女たちのありうべき御姿を精緻に捉え、過剰な信心を置かぬように努力するのだ。観念的観察が不可能な人間のために神性の注入された有機体、いわば神の断片のあるべき姿、成すべき行為を正確に求めるために。彼女たちは我々世俗の人間ほど人間的でないし、また形而上の神ほど神的でない。その中間に身を横たえる美しい人として、我々が求めるべきは女性性ではなく救いである。そこに救援を希求する心ひとつで飛びこみ、物質的の欲望は持たず、ただ救われたいという気持ちのみで没入しなければならない。彼女らの成しうることはあるべき姿であること、それから救援である。


患者の喘ぐ声も絶えた夜の病棟は、病院に特有の気配を闇に染みこませ、暗い室をなお暗く見せた。そのなかに、生を奪えないならばその精神を揺さぶろうというような霊氛がさまよい、僕の病床まで忍び寄っているようだった。僕はそのせいで熱病にかかったように体の底が熱を発し昂り、何かしらの霊気は僕からまず理性を剥奪してそのなかで猛る僕の性が放恣になるよう仕向けて人間社会から引きずり落とすつもりなのだと考えた。音の聞こえぬ孤独の床に、僕は体全体が燃え盛り心臓が熟れ腐ると思った。これが凝縮した僕の穢れであり、腐乱し体から落ちるとそれ自体があらゆる衝動の混じった飢えた物の怪となって女を食う気がした。理性で束ねられた欲求のすべてが今に動き出し、飯を貪り老爺をなぶり女を襲いはじめる錯覚で眼窩のほうから目が押し出されるようでもあった僕は、まるでそれによっていっときははじけ飛び野放図に好き勝手する欲のひとつひとつが寸手のところで押しこめられたままになるというようにそのふたつの手で体を抑え、カーテンの隙間から室に差すわずかな月光に目をこらした。光はだんだん僕の目に明らかに見え、そのうちに室内の備品の影もなんだかわかるようになる。その一条の光が僕をどうにかここにつなぎとめるはずだった。


光は形を変えた。


それが空中に浮かび上がって人の形を作る(というよりはむしろ光のなかに新たに人の姿が顕現した)のに僕は脈絡なく気づいた。それはそれとして突然とそこに現れた。僕と僕の欲求すべてがそこに明瞭な姿を見せだしたものをじっと見た。僕の体は穴蔵の闇に降り立ったまばゆいものを前に静止した。不知不識に肉体の赤黒く熱された部分が青白く静まった。それは神から天使、そして天使から還元され肉体をもって降臨した神人たる女だった。背の高く細い、その身に流麗を宿したもっとも神聖なる生きた肉身だった。僕はその足にわあっと飛びつきいまだ光を失わない大腿に顔をつけて、猛りから冷めつつある全身ですがった。苦しい苦しい、寂しい寂しい、こうも叫んだ。僕はもとより無力だった。人ならぬ身に堕落する寸前の体を何とか食い止めて彼女のもとに帰した、これで精一杯であった。すると女は僕を抱き上げた。背中をさすり肩をたたいた。僕の体に熱病のような瘴気を作った源がいっさい抜けて雲散し、清らかな空気が戻った。僕の肺腑まで洗われ、心臓はもとのとおりにはたらき、女の胸のなかで腕に包まれた僕はまったく安穏し、人間本来の温かみを取り戻した。それでもなお女は玲瓏な爪のそろった細い指で僕の髪を梳いた。最後まで抜けきらずに残った邪悪な滓を掻きだそうとしているらしかった。このあいだも片方の手は僕の背中にあった。その手から出る快い熱が僕に染みた。彼女の肉付きはよくわかった。骨の感触のうえにたしかな肉の柔らかみがあり、乳房の安らかな感覚がある。僕はそのすべてが終わるまでのどれだけの時間が過ぎたのか知らなかった。そのうちに空が白み、僕の身体は清潔になり、骨もきれいにくっついたようだった。手術のあとでじきに折れたところから仮骨が生えるのだと聞いていたものを痛みも何もなく、また骨に通した針金すら消えてしまった。まず担当医が驚き、看護師が驚いた。噂はすぐに院中を巡り、整形外科と限らず方々の医師が僕を訪ねた。僕の体は完全に健やかになっていた。そしてすさぶっていた精神までもすでにつねに温厚になっていた。


人の持たざる霊性が僕の体に流れている感覚がまだ残っている。

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