人間の目に飛び込んだ埃の話   作・綾

 人間の目に飛び込んだ埃は、その名をホコリといいます。ホコリはそれまでただの埃でしたが、ある日急に意識と、ホコリという名前を与えられました。ホコリは埃なので当然親などはいませんでしたが、近くで偶然同時に意識を与えられた埃やずっと部屋の隅でうずくまっているおじいさんの埃と一緒に仲良く暮らしていました。


 はじめに意識を持った場所が人間の家だったので、ホコリはそこで暮らすことにしました。美しく光を反射する鏡の傍の引き出しのうえ。同い歳の埃やおじいさんの埃に、強く勧められたのです。




「ホコリ、お前はね」


 おじいさんはまだ上手く言葉を使うことのできないホコリの頭を撫で回しながら、いつも優しく言います。


「人間に嫌な思いをさせるために、神様に意識を与えていただいたんだよ」


「かみさまって何?」


 意識を持ったばかりのホコリには、おじいさんの言っていることが理解できません。


「人間がとても好きで、素晴らしいと考えているもののことさ」


「なんで人間にいやな思いをさせることがすごいの?」


「神様がそうやって決めたからだよ。ああホコリ、あんまりたくさんの質問をしないでおくれ」


おじいさんだって本当はよくわからない。自分をじっと見つめるホコリから逃げるように目をそらしながら、おじいさんはそう続けました。何一つとしてはっきりと分かったもののないホコリは、しかし、尚もゆっくりと頭の上を滑るおじいさんの手の感触を心地よく味わうのでした。




「ホコリはきっと素晴らしい埃になるわ」


 同い歳の埃はまるで自分のことを誇るようにそう言いました。


「わたしはね、違うんですって。わたしはあのおじいさんのように部屋の隅っこでじいっとしているために意識を与えられたのよ。ホコリのことが羨ましい」


「なんで羨ましいの?」


 自分と同じ瞬間に意識を持ち、しかし自分よりもずっと上手に言葉を使う同い歳の埃がなぜ自分を羨むのか、ホコリにはさっぱりわかりません。


「じいっとしているの、素敵だと思うけどなあ」


「違うのよ、全然違うの」


 同い歳の埃は、まるで人間のおばあさんのようにゆったり微笑みます。ホコリの知る人間の中でもっとも小さくて弱そうな人間のおばあさんは、毎朝鏡に近づいては顔に白やら赤やらを塗りたくり、そして毎晩再び鏡の前に立ち、今度はたっぷりと冷たそうな何かを使って顔の色を落とすのでした。いつも一片の花のように動くおばあさんのことを、ホコリはとても気に入っていました。


「あなたは特別よ。だってみんなそう言うんだもの。おじいさんも神様も」


 ホコリは頭をうんと使い考えましたが、やはり自分が特別だなんて到底思えないのでした。




おじいさんの埃と同い年の埃とホコリは、仲良く過ごしました。毎日の密やかな暮らしの中で、ホコリは少しずつ言葉の使い方を覚えていきました。けれど何故自分が特別なのか、それをなぜみんなが分かっているというのかは、いつまでも分からないままでした。




 幾月か過ぎた、ある春の日のことでした。花の香りがふわりと漂う中、おじいさんの埃と同い年の埃はホコリに言いました。


「ホコリはもう随分大きくなった。お前はもう立派な埃だよ。そろそろ人間に近づいてみるべきなんじゃあないかい」


「私もそう思うわ。ホコリ、あなたのお役目を果たすときがきっと近づいてきたんだって、そう思う」


「なぜそう思うの? まだ、みんなと一緒にいたいなあ」


 恐る恐るそういっても、おじいさんの埃と同い年の埃は感慨のこもった視線をこちらへ向けるのです。


「いいえ、今日こそ行くべきだわ」


「そうだよホコリ。もじもじしちゃあいけない」


 みんながそういうのなら、そうなのかしら。何だか寂しいホコリは、まるで頭に霧がかかったような気持ちになりました。けれどみんなが正しいというのならば、きっとそうなのでしょう。何もかもが分からないままのホコリには、何もかもを分かったような顔をしているみんなが燦然と輝いて見えるのでした。




 そのときです。一人の女が現れました。あまり美しいとは言えない女です。髪の毛の先はひどく傷んで光が透けてしまっているし、むわりと臭い息を吐いているし、目は沈んだ灰色に縁どられています。棒切れのような身体を大きすぎる服で包んだ女は、頭をガリガリと搔きながら鏡を覗き込みました。


「ああ、面倒くさい。なんだって外に出なきゃいけないって言うんだ、あのクソッタレが」


 女はぶつぶつと呟きながら髪をブラシで撫でつけ、おばあさんよりもくっきりと濃い赤を唇に塗りたくります。辺りに漂っていた花の香りまでどんよりと濁っていくようで、思わずため息を吐いたホコリをおじいさんの埃と同い年の埃がせっつきました。今いくんだ。そうよ、今、今よ。


「あの女は絶対に嫌な奴だ、おじいさんにはわかる」


「おじいさんの言うとおりだと私も思うわ。あの人間の目に、飛び込んでおやりなさいよ」


「本当に、あの女の人の目に飛び込むべきなの?」


 いまだ実感の湧かないホコリはそう尋ねるけれど、二つの埃は声を揃えて言うのです。そうに決まっている!


 女の顔色は幾分かよくなり、目の周りの灰色は鮮やかなブルーに塗り替えられています。唇はまっとうな赤色をしているし、髪の毛は、一番先の傷みは隠せないまでもふんわりと美しく弾んでいます。身体に残っていた濁りを吐き出すようにひとつ大きなげっぷをすると、女はまつげを金属で挟みはじめました。瞳がぐるんと裏返り、ホコリは恐ろしくてひゅうと息をのみました。


「さあホコリ、もう後戻りはできないよ」


「そうよホコリ、行ってしまいなさい」


 みんなが、そう言うのなら。ホコリはとうとう、何が正しいのかも知らぬまま決意を固めました。


「あの、今までありがとう。頑張るよ」




女はちょうど、ホコリたちの住む引き出しに手を伸ばしたところでした。背の高い女なので、眼球はホコリのすぐ目の前に迫っています。ホコリは勢いをつけて女の顔の産毛につかまりました。どうやら時間がないようで、女の動きはだんだん荒くなっていきます。


「うわあ、怖いよ」


 女が頭を振るたびぐらりと揺れる感覚は、ホコリを簡単に動けなくしました。必死の思いで元の場所に目をやると、おじいさんの埃と同い年の埃は呑気にこちらに手を振っています。




みんなをがっかりさせちゃあいけない。みんなは、自分を特別だと思っているのだから。




毎日特別であると言い聞かされることで、ホコリの中には、いつしかみんなの期待にこたえたいという思いが生まれていたのです。なぜなら、自分は特別なのだから。一つ息をつくと、産毛の間を少しずつよじ登り始めました。


 何度も転がり落ちそうになりながら進むと、ひときわ太く、しなやかな毛が姿を現しました。したまつげです。身体全てを使いそれにしがみついた瞬間、ぐわりと分厚い何かが下りてきました。女が、まばたきをしたのです。つぶされてしまわないよう、ホコリは慌ててしたまつげのさらに奥へと潜り込みました。どうやら自分はまだ生きていると安心し、そこが不思議に湿っていることに気が付きました。白と、黒に分かれたそこは、瞳でした。


「やった、やった、たどり着いたぞ」


 まぶたがゆっくりと上がっていきます。と、再び閉じました。女の指が、ホコリの周りを乱暴に擦ります。


「クソッタレが! なんでこんなときに、時間もないのに! クソッタレ!」


 女は見事に苦しんでいるようです。ときたま明るくなる視界に大喜びする二つの埃を見つけたホコリは、ほっと胸をなでおろしました。女の眼のふちに腰掛け休んでいると、あるひとつの考えが胸に浮かびました。自分はこれからどうすればいいのだろう?


 いままでホコリは、住む場所もするべきことも、全部おじいさんの埃と、同い年の埃に決めてもらっていました。でも今、傍には誰もいません。これからは、女の目をときどき刺激すること以外、何もすることがないのです。


「この際、自分でなにかを決めてみるのはどうだろう」


 思いがけず大人びた声が出て、ホコリは顔をほころばせました。まるでみんなみたいだ。それでは、女のからだの中を旅してみようかしら。それとも、まつ毛の間に住む、自分とは違う種類の埃と仲良くなるのも素敵かもしれない。してみたいことは存外たくさん出てきて、それらはホコリの心を明るくしました。


それではまず、仲間づくりだ。まつ毛に向かって動き出したホコリを、突然、不愉快な水が包み込みました。




女が涙を流したわけでは、どうやらないようでした。涙はほんの一瞬ふるりと流れ、後には何も残らないのです。しかし今、ホコリは、いつまでもなくならない水の中でぐらぐらと泳がされていました。つんと臭い水の中、息もできずにただ漂うのは耐えがたい苦痛です。おまけに女が水の中でぱちぱちと瞬きをするので、水の揺れは勢いを増すばかりです。


「助けて、苦しい」


 声にならない声でもがき苦しむホコリは、突然、からだが少なくなっていることに気が付きました。腕もない、足もない!


 はるか遠くの水面でうごめく自分の腕を、ホコリは見止めました。あわててそちらに向かうと、今度はまだからだにくっついていた足が波にさらわれ消えました。ホコリは埃なので痛みは感じないけれど、自分のからだが少なくなっていくのはひどく気味が悪く思えました。


「いやだよ、いやだ!」


 もがいている間にも、からだは少しずつ散り散りになっていきます。最後の二つのかけらがほどけた瞬間、ホコリの意識は消えました。もう必要がないから、神様が回収したのでしょう。




「ああ、すっきりした。せっかくの化粧が台無しだ、クソッタレ。もう、あいつの用事なんて無視してやる」


 女は目をほじくると、ずんずんと鏡から離れ、布団にもぐりなおしました。傍に置いてある酒瓶をぐいと呷ります。途端に世界は色づき、目に映るものすべてが輝き始めました。


「悪くない」


 うっとりとした声音でそうつぶやくと、女はぐうといびきをかきはじめました。


 穏やかで美しい、春の日のことでした。





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