初期の短編 作・奴
友人の話を信じなかった。あるいは、信じられなかった。いくら必死に説明しようとも、私はじっと窓の向こうの空を眺めた。雨が静かに降る、冬の空だ。空が灰色だから、雨の粒が見えることはないけれど、私には「雨が降っていること」はたしかにわかっていた。それは友人が口にしたとか、あるいは天気予報を事前に確認したとか、そういうことではない。ただそう感じ取った。友人は私が聞いているかどうかにかかわらず、のべつまくなしに話し続けた。断片的に聞こえる言葉のいくつかは耳に残った。そして今も覚えている、より正確に言うと、思い出した。私も、同じ体験をしたからだ。
友人の体験と、私の体験を統合して表すならば「我々は、夢の中で会った女に、実際に会った」のだ。魅惑の女だ、艶やかな女だ、美しい女だ。私は、なぜかその内容をはっきりと覚えていた。友人も覚えていた。私は友人に電話した、「私、あの人に会っちゃったの」と。友人は笑いながら言った「その良さがわかったでしょ」と。女はまだ、記憶の中で笑っていた。私が声を荒げて説明するたび、女は私に笑いかけた。状況がわかるように、何度も言いなおしながら、少しずつ伝えていくごとに、友人は「うん、そう、全部合ってる、そう」としだいに語気を強めて相槌を打っていた。私たちはまったく同じ状況を経験して、まったく同じように興奮した。最初に私のとった態度、はじめてこの話を聞いた、雨の降るあの日にした私の反応は間違っていると、冷静になってから台所の椅子に座って思った。この日は晴れた正午でも薄暗い奇妙な日だった。蛍光色の座面のカバーが目立つ台所が、私の落ち着ける場所でもあった。冷静な気持ちで彼女を思い出すと、やはり、きれいだ。「白いもやの中を抜けた感覚の後で、ふいに美術館が現れた。妙に地面は柔らかくて、アイスバーンのアスファルトを歩くのと同じように、コツがいるべき地面だ。素人のはずの私は難なく渡りおおせ、その入り口に着いた。ガラス張りの外面を覚えている。すこし重い扉を開けると、広い空間に出る。受付のようなカウンターはなく、真っ白な階段が天井近くのドアにつながっている。それ以外、何もなかった。飛ぶようにして、その球技場くらい広い空間を、ゆっくりと移動するうち、前触れもなく女が現れる。挨拶も会釈もなく、女は、まるで古い友人であるかのように、あなたには子供がいなかった、と投げかけて、ここで夢が途切れる」夢の話だ。友人の見た、そして、私も見た、夢の内容だ。描写は同一だった。二人でまったく同じ夢にほだされている。女のことが忘れられない。今日は日曜日で、明日は月曜日。私には仕事がある。彼女はずっと傍を離れないけれど、私はあと二十四時間もない内に家を出なければならない。「ねえ」とつぶやいた。妄想の世界にしかいないはずだった女は実在した。私と友人とで、同じ女に会った。彼女は私達が友だちであることは知っているのだろうか? あるいは、と思った。夢であった人だ。同じ場所で、同じ笑顔で、おのおのに会った人なのだ。きっと、私たちの関係を知っている。もしかすると、それぞれのことは、隅々まで知覚しているかもしれない。トマトが食べられない、風呂は四十四度の湯に入らなければ気が済まない、足の裏にほくろがある、全部知っているのだろう。「知ってるよ」と言う、彼女の得意げな顔を想像した。ほとんど実態に近いものが思い浮かび、急に悲鳴を上げた。椅子を倒した。ふしぎと、あの女が存在していることに対して、恐怖を感じるようになった。彼女はいとしいはずの人だ。あの時、たしかに会って、話までした人だ。「失礼ですが、あなたはもしかして、私の夢に出てきた人ですか?」と。ほほえんでいた、友だちと喧嘩して怒っている子供に、優しく耳を傾ける母のような、そんな柔和な笑みだった。「はい」と言った。「私は、あなたに会いました」と続けた。「夢の中の、美術館で」美術館で! 夢の中の! それからのことを覚えていないことが残念だ。気がつくと、自宅アパートの玄関前に立っていた。今、どの道を歩いて帰ったのかさえわからない。でも途中、友人に電話した。興奮していた、それはなんとなく、夢心地だけれど実感としてある。倒した椅子を元に戻して、また、彼女に会うまでのことを考える。
興奮ぎみの友人が、突然私の部屋に来た。降りだすか、降りださないかというような、濃い曇り空が見えて、洗濯物のことを考えた。私の了承をほとんど考慮していないような友人の様子に当惑しながら「部屋かたづいてないよ」と独り言みたいに言った。一間だけの家へと入るとき、フローリングが異様にギシギシときしんで音を立てる。後姿を見て、このスカートはどこで買ったのだろうと、かわいいなあという感嘆とともに思う。私に何かを報告しに来るには、あまりにオシャレすぎるような、ふんわりとした服だった。「でね」と右手を振る。「私、すごいことになったの」と上着も脱がずに話しはじめた。「お茶入れるよ」と言えば「聞いて」とて振り返り、必死な顔を見せる。「わかったから」と飲みかけのペットボトルのいくつかを探り当てて、一本目から飲みほしていく。あと、ほんの一口というところで残す癖をどうにかして直したい。友人は話した。さっき思い返した、夢のことを。ずっとたどたどしくて、不得要領な箇所がいくつもあったから、しだいに興味をなくしていった。もともと、急に来られて辟易していたところもあったが、いくらか聞いたところで、嘘みたい、と思って窓の外を眺めたのだ。信じられなかった。「再会」したときのことも、覚えている限りで再起する。「夢を見てすぐね、なんでかさ、上司から、あの前言った平野ね、平野から、美術館へ行く仕事があるから行ってくれって言われて、いやホントにさ、すごい偶然じゃん。いや待って、ホントなんでって思ってさ、いやマジかって思うじゃん、じゃんね? でさあ、まあ仕事だし、お金出るし、やっぱし行くじゃんか、行くじゃん、そしたら、いるのよ! 女の人が、いやなんか心霊番組みたくなってるけど、そうじゃなくてさ、わかる? わかって? あの、夢で見たあの人が本当にいるのよ、夢で見たまんまの服装でさ、マジにかわいくて、ええスゴイ、なんで? みたいなさ、でさ、もうこれ話しかけるしかないよねって思って声かけるじゃん、したら、やっぱそん人なんよ。ええ、ヤバってなってさ、いやいやいや、マジって聞いて、ホント聞いて。でさ聞いたらさ、そうですよって言ったの」話は、行きつ戻りつして、内容のないようなものを三十分くらい聞いた。今ならわかる、友人がそれだけ興奮するのも無理からぬことだと。彼女のもっとも純粋な目を、今になって納得する。台所から、見えるだけの自分の部屋の全体を見渡した。昼ごはんは何を食べよう?
月曜日が、来た。おりのように空にあり、流れているかどうかわからなかった灰色の雲はなかった。遠くに見える山が日を受けて明るい。鳥の声を背後に聞きながら、私は机の上のごみをじっと見た。気が済んだと思ってかけ時計を見た。ああ、時間だ、準備しなきゃと気が急くけれど、ごみが私の後ろ髪を引いて、一つひとつの動作が鈍く進む。朝食をやり過ごし、着替え、髪をくしけずって結い、次は化粧と姿見に映った自分の顔をのぞいたとき、あの女がそこにいるような気がした。ベールのような黒目の奥に彼女がいて、ほほえんでいるのだと信じた。鏡の中の目をなでてみた。「愛しい人」と独りごとを言い、それと同時に顔が赤らむのを感じた。何度もその幻惑がよぎり、頭を振る。もう、遅刻は免れられぬ時間だった。
仕事先の最寄り駅まで走る地下鉄が遅延した。幸か不幸か遅刻の理由が生まれた。その時は、困ったという顔を作っていたと思う。ただ女のことはしこりのごとくに心に残った。あれだけ捕らわれていたはずの女の、細やかな表情はすでに忘れてしまったけれど、私はどうしても女自体が大事に思えてしかたなかった。夢で会った人間が実在すること自体にかなり魅かれていた。連絡すると上司のほうでは不服そうである。「どうしてもう少し早くに家を出なかったのか」と決まり文句を言う。今はただ一言だけ謝るので済んだからよかったが、その上司が面倒な妻のように、過去のことを挙げてくることがあるから嫌だ。電車が到着するまでの十分を、私はもっと有意義なものにしようとひとり思った。具体的にはあの女のことをあれこれ考えようというのだが、私は昨日の再会がはるか昔のごとくに感じられた。もしくは夢のようだった。友人に電話をかけ、確認しようとすら思うほどに、あの女は私の記憶の中でぼんやりとしている。おびただしい数の人がいた。線路に沿い流れる風が、岩礁にぶつかる波のごとくに細かく分かれ流れていたが、人の熱に侵されて私はのぼせていた。周囲の景色があるひとつの幻覚らしく思われ不気味だった。しだいに、ここは美術館だとも考え、あの女が人ごみに紛れて立っていると信じ見回す。私は幻覚とは離れた違和感を覚えた。彼女の容姿に似た女はおろか、女性がそもそも少なく見えた。いやむしろ、男性が多いと言ってもいい。とにかく、ふだんの比率とは違い、男女の数はそれぞれ一方に偏っていた。あるいは少なく、あるいは多かった。実感がある違和感だ。すると急にぞっとした。流れる風がそうさせたのではないような寒気が肩を震わせるし、心臓はきつく締まる。上司の声すらいとおしい。私以外のだれもが、この状況を受け入れているらしかった。不安げな顔の人は男女関係なくいなかった。それがまたおそろしい。また、ぞっとした。不穏な寒気で体が震えるし、心臓はきつく締まる。時計を見ると、到着の時刻までまだ五分もあった。それで焦りがつのる。つとめて平静を装うが、その余裕もない。うずくまりたかった。逃げるよりも子供のようにふるまいたかった。どうしてこんなにおそろしいのか、それは私にはわからないけれど、とにかく、おそろしい。どうしよう、どうしようとばかりで実際の視界もぼやける。何度目をこすっても同じだった。音が遠のく、視界がおぼろになる。何も、考えられない。
肩をたたかれた。
「大丈夫ですか」
何も言えない。すこし五感は冴えたけれど、また、鈍る。「貧血か何かでしょう、ちょっと休みましょう」と肩に手が置かれる。男か女か、それすらわからない。嘔吐感までこみあげる。私は言われるがままにした。
意識がはっきりしたころには地下鉄駅を出て、喫茶店にいた。そうして私を解放した人がだれであるかもわかった。あの、夢で見た女だった。
「もう、だいぶよくなりましたか」
「は、はい、もう、おかげさまで」と弱い声で言う。まだ興奮できるほど恢復していなかった。
「水、注文しておくので、今はゆっくりしてください。私は付き添っておきますから」
何とも返事できずに黙っていた。まだ、話したり、焦点を定めたりすることはできない。あの女が、私の前に座っていることはたしかだった。
「まだ人の話を聞けるほど恢復してないかもしれませんけど、よかったら私の話を聞いてくれますか? 聞き流してくれていいですから」と女が投げかける。黙っていた。
「私には趣味があるんです。建物を燃やすっていう」
燃やす? 口が開けず聞き返しもできない。
「だいたいの人は非道徳的とか言うので、よほどのことがないかぎり明かしませんが、私は、ほんとうに建物を燃やします。趣味として、ひとつの楽しみとして」
「日課かも」と女がひとりごとを言ったときに水が運ばれてきた。女も水を注文していたと思う。すくなくとも女の前にあった飲み物は無色透明だった。
「毎日とか、あるいは週に一回とか、そんな頻度ではしません。そうしたら、すぐに国中の建物が燃やされますし、なんていうか、私自身、そこまで燃やしたいのではないんです」
女がテーブルの上に指で円を描き始めた。垂れた髪を耳にかけ、ふと、どこか遠くを見る。その視線が私の目に到達したとき、私は自分がほとんど寛解していることに気づいた。
「より正確な円が描ければ描けるほど、家に新鮮な円が転がってくれる。いびつなものは、簡単に腐る、アシが早いですね。それで、どんな建物を燃やすのがいいのかと言うと、そうですね、たとえば木造の家、平屋とか集合住宅とか古い校舎とかそんなのに関係なく、木造の家を燃やすのは気持ちいい。よく燃えると気持ちがすっきりします。煙の臭いが好きというのもあるかもしれません」
「捕まったりは……」とひっかかりながら聞いてみる。
「もうだいぶ恢復していますね」と女がほほえむ。心臓がきつく締まった。奪われた、とひとり思った。
「捕まりません。そういったところは首尾よくやっていますから、それは大丈夫です。それに私が燃やしているのは、住宅街にある家とか、まだ人の住んでいるものじゃない、完全に廃墟になったものです。なるべく人に被害が及ぶのは避けますし、自分の家がなくなるのは嫌でしょう」と冗談を言ったのだというように軽く笑う。私は水を飲み、ねばる唾のある口を洗った。つられたように女が水を飲む。
「言いましたっけ、家を燃やすのは、多くてひと月に一回、すくなくとも二か月に一回です。ほかの人はどうなんでしょう?」女はまた円を描きつづけ、それは四角に変わった。次は三角か、星かと見ていた。
「佐田さんは燃やしますか」
佐田さん?
「どうして」とうわずった。「私の名前を知っているんですか」さあっと鳥肌が立つ。保険証か何かを見られたか、と思った。女は何か問題があるかというような無垢な顔をしていた。
「野暮ですよ。そういうこともあると思ってください」
「いや、いや、怖いです」立ち上がった。「私、やっぱり、もう、行きます。今から行くって言って、まだ電車にも乗っていないし。会社の上司に怒られるでしょうし」
「たぶん明日も、佐田さんは体調を悪くしますよ」と背中をゆっくり撫であげるような声がする。そんなことがあるものか。今日女に会ったことすら幻影と思いたかった。ただ女の声を、実感をもって聞いたので、うまく記憶をぬぐえない。私は走るように地下鉄駅へむかい、何も考えずに乗った。その電車はたしかに最寄り駅へ行くものだったから安心した。男女の比率、それが確固たる数字としてあるかは私にはわかりえないけれど、とにかく、その車輛に乗っている人の男女比は、わりあい納得できるものだった。私は散り散りに物を考えた。女はどうして改札を抜けられたのだろう?
上司たる課長は何も言わなかった。それどころか「お疲れ」とねぎらわれた。帰路で、奇妙なことばかりだとひとりごち、友人に電話しようと考えた。一部始終を語ってしまおうと意気込んだ。歩む先から来る人混みを眺めながら歩いていると、友人は三コール目に出た。
「どうしたの?」
「遭ったの」と言った。「あの人に、夢で会ったあの女に」
「そのよさがわかったでしょ」
「すごい、でも怖い」
どの道を通りどうやって帰り着いたかは覚えていなかった。気がつけば台所の椅子に座っていた。前のテーブルにはミネラル・ウォーターのボトルの蓋が開けられて置いてあった。何口か飲んだ後だった。私は友人と実際に何を話したか、確かめるためにもう一度電話をかけた。十五回のコール音の後も出なかったから諦めて電話を切り、いつ開けたかもはっきりしないミネラル・ウォーターを飲んだ。
私は明日も気分を悪くする、と思った。女はどういうわけか私を知っていた。それは単なる外部に露出した情報ではなく、むしろ予知的な情報だった。また、私は気分を悪くする。作り置きしていた鶏肉のオレンジ煮を半分だけ残した。
一時止んでいた雨は早朝からまた降り始めた。お茶漬けをゆっくり食べながらニュース番組を見ていると、網戸だけ閉めたベランダの窓の向こうから雨音がふいに聞こえた。たしかに予報では曇時々雨であった。しかし妙に冷えた。梅雨近い今時分にしてはいやに冷たい風が網戸を抜けて来る。雨足はしだいに強くなった。
地上を走る路線はどこも遅延していたし、駅前はバスやタクシーを待つ人だかりが水牛の一群のようだった。地下鉄ばかり定刻通りに到着し、出発した。いつものように内東線を十の宮から西法大学前まで行った。次の永塚から外東線に乗り換えてすぐに、北永塚で私はひどいめまいに襲われた。酔っているわけでもなかったし、体調が悪いわけでもなかった。車内もまったくいつも通りの満員ではあったが、今まで人混みにいるせいでめまいがすることはなかった。けれどそのときは、極めてひどいめまいが長く続いて、私は北永塚から南木島の長い区間を立ったまま耐えてそこで降りた。この二駅のあいだにどうしてもう一つの駅を設けないのだろう? ホームにはほとんど人がいなかった。線路上を通り抜ける風だけが空の駅に吹いた。私はそこの椅子で気分がよくなるのを待った。女の予知が当たったのだ。私はまた妙な体調不良のために途中で下車し、また会社に遅刻しようとしている。昨日どういうわけか私を許した上司も、はたして今度ばかり許さないかも分からない。服が窮屈に感じられた。冷えた汗がでこや背から流れて熱が奪われ、めまいで視界が暗かった。音は遠く手先の感覚も鈍い。このまま死ぬと思った。胃のあたりだけ急に熱くなって喉が痛んだ。自身が脳裡で何度も吐血し倒れている。砂嵐が目前を通っている。音が遠い。死ぬ、死ぬ。
だれかが私の手を取り連れ出した。誰なのか、どこへ行くかは分からなかった。黒い砂嵐の中に手が見える。私を引く手。人の手。私は歩かされている。どこかに連れていかれている。どこへ行くのだろう。喉が痛い、耳が遠い。
しばらく半睡半醒の体をよじることもできずに、私は自分が死んでしまったのだと思った。意識ばかり明瞭であったが感ずるものはなかった。目も開かなかった。それは金縛りと同じことなのだと、後からすれば思う。別に怖いわけでもなかった。
私は目覚めた。まったく見覚えのない部屋にいた。しかしそこは人の家であった。どこかの高級マンションの一室であり、しかも高層階だった。似たような高層ビルが同じ高さに見え、遠くに電波塔がある。一面の広大な窓が都心の景色をほとんどすべて映し出していた。
私は汗で濡れていた。けれど意識は明瞭に回帰していた。吐き気も眩む感覚もなかった。喉の痛みも消え全身の熱は尋常の通りに満ちていた。ただ汗だけが居残っていた。シャワーを浴びたかった。着替えなどないが、ひとまず熱いシャワーを浴びて気分を変えたかった。雨は降っているかもよく分からなかった。
携帯電話がそばのナイト・テーブルになかった。それどころか持っていた鞄もなかった。持ち去られたというよりは別の部屋に置いてある気がした。ベッドに寝かせたのならば介抱する意思はあるだろうし、鞄だけ盗めばよかったのだ。窃盗するつもりではないはずだ。窃盗でないなら、やはり介抱か、もしくは――すると不用心にも人の部屋に入ってしまった自分の不始末が恐ろしくなった。これが知らない男の部屋であったら、私はどうなるかも想像したくない。汗を取るより逃げなければならなかった。
玄関ドアが開き、閉まる音がした。足音はまだ中にあった。いや内へ入ったのだ。靴を脱いで入って来たのが分かる。静かな足音だった。いくつか手荷物を置いてこちらに向かってくるのが分かった。私はまだベッドの上にいる。足がすくんだ。固まってしまった。人が来る。来ると分かっても動けない。どうしよう、どうしよう?
部屋のドアを開ける音もせずに足音はそこまで来た。それで私は現れた姿に驚かれた。あの女だ。「大丈夫でしたか?」と女が尋ねるのを素直に「はい」と返した。女は微笑んだ。
「私が言った通りになったでしょう?」
「そうですね」としか返せなかった。本当に、私は気分を悪くした。
「ここはどこですか?」と尋ねてみた。答えなど分かりきっているはずなのに。
やはり「私の部屋です」と女は答えた。「何を聞いてもうまく返事できないようだったので、とりあえずここまで連れてきました。仕事に行けるようでもありませんでしたし」
「携帯電話はどこにありますか?」おそらく上司からの連絡があるだろう。
しかし連絡は一つもなかった。いくつかの広告メールが来ているだけで他は何もなかった。すでに昼近くになっているから、無断欠勤を疑って連絡しているはずである。まさか何も告げずに解雇してしまっているわけでもないだろう。
「佐田さん」と女が言った。
「焦っても遅刻には変わりありません。汗もかいていますからシャワーを浴びませんか」
着替えなら貸すと女は言った。できるならそうしたかった。私は遠慮せずに女から古着を受け取った。白無地のビッグ・シルエット・ティー・シャツと色あせたジーンズだった。
シャワーのあるバスルームに行く道すがら、私は女の部屋を盗み見た。玄関以外はドアだけが外されているような格好で、部屋はそれぞれが三方を壁に囲まれてあるだけだった。むろん私が眠っていた寝室もそうだった。ここで一人暮らしをしていると女は言った。
バスルームはモデル・ハウスのものみたいに水垢の汚れが一つもない綺麗なタイル張りで、どういうわけか入り口側の壁がガラスで出来ていた。洗面所に入れば、入浴している姿はすべて人に見られてしまう。どうせ一人だから関係なかったと女は冗談めいた笑みを浮かべた。それから昼食を作って待つから見などしないと言った。それでいても透けていると小恥ずかしい。私は汗で張り付いて不快な服を早く脱ぎ捨てたかったから努めて無心でシャワーを浴びた。熱い湯が汗を落としていくのが、不快感の消失で分かった。ボディ・ソープなどを使うのは忍びないから湯だけ隈なく浴びてすぐに出た。
洗面台の鏡で自分の顔を見た。平生の通りの穏やかな顔をしていた。強い立ち眩みに襲われて困窮していた跡などそこにはなかった。いつもの私だけがいた。しかし、と私は一方だけがガラス張りになっている風呂場を眺めて、シャワーを浴びる自分を傍目に見ていると想像しながら思った、埃も積もらず、かといって水垢も黴も髪の毛一本もないバスルームはかえって不気味だった。家事代行サービスの人を雇っていれば、これほど清潔に保てるのだろうが、どこか人間の匂いがないような完璧さが漂っていた。受け取ったタオルも真っ白で柔和であった。何日も使い古している硬いタオルとは違った。
それを思えば、借りた古着だけが人間臭い。袖に糸のほつれがあるし、襟がよれていた。おそらくあの女が季節ごとに数年は着ていた服なのだ。
バスルームを出ると料理の香りがした。廊下沿いの部屋を過ぎて、ソファと薄型テレビを置いてある広いリビングを抜けるとようやく台所のあるダイニングに着いた。そこも十人は座れるダイニング・テーブルがあって、卓上には白い花が飾られていた。
女はパスタのソースを作っていた。ただのナポリタンだけれど、と恥ずかしさを紛らわすように笑んだ。促されるまま私はグラスに入ったミネラル・ウォーターを飲んで待った。
ソースを熱する小気味良い音を聞きながら私はまた考えた。しかし、無遠慮に服を借りてしまってよかったのだろうか? 倒れそうなほどだった私を二度も助け、宅で休ませてくれた彼女には過ぎるくらいの恩を借りている。しかもついに食事まで頂戴しようとしている。自分が強欲な人に思えて卑しく見えた。断りもせずに休んでも直属の上司は連絡しない。職場の友人もだれ一人、ショート・メールですら私に言葉をかけなかった。不在着信の通知のない携帯電話が、私に何か言っているような気がした。
女が二人分のナポリタンを持ってきた。きわめて調律のよく取れた素晴らしいナポリタンだった。盛り付けや麺の茹で具合の一つひとつを褒めていけるほど、工程のすべてが的確でないと完成しない完全なナポリタンだった。私は彼女の食べる速さに合わせながらその美味を噛み締めた。
食事の間は会話もなかった。私は感激していたし、女はただ食べていた。まるでドイツ観念論専門の哲学者がカントを知っているように、彼女は料理の所作を知っているだろう。だからそうやって作られたある種の美品であるナポリタンも、長い生活の中にある料理の一品目でしかないらしかった。そんな顔をして食べていた。ああ、カントね、うん。
食事が終わると、女は紅茶を用意して私に出した。自分は飲まないと言って、水道水を一杯飲んでまたテーブルに戻ってきた。私は一人で綿密に測られただろう熱さの紅茶を嗜んだ。
「会社から連絡はありましたか?」と女が言った。
「いえ、まったく」
「もう諦められたんでしょうか」そばの白い花が匂い立っているのが不意に分かった。「そんなことはないでしょう」と女に慰めのような言葉をもらった。
女は先に言葉をつなげなかった。それからは何も言わずに、また以前していたように、テーブルの上で円を描いていた。
「新鮮な丸が出来ますか」と尋ねてみた。
女は困ったような顔で笑っただけだった。けれども円を描き続けた。
紅茶を飲み終えたころに女がまた口を開いた。
「送りましょうか」
「いえ、そこまでしていただくのは」と断ろうとした。しかし女が言うには、ここは私の家から遠かった。
「家の最寄り駅はそこですか」
「十の宮です」
「でしたら、ここから帰るにはかなりの額がかかりますよ」
「そんなにですか」
「二千円はかかるはず」と女が指を折って計算していた。それならと言って私はもう一度だけ女の厚意にあやかった。
女の車は白のミニ・ワン・セブンだった。私は着ていたスーツと鞄を抱えて助手席に座った。乗り心地はよかった。急発進も急停車もなかった。女は時折りささいな話をした。しばしばミニに乗っている人はナンバーを「32」にするとか、ミニ・クーパーなら「3298」とか。それから彼女は、大学時代に人家の芝を刈る仕事をしていたと語った。正面を見据えながら、たまに片手で何かの手振りをしてみせた。
彼女は四年間ある大学生活のうちの、最初の二年だけ、そのアルバイトをしていた。生物学科の学生として勉学に勤しみながら、一方では高級住宅街の家々を回って、依頼された通りに芝を刈った。その家にある芝刈り機を使えばいいから、行きの手荷物は領収書とタオルと飲み物で、帰りにはそれに代金が加わった。ほとんどの家は定期的に芝を刈るから、重い芝刈り機を順当に押していけば、まずまずの出来にはなった。彼女はそれだけでは気が済まなくて、細かく芝の生え方を見ながら丁寧に刈った。芝からはみ出た敷地に生えている雑草も、許可を得て抜き取った。もちろん根こそぎ。収入は悪くなかったし、少なからざる人は飲み物や食べ物を、そしてほんのわずかな人は追加の金銭を彼女に渡した。依頼主にも、店のオーナーにも、仕事ぶりは褒められていた。だから彼女の時給は他の人より少しだけ高かったらしい。夏は頻繁に依頼が入るけれど、秋からは減っていく。その間に別なアルバイトをする気はなかったと彼女は話す。暇があると一人で出かけたり、本を読んだり、細胞生物学や集団生物学の勉強をしたりして過ごした。アルバイトを辞めた理由はとくになかったようだ。どういうわけでもなく、辞めたいと思うようになったから、辞めた。それだけだったらしい。店のオーナーは残念がった。評判のよかった彼女が抜けるのは店にとって少なくはない損失になる。けれど彼女は断って、店を辞めた。待遇のことで数々の条件を申し出されたけれど、それで気が引き止められるでもなかった。
とはいえ、その仕事が後に影響して、彼女は依頼主のうちの一人が経営する企業にその人の力を借りて就職し、平社員からある程度の役を任されるまでになったようだ。私はその価値が分からないけれど、もっと高級な車を運転できるのではないかと思って言った。彼女は笑った。私はミニ・ワン・セブンが好きだから、と言った。
カー・ステレオからは、男のものとも女のものともとれる歌声が小さく聞こえた。いったい何であるかは分からなかった。
女の家からは一時間で自宅に着いた。私は何度も頭を下げた。この人がいなければ、私は二度も倒れていただろう。
「その服、よかったらあげる」と言って女は去って行った。ナンバーは「32」や「3298」ではなかった。
部屋に戻っても着信はなかった。友人からは週に二、三度だけ連絡が来るが、それもなかった。雨は止んでいた。
私はもう一度シャワーを浴びた。今度は石鹸で全身の汚れを落とした。湯を浴びるだけよりずっと快かった。下着だけを取り換え、また女にもらうこととなった服を着た。それから夕食の具材を買いに出た。
会社からの着信がまったくないのはどういうことだろう、とスーパーマーケットに向かいながら思った。本当にもう解雇されるかもしれない。明日、職場に行ったら、上司に声をかけられて、もう来なくていいからと、肩を叩かれるかもしれない。もしそうなったらどうしよう? 貯金はあるけれど、奨学金の返済も、納入しなければならない税金もあった。それを思えば悠長にはしていられない。女のように芝刈りのアルバイトをするにしても、梅雨入りすればそう何日も仕事できないはずだ。野菜を買いながらこうも考えた――また、彼女に頼ることになるだろうか。
野菜を多めに入れた豚汁ときゅうりの柴漬けを白米と一緒に食べていると、携帯電話が鳴った。ふだんは無視する知らない番号からの電話をそのときは取った。あの女だった。
「今、大丈夫?」
「はい、でもどうして番号が分かったんですか?」
「別に」女は笑った。
「今晩、空いてる? 家を焼こうと思うの」
「空いてはいます」と言ったけれど言葉の真意を了解していなかった。
「じゃあ今下で待ってるから、準備が終わったら来てね」女は電話を切った。
私は食事中であったし、何の準備もしていなかった。実際的に家を燃やすとして、犯罪に手を染める気もなかった。本当に燃やすつもりでいるなら断って家にいようかとも思った。けれど彼女には恩がある、と思った。ここですげなく誘いを拒んでも仇になりそうで嫌だった。
急いで食事を終えて、準備を整えてから部屋を出たころには連絡からもう三十分も経っていた。すぐそこの道端に、昼に見たミニ・ワン・セブンが止まっていた。女はどこかに電話をかけていた。
「すみません、遅れて」
「いいえ、全然。こっちが急に電話したから」
また助手席に座った。
「本当に、家を燃やすんですか?」発進する前に尋ねた。
「うん。本当に。空き家だけれどね」彼女は何てことないように言った。
「大丈夫。佐田さんは車の中で待っていればいいし、すぐに終わる」
車はゆっくりと発進した。そこから大通りに出て海沿いの国道に向かい、まだ車通りのある道を郊外へ進んだ。車内はしばし静かだった。女は昼に見たときと同じ格好であった。私も同じ服を着ていた。
後部座席にビニール袋があった。
「着火剤とマッチ」女は赤信号で停車すると目で指し示した。
「雨上がりで家は燃えますか」と聞いてみた。
「燃えやすければ、どうにか」女は言った。
郊外の町を抜けて田園地帯のそばにある家の一群の中にある月極の駐車場のうちの一角に車を停めた。車内の時計ではそこまで四十分くらいかかっていた。
「じゃあ」
女がビニール袋を持って速足で歩いて行って、すぐそこの角を曲がった。たしかに家々は古そうであった。数軒は空き家がそのままにされているだろう。女が何を基準に家を選び、焼くのか、あたりの民家を眺めながら考えた。
雲はまだ空に残っているから暗かった。月明かりの落ちない駐車場の一角は闇に溶けて物音一つない不気味さがあった。私自身も闇の中にいた。
女はすぐに角を曲がって帰ってきた。
「帰ろう」とビニール袋を持ったまま運転席に座った。車はまた静かに動き出し、もと来た道を引き返した。車は往きよりも心持ち速かった。
「私の友だちとも会いましたか?」私は脈絡なしに話しかけた。
「どんな友だち?」
「あなたに夢で会ったことがあると尋ねてきた人です」
女は市街に入る手前の信号で停まると何が見えるのかしきりにバック・ミラーやサイド・ミラーで後方を見ていた。
「そんな人いくらでもいるよ。みんな私と夢で会っているから」
「みんな?」
「そう、みんな」
「たくさんいるんですか?」
「うん。だから、佐田さんもそのうちの一人だよ」
「わざわざ車で連れまわした人は今までいなかったけれど」と女は笑った。
燃えゆく家を眺めもせず、車は私の家の前で停車した。
雲足は速くもう月が見えていた。星もいくばくか光って見えた。我々はほとんどの時間を移動に費やしていた。
「次はいつ会うだろうね」と女が助手席から下りる私の背中に話しかけた。
「今回は、やっぱり性急すぎた。全然燃えなかった」
ボヤ騒ぎにもならないと女はため息をついた。それからまた白いミニ・ワン・セブンは薄暗い外灯のともる道を静かに去った。
私も、友人も、それきり女には会わなかった。
では、女はどこに行ったのだろう? 別に放火の疑いで逮捕されたというニュースにあの女の名前は出てこない。けれど放火の罪は(どこの国であれ)重くひどいもので、極刑が宣告されることもある。火をつけるとき、逃げ出すとき、ある種の痕跡はそこに残存するだろうし、科学的には簡単に消せないものすらあるだろう。それでなくても人の目につけば明らかに怪しいのだから、いつかは罪が露見する日が来る。たぶん。けれども女は芝刈りのアルバイトをしていた善良な人であったし、私を二度も助けたことは事実だ。それに彼女なら、と私は思う、工程のひとつひとつを褒めていけるような非の打ちどころがないつけ火をするかもしれない。
私は脳裡にある光景をじっと見た。夜の闇のなかで空き家が燃えている。木粉が火にはぜる。水の流れるような火の熱の流れが漂う。ところどころが崩れ始める。そしてとうとう家全体に火が回る。そこだけが煌々と光る。
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