とき・あめ・せみ  作・平田貞彦

暗い部屋に一人の男がいます。電灯の点いていない部屋で唯一明るく光るノートパソコンの画面を見つめながら、椅子にもたれかかって身動き一つしていません。外では雨粒が騒ぎ立て、人々が右往左往しているというのに、この男は何をしているのでしょうか。そう、何もしていないんです。


 別に命にかかわるなにかに襲われているわけではありません。ただ、せねばならぬことをして、やりたいことをしたら、これ以上何もできぬほどの無気力がやってきただけのことです。あ、昼ご飯を抜いたのもよくなかったのかもね。魂が抜けていきそうなほど口を開いてぼぉっとしていても、お腹は自動的に空いていくのです、残念ながら。重ねて、胃の鳴らす警告音に彼がまったく反応していないのも残念なことです。生物として、己の身体からぐぅぅうと異音が発せられたときぐらい危機感を持ったほうがいいですよ。


 男が無気力に苛まれ、まったく動いていないということは、目の前のノートパソコンもやはりまったく動いていないということで、そのうち眠りについてしまいました。たった一つの光源を失った部屋は、ほんとうのくらやみに呑み込まれてしまいました。


 そこで、男がようやく動き始めました。無気力から立ち直ったのでしょうか。いいえ、ついに己の空腹に気が付いたのです。腹のいななきが、痛みに変わったことが功を奏しました。いい加減動かねばならぬことに気づいた男は、緩慢な動きで立ち上がり、そして一瞬にして座り込んでしまいました。今、彼の頭の中では、己が何をしようとしたのかを再確認しているに違いありません。飢餓への危機感で立ち上がったものの、何を恐れていたのか、立ち上がった衝撃でその対象が頭から吹き飛んでしまったのです。


 しばしの停止のあと、再び男が立ち上がりました。椅子の背もたれに掛けていた上着を引きはがして羽織ると、空き缶とペットボトルに占拠された机から財布と家の鍵を探り当てようとしています。それに対して、怠惰の象徴と化した机上の残骸は、家主の外出を妨害するバリケードとして働いています。因果応報とはこのことですね。男の手が触れたペットボトルが机から転がり落ちると、コーヒーの空き缶が二、三本、後に続きます。男は、ペットボトルを拾い上げ、机に戻したところで一旦動きを止めました。そして、落ちたコーヒーの缶をちらっと見て、そして目当てのものの捜索に戻ってしまいました。おそらく、缶を戻したところで雪崩の危険が高まるだけだと、それならば床に安置するのが得策だと判断したのでしょう。その思考の裏には、やるべきタスクを増やしたくない、後回しにしたいという魂胆が見え隠れしています。そもそも暗闇の中で探し物をすること自体が間違っているのに。


 ようやくそのことに気づいたのか、電灯のスイッチがある方に歩き出そうとして、足元のダンボール、その開いた蓋にスネを引っかけました。転ばないまでもバランスを崩した彼の顔はとても不満気ですが、そこにダンボールを置いたのは他でもない彼なのです。


 気を取り直して電灯を点けた彼は再び財布と鍵を探し始めました。明るいおかげですぐに見つかりますね。最初から点けておくべきだったと、後悔しているに違いありません。財布と鍵を上着のポケットにしまうその動作から、えもいわれぬ哀愁が滲み出ています。


 さっき点けたばかりの電灯をもう一度消して、ようやく彼は外に出ました。靴下ぐらい履けばいいものを、裸足で出かけようとするのは、雨で濡れるぐらいなら履かない方が幾分かマシだろうという彼なりの思慮の結果でしょうが、長靴を用意しないあたりが彼の無気力の厄介さを示していますね。手にしたビニール傘は骨が一本折れていますが、彼は気にも留めていないようで。いや、気にはしているようです。そんなに開きづらいのなら、買うなり直すなりすればよいのに。


 雨の勢いは部屋に居た頃から変わりなく、むしろ激しさを増しているようです。傘の端からしたたり落ちた雨粒が男の靴を濡らします。しばらく歩くだけで、靴の色が変わるほどの湿り気が。心なしか、男の眉の端が少し下がって見えます。


子どもの頃は服が濡れるのもかまわずに雨の中を駆けまわっていたというのに、今は靴の染み一つで機嫌を損ねてしまうのは一体どうしてなのでしょうか。きっと、小さなつまずきが、たとえば空き缶を机から落としたり、ダンボールにつまずいたり、傘の骨が折れていたり、そういった、一つ一つは取るに足らない小さなつまずきがいくつも降りかかった結果、すっかり彼の色が変わってしまったに違いありません。


歩いていた男が、ふと立ち止まりました。男の周りに動くものは、風に揺れる木々と降りしきる雨粒のみです。いや、もう一つ、動くものが男の目の前にあります。歩道のど真ん中、路面を動く小さな影、目を凝らしてそれを見る男の視線の先にあるのは、セミでした。


セミ、夏によく見かける、木に止まって鳴きわめいては小便をひっかけてくる、あのセミです。茶色と黒、ということはアブラゼミでしょうか。こんな大雨の日にどうして、いや大雨の日だからこそ、空から飛来する大質量の襲撃をしのげる、安全な場所を求めて地べたを這っているのでしょう。その小さな身体に、いくつもの雨粒が天から降った勢いそのまま叩きつけられています。だというのに、セミは歩くのを止めません。その細い脚で、濡れて黒光りする大地をがっしりと掴み、裸一貫で歩を進める姿を、男の目線がじっと捉えています。動いているのは、セミと男の目線のみ。雨粒が落ちる音だけが、辺りに響いています。


ふと男が顔を上げました。空腹な自分を思い出したのか、雨の中で立ち止まる自らの奇妙さに気付いたのか、ちらちら辺りを見回して、目の前のセミを踏まぬよう歩き始めました。昆虫観察を終えた男の足取りは軽やかです。逆境の中で抗うセミを見て、彼は何を思っていたでしょうか。それはわかりませんが、しかし彼の表情は、ここ数時間で最も、マシなように見えます。暗がりで死んでるのか生きてるのかわからない顔よりはよろしいと感じられるものですね。


靴はびしょびしょ、腹は空きっぱなしですが、雨の勢いだけは落ち着いてきました。いずれ晴れるでしょう。ご飯を買い終えた男が部屋に戻り、落ちたコーヒー缶をゴミ袋に突っ込むまで、あと三十分。

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