第28話 追憶
ラドルファスが生まれたのは、山間の村落だった。谷と深い森に囲まれた村は美しかったが、同時に特有の閉塞感が漂ってもいた。とはいえ、少年は夜狩りの父と優しい母を持ち、何不自由ない生活を送っていた。──しかし、まだ幼く、そして特別好奇心旺盛なラドルファスにとって、その生活は少々刺激が不足していた。
「ブランストーンさん! 大変だ、【夜】が……!」
少し小高くなった土地に位置するラドルファスの家に、血相を変えて飛び込んできたのは見知った顔だった。よく少年の遊び相手になってくれる、狩人のバークスだ。薬師の母親を手伝っていたラドルファスは、喜んで彼に駆け寄ろうとしたが、なんだかいつもと雰囲気が違う。
二人を微笑ましく見守りながら道具の手入れをしていた父が、厳しい顔つきで立ち上がる。
「すぐに行く。場所は?」
「ああ、ちょうど祭壇の反対側で……森に入ったアングレイが逃げ帰ってきたんだよ! もうちょっとで食われるところだったって……」
「落ち着いてくれ、 一匹なら大丈夫だ。それより、みんなに外に絶対に出ないように言ってくれ。んだぞ」
不安そうに父を見ていたバークスは、頷くと同時に走って家を出て行った。少年は残念そうにそれを見送ったが、すでに関心は身支度を整える父親に移っていた。
「父さん、【夜】を倒しに行くんだよね!? 僕も行きたい! 僕もあいつらをやっつけるんだ!」
母親がぎょっとしてラドルファスを見やるが、サイラスはそっと少年の頭を撫でた。
「ラド、おまえはまだ夜狩りじゃないだろう? 一番簡単な暁ノ法の練習を始めたばっかりじゃないか」
「でも……」
「焦らなくてもいい。きっとおまえは父さんより立派な夜狩りになれるさ。そのためにも、今は家にいてくれ。ラドなら母さんを守れるよな?」
優しい声音だった。ラドルファスはしっかりと頷く。
「うん。イルザ母さんのことは僕に任せて」
「ありがとう。行ってくるよ」
サイラスが去ると、日没後の村は奇妙な静寂に包まれた。ラドルファスの家だけではない、村全体が住居の扉を固く閉じ、息をひそめているのだ。【夜】は灯火には近づけないが、この村の灯火はたったのひとつ、その炎の源たる核の残量もわずかだ。
快活なラドルファスも不安になり、窓の外を恐る恐る覗く。外に誰もいないことを除けば、その様子はいつもと何ら変わりない。
しかし、不意に視界にちらりと黒いものが映った。四足の狼に似た獣は、黒霞をその身体にまとっている。【夜】だ、と思う間もなく、獣は一番近くの家に体当たりを始めた。粗末な作りの建物はぐらりと揺れ、ラドルファスはその絶望的な光景に居ても立っても居られなくなる。
「母さん、【夜】だ!」
「そんな、一匹だけじゃなかったなんて……!」
イルザは恐怖の声を上げたが、反対に両腕で息子の身体をしっかり抱きしめた。
「駄目よラド。行かないで」
「だって母さん……! コレットさんたちを見捨てるの?」
母親はぐっと息を詰めたが、それでもラドルファスを離そうとはしなかった。少年の視界の端に、【夜】が二度目の体当たりで家を揺らすのが見えた。
「母さん、ごめん!」
お守り代わりに少年が首から下げた、朝露石がかすかに光った。同時に閃光が散り、驚きに一瞬イルザの力が緩む。ラドルファスはその隙に腕を抜け出し、勢いよく扉を開け放った。
「ラド! ラド、お願い戻ってきて!」
六歳の少年ゆえの正義感とするにはやや歪つだった。しかしその全能感は幼さ特有のものだ。同時に、暁ノ法を使える人間はもはやラドルファスしかいないこともまた事実だった。
「灯せ炎、百七十の門よ!」
何十回練習しても上手くいかなかった「ティンダー」は、これ以上ないほど完璧に発現した。獣に直撃した炎はごく小さいが、それでも暁の力を秘めていることに違いない。邪魔をされた【夜】は怒りに唸り、ラドルファスを睨みつけた。
その赤い目、向けられた憎悪に少年は怯む。初冬の夜は刺すような冷気が覆っているのに、ラドルファスの背中にはそれと分かるほどに冷汗が滲んでいた。
(だめだ……! 怖がってちゃだめだ。僕は父さんみたいな夜狩りにならなくちゃいけないんだ……!)
ラドルファスは精一杯の勇気を振り絞り、震える足で【夜】を見返した。
六歳の少年にしては褒められるべき勇気だった。しかし、ラドルファスには分かっていなかった。──朝露石の中には大した
「灯せ炎、百七十の門よ!」
再び唱えた詞は、もはやラドルファスの意のままにはならなかった。開きかけた門は搔き消え、何度試みても炎は現れない。
「灯せ炎! なんで、どうして……っ!」
暁ノ法が不発だと見るや、【夜】は猛然と少年に飛び掛かった。恐怖で足の固まったラドルファスは、思わず目を瞑って──
するどく、澄んだ風を切る音がした。
はっとしてラドルファスが目を開くと、宙を駆けた短槍が、【夜】を地面に縫い留めるところだった。獣は悲鳴をあげてもがくが、あらゆる武器を弾くはずの黒霞は意味をなさない。短槍の先端は、朝焼けの色を宿していた。
「間に合ってよかった……きみ、ラドルファスくん、だよね。怪我はない?」
年若い青年が手を差し伸べる。ラドルファスは知らず息を呑んだ。
ヒーローだ、と思った。おとぎ話に出てくる
サーベラス・マルドゥーク。ラドルファスが憧れてやまない幼馴染との出会いは、これが始まりだった。
◇◇◇
どうして気づかなかったのだろう。ラドルファスが目を覚まして第一に思ったのはそれだった。
あの赤銅色の瞳に覚えがあったのは当然のことだ。六年間も隣で見続けた色なのだから。それでもラドルファスが気づけなかったのは、あまりにも雰囲気が変容していたからだった。すべてを憎むような眼差しと、あの笑み。ようやくこの時が来たと、暗い歓喜と狂気に満ちた形相で、彼はラドルファスが落ちていくのを嗤っていたのだ。
黒フードの男は、ラドルファスの幼馴染だ。
頭を金槌で殴打されるような、あるいは内臓が搔き回されるような衝撃だった。
──どうして彼が。
それしか考えられず、ラドルファスの脳はまともに状況を理解してくれない。全身の激しい痛みと吐き気、頭痛でくらくらする頭に、包帯が巻かれていることに気が付く。我に返ると同時に、寝かされているベッドの右にある扉が開く。
「やっと目が覚めたのか。もう少しで外に捨てるところだったぞ」
涼やかな声で辛辣な言葉を吐いたのは、ラドルファスと同世代と思われる青年だった。抜けるような藍色の髪で片目が隠れた青年は、やれやれと言いたげに鼻を鳴らす。
「で、お前はどうして空から降ってきた?」
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