第3話 暁ノ法


【夜】が苛立たしげに吠え、片翼から身体を包む黒霞が放射される。【夜】に普通の武器が通らない理由はこの黒霞だ。ラドルファスはそれを意に介さず、サフィラに手を差し出すよう促した。従った少女の手を握り、いちばん最初に教わった詞を口にする。


すべての盟約の始祖よアルヴィム・ヴィスいま我らの血を結び、光明の祝福を与えよエーテル・エル・ミトラース


 瞬間、握った手が猛烈な熱さを帯びた。咄嗟に手を放したくなるほどの灼熱が、手のひらから腕に伝わり、身体中に浸透していく。サフィラも同じ熱を感じているらしく、手が強張っている。同時に、熱の中心点から火花のように光が散り、【夜】が悲鳴を上げて後ずさった。


 ラドルファスは思わず目を見張る。幻視した光は徐々に現実へと侵食し始め、二人の手首の周りを腕輪のように取り巻いた。まるで暁ノ法で別の世の理をこちら側に具現化する時のように、神秘的な光はやがて身体に吸い込まれて消えていった。夜闇の静けさに目を細めながら、ラドルファスは手首を見つめた。月桂冠に似た美しい紋様が刻まれたそれは、血の盟約ミトラースの証だ。


 血の盟約ミトラースは夜狩りと【影】の契約であり、夜狩りは契約相手の法力エンシェントにアクセスできるように、【影】は自分の法力エンシェントをより操れるようになる。


 しかし、血の盟約ミトラースを結ぶものは少ない。それは夜狩りも【影】も、この契約が自らのすべてを明け渡すことだと知っているからである。そして、一度契約を結べばどんな方法でも解消することはできない──死を除いて。


 サフィラも手首にしばらく視線を落としていたが、やがてラドルファスに向かって頷いた。法力回路エンシェント・パスにアクセスしたラドルファスは、そのあまりの力の奔流に知らず歯を食いしばっていた。骨まで軋むような冷たさが、身体の隅々まで突き抜けていく感覚。


 今までこれほどの法力エンシェントに触れたことはない。朝露石ですら、サフィラの力には到底及ばないだろう。異常。その言葉が頭に浮かぶと同時に、ラドルファスは【夜】に向かって駆け出していた。


 今までにない疾さで一対の短剣が軌跡を描く。──サフィラの法力エンシェントに触れてから、周りの景色が減速されたように感じる。キィィ! と耳障りな音と共に短剣は弾き返されたが、逃げ回ってばかりの獲物の反撃に驚いた【夜】はついに体勢を崩した。ラドルファスはすかさず暁ノ法を喚ぶ。


「叫べ風の狂槌! 三十五の門よ!」


 ことば法力エンシェントにより猛風が喚び出され、【夜】の一つ目の頭に直撃した。暁ノ攻法「スレイプニル」。莫大な法力エンシェントを使用した一撃は、朝露石を使っていた頃とは比べ物にならない威力だ。【夜】の頭がひしゃげ、黒い霧のようなものが辺りに散乱する。明確な苦痛の呻き声を上げた【夜】は、よろよろと距離を取ろうとした。あれは再生まで時間がかかるはずだ。


(もっと……もっと速く……!)


「駆けろ疾風の大鷲、六十六の門よ!」


 暁ノ呪法「ラピッド・ウイング」の効果で、ぐん、と身体が加速する。未だかつて至ったことのない圧倒的な速さ。肉が軋むのを感じるが、そんなことは関係ない。もっと速くなれる。風すらも追い越す境地へ!


 ラドルファスの一対の短剣が、舞うように宙を駆け抜ける。夜闇を切り裂く眩い切っ先が、無数の軌道を作り出す。七本の尾は瞬く間に四本になり、中央の頭が原型を残さずに闇に溶けた。


 【夜】は聞くに耐えない奇声を上げて暴れ回る。ここまで追い込んだのにも関わらず、核はまだ見当たらない。しかし、どこかに必ずあるはずだ。探して破壊する他に道はない。暁ノ法を教えて貰えなかったラドルファスには、殺す方法はそれしかないのだ。最後の頭の中に核があるかもしれない。刃が向いた瞬間、唐突に身体が硬直する。


 視界の端に、ぎらぎらと敵意の炎を燃やす目が写った。魔眼だ。先程切り落としたしたばかりの中央の頭が再生している。が、尾や翼はそのままだ。


(……そうか! 中央の頭に再生力を集中させて……!)


 動け、と脳が焼き切れるほどに命令するが、固まった身体はぴくりとも動いてくれない。今度こそ命を狩り取ろうと、残りの四本の尾が鋭く向かってくる。後ろでサフィラが叫ぶ。だが二回目は通用しない。巨蛇はよろめきもせず、ラドルファスは喉元に死が迫るのを見ているしかない。


 例え死ぬとしても、残りの数秒で【夜】を殺す。ラドルファスがそう覚悟を固めた刹那──


夜明けデイブレイク


 転瞬。朝の光が、万象を灼き尽くした。


 何かを思考する間もなく、視界が暁光に染まる。いっそ暴力的なまでの光は夜も闇も吹き飛ばし、断末魔さえ許されることなく、【夜】は朝の光に飲み込まれて消えていく。地面に自分の身体が落下するまで、ラドルファスは舞い降りた朝に目を奪われていた。


 やがて、少し薄くなりつつある闇が光を薄れさせていくと、ようやく周りが見えるようになった。サフィラが駆け寄ってくるのが分かるが、ラドルファスは、目の前に立つ人物に完全に気圧されて立てなかった。


 星明かりを編んだような長い銀の髪に、静かに獲物へと近づく豹のごとくしなやかな体躯、肩には黒い小竜が止まっている。加えて鋭く切れ長な翠の瞳。数瞬の間、男だと気づけなかったくらいのうつくしさだ。


「おい、そこのお前。『それ』はなんだ?」


「それ」が後ろで恐怖に縮こまっているサフィラを指しているのだと、一瞬遅れて理解した瞬間、先程の印象も忘れるほどの怒りがこみ上げてくる。


「……サフィラがどうかしたのか」


 溢れ出たのは敵意さえ滲むようなぶっきらぼうな言葉で、案の定目の前の男は顔を顰めた。


「お前、どうしてこの時間に夜が現れやがったのか理解してないのか? そいつが誘蛾灯になってんだよ。自分の物の管理もまともに出来ねぇのか……」


「……っ、サフィラは物じゃない!」


 少し前に滲み出た憤りを遥かに凌駕する勢いで怒りが押し寄せ、ラドルファスは思わず男に掴みかかろうとした​──が、あっさりといなされて逆に地面に転がされる。あまりに鮮やかな手際に抵抗の余地すらなかった。


「彼我の実力差すら悟れないとは、どうやら頭も弱いらしいな。どうする? 俺としては、ここに馬鹿の死体を二つ生産してもいいんだが?」


 最大限の侮辱に腸が煮えくり返るような心地を覚えるが、男の言う通り、実力の差は圧倒的だ。ラドルファスとサフィラは、次の瞬間に死体になっていてもおかしくない。


「……すみませんでした」


「ま、いいだろう」


 男は存外あっさりとラドルファスを放した。


「とにかく、そいつの法力エンシェントを何とかできなけりゃ、わんさか【夜】が集まってくるぞ。まあ、俺は仕事が増えるから良いがね」


 そう言い残すと、男はくるりと背を向けて去っていこうとする。しかし、ラドルファスは夜狩りとしてはまだ未熟な身だ。当然サフィラの法力エンシェントを封じる方法など知らない。では彼女を殺すかといえば、論外だ。かといって、このままでは一般人に被害が出るかもしれない​。ラドルファスの実力では、次二体以上の【夜】が襲ってくれば耐えられない──


 そこまで考えて思い至る。自分が苦戦した夜を一撃で葬り去った男の実力を。この力ならば第二階級セーデは確定だろう。あるいは、第一階級シビュラに至っているかもしれない。サフィラの力を抑える方法だって知っているのではないか。


「待ってく……ださい!」


 待ってくれ、と言いかけて慌てて変更する。また男の機嫌を損ねては大変だ。言ってから、この男は人の言うことを聞くのかという不安が今更ながらやってくる。が、意外にも男は足を止める。彼が振り返った瞬間、ラドルファスは深く頭を下げた。後ろのサフィラから驚愕の気配が伝わってくる。


「俺をあなたの弟子にしてくれませんか!」


「はァ?」


 男は流石に少し面食らったようで、僅かに考える素振りを見せた。


「なぜ俺がそんな事をしなきゃならねえんだ? 大体、俺はもう弟子を取らないって決めてんだよ」


 そのまま歩いていこうとする。何とかして引き止めなくてはと思うが、咄嗟に言葉が見つからない。そんなラドルファスを救ったのは、男の肩に止まる小竜だった。恐らく宵喰だろう。


【夜】が帝国に現れてしばらく経った頃、徐々に既知の生物に変化が生じ始めた。中にはこれまでの法則に当てはまらない、異常な姿を持つ生物もいた。それらは総合して宵喰と呼ばれ、時に人を襲うこともあったが、夜狩りの助けになることもあった。彼らは【夜】の影響か、法力エンシェントを宿していたのだ。人間のような知能を持つまでに進化した宵喰も存在するという。


『まあまあスライ、この子結構ガッツあるじゃん。ちょっと試すくらいはしてあげてもいいんじゃない?』


 小竜が流暢に人の言葉を操ったことに驚いていると、シルヴェスターは見るからにうんざりといった表情を浮かべた。


「ランディ、俺になんのメリットがある?」


『その子を置いとくだけで【夜】狩り放題だよ? それに……ほら、君の「あれ」の解決にも役立つんと思うんだけどなー』


「…………」


 男は不機嫌そうにしながらも、一応考えているらしく黙りこんだ。が、すぐに人を食った笑みを浮かべる。


「……二週間だ。お前が俺の弟子にふさわしいかどうか判断する。素質がないと思ったらすぐに出ていってもらう。それでもよけりゃついてこい」


 反射的によろしくお願いします、と言いかけて、ラドルファスはまだ名乗っていないことに気づいた。案外すんなりと事が進んだことにまだ現実味を感じられない。


(なんだかんだ言って助けてくれたし、ちょっと……いや大分口は悪いけど、意外といい人なのかもな)


「俺はラドルファス・ブランストーン、後ろのはサフィラです! よろしくお願いします!」


「……シルヴェスター・ヴァレンシュタインだ。九分九厘一週間後まで持たないだろうが、精々頑張りな」


 ​──瞬きの間に、ラドルファスは思考を撤回したくなった。これが幸運なチャンスであることには間違いないが、苦労の予感がする。隣のサフィラを見ると、彼女は状況についていけていないのか気の抜けた表情をしていた。


「サフィラ、悪い。勝手に事を進めて……」


「大丈夫。わたしは何があってもラドについていくから」


 【影】の少女は事も無げに言ったが、それを耳にしたラドルファスは余計に責任を意識した。自分の行動の結果が返ってくるのは構わないが、それにサフィラまで巻き込むわけにはいかない。


「おい、さっさと行くぞ。夜も明ける」


 思案に耽りかけていた青年を、シルヴェスターの声が現実に引き戻した。空を見ると、彼の言う通り太陽の光が漏れ出している。未だに現実感が湧かないまま、ラドルファスは森を抜けるべく歩き出した。



 ◇◇◇



「シルヴェスターァァァァ!!」


 玄関扉が勢いよく開かれる。嫌になるほどの雲ひとつない蒼天に、青年の憤怒の叫びが轟いた。庭の訓練設備を点検していた銀髪の夜狩りは、やや顔を顰めて振り返る。


「うるせェな……近所迷惑だろうが。真昼間だぞ?」


「なにが近所迷惑だ!! そもそも周りにろくな家なんてねえよ! どうしてくれるんだよこれ!!」


「はァ? お前、まさか……」


 かったるそうに歩いてきたシルヴェスターは、ラドルファスの姿を見るなり一時停止した。それも当然だろう。


 ラドルファスは、発光していた。


 体内から蛍のように白い光が漏れ出しており、直視すると眩しいほどだ。しかし仮にもシルヴェスターは第一階級シビュラの夜狩り、どんなに有り得ない物を見たとしても、体勢を立て直すのは素早いのだ。彼は満を持して​──大爆笑し始めた。


「笑うなこの野郎! お前の所為だろうがッ!」


「いや……まさか、っ、はは」


「笑いを堪えるんじゃねえ!! また嘘つきやがったなシルヴェスター!!」


 ラドルファスが彼に騙された回数は、もはや数えるのを諦めるほどだった。今日は夜闇の中でも視界を確保する暗視薬を作るため、薬草を調合する課題を出されたのだが……


「引っかかる方が悪いだろ。本当に【夜】用の閃光剤を飲む馬鹿がいるとは思わなかった……内容物で人が飲むもんじゃないって分かるはずなんだがなぁ」


「うっ……」


 そう言われると、ラドルファスは反論できない。父親に教わったのは戦闘に関するものばかりで、どうしても知識の絶対量が不足しているのだ。


「じゃあ、これ何とかしてくれよ」


「嫌だね」


「騙されたのは俺が悪かったとしても、お前だって嘘を吐いただろ!?」


「そうだな.......なら、俺に一発でも暁ノ法を当てられたら考えてやろう」


「上等だこのクソ師匠!!」




 頭に響く冷たさで目が覚めた。慌てて起き上がると、ラドルファスの顔に水をぶちまけたシルヴェスターが、呆れたような目でこちらを睥睨していた。


「いつまで寝てる? 大言壮語の割には大したことないな」


 いちいち鼻につく物言いだが、文句は言えない。シルヴェスターは夜狩りが所属する連合において、最高位である第一階級シビュラのひとり。たったの四人しか存在しない第一階級シビュラは、第二階級セーデ以下とは比較にならない戦闘力を誇る。ラドルファスにとっては雲の上の存在だ。


 そんな夜狩りに師事できたというだけで、一生分の幸運を使い果たしたと言っても過言ではないのだ。誰かの弟子になったのはこれで二回目だが。


 彼の言葉には答えず、ラドルファスは無言で立ち上がった。結局、訓練の間に光は徐々に薄れ、今ではラドルファスの身体は正常な状態に戻っていた。まあ、戻るまでに散々笑われたのだが。


「まだ行けるな?」


 彼はすい、と指をこちらに向けた。反復と痛みで身体に刷り込まれたのか、考える前に口が動く。


「護れ​──」


「穿て」


 こちらの暁ノ護法が成立する前に、シルヴェスターは事も無げに一言で門を開いた。真っ直ぐに伸びた光の線が、咄嗟に掲げた腕を強打する。


「ぐッ……!」


 今度は意地で踏ん張ったが、衝撃で息が詰まる。手加減しているのだろうが、未完成とはいえ護法がなければ、骨の一、二本は折れるだろう威力。吐き出された苦鳴に、後ろで法力エンシェントを供給するサフィラの動揺が伝わってくる。


 シルヴェスターの指導は言うまでもなく乱暴かつ求める水準が高く、格闘戦から数多の暁ノ法を記憶し使用することまで及んだ。法力エンシェントが底を尽きるまで狙撃をやらされた事もある。加えて、夜はひたすら実戦だ。お陰で進歩は感じるものの、生傷が絶えない。傷を案じてくれる彼女を説得するのには苦労した。


「遅い。あと五百回くらいはやらせてぇ所だが……夜の前に空になられても困るからな。ま、今日はこれで終わりだ」


 そう言い捨てると、彼は広い庭に背を向けて家の方に去っていく。ラドルファスは以前住んでいたあばら家を売り払い、彼の豪邸の一室を借りて暮らしている。何故かは分からないが、「弟子を取らない」と言っていたシルヴェスターの家には、訓練のための設備や、訓練場替わりに踏み慣らされた庭や、どう見ても彼の趣味ではない部屋が存在していた。


 腕に広がる鈍痛に顔を顰めていると、サフィラが駆け寄ってくる。


「ラド、大丈夫……?」


「……ああ、平気だ。それより、もう夕方になるし、買い出しに行かないとな」


「私も行く。途中で倒れないか心配」


 彼女はすぐにラドルファスの後をついて回りたがるが、不思議と不快ではなかった。完全に絆されている。


(やっぱり甘いのかもしれない……でも、こいつを放っておくことはできない)


「ほら、早く買い物に行かないとあいつに怒られるよ?」


「そうだな、行こう。外套を忘れるなよ」


 シルヴェスターの事を「あいつ」呼ばわりする謎の胆力に苦笑しつつも、サフィラなりの気遣いということは理解できたので大人しくついて行くことにする。中央階段を降りて庭に出ると、ちょうど正午を回ったところだった。


 サフィラが外套で角を隠す間、ラドルファスの目にふと芝生の焼け焦げた箇所が目に入った。前夜【夜】と戦った場所だ。王都の外周、セクト=フィラルハにあるシルヴェスターの家は、防壁にやってくる【夜】の一部を引き受けている。


 そういえば、とラドルファスは首を傾げた。シルヴェスターが脅した割には、特別【夜】は多くない。ラドルファス一人でもなんとか処理できる程度だ。


「お前、法力を制御できるようになったのか?」


「え? ううん……ごめんなさい」


「いや、別に責めてるわけじゃないんだ。ただ、思ったより【夜】が少ないよな。ここはわざと朝の灯火を少なくしてるから、本来はもっと多いはずなのに……」


 シルヴェスターに弟子入りしてから、夜間は戦闘用に広く作られた庭で戦っているが、【夜】は大した数ではない。以前なら手に余っただろう【夜】も発生するものの、指導によって精度の向上した暁ノ法の前では苦戦するほどではなかった。


「でも、あの家の近くにいる間は変な感じがする」


「そうなのか? 俺は何も感じないけど……」


「うん、なんだか……膜に覆われてるみたいな」


「膜……?」


 少し不思議に思いながらも、中心部の明かりが見えてきたので追求を止める。早く帰らないと、夜に間に合わない。夜狩りが防壁の中に入るのは簡単で、連合の紋章を見せれば憲兵に止められることもない。













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