第2話 夜の来訪

 今から何百年も昔、とある大帝国が存在した。帝国の民は古代から伝わる秘術を操り、強大な力を持っていた。わずかに残る記録によると、ひとたび彼らが秘術を振るえば、『大地は震え、海は燃え、見えぬものを現し、魂を移ろわせる』ことができたという。彼らは圧倒的な武力をもって周辺の王国を次々に併合し、勢力を増していった。


 しかし、その栄光は永くは続かなかった。ある日突然、【夜】が人々を襲ったためである。太陽が沈むと、何処からともなく彼らはやって来る。まさに夜闇から生まれ出でるように。それらは世にも冒涜的な、おぞましい姿形をしており、その時存在したどんな武器も意味を成さなかった。勇猛を誇った帝国軍はあっという間に壊滅し、人々は夜を逃げ惑った。しかし帝国に蹂躙された周辺国に戦う力が残っているはずもなく、どこにも安息の地などなかった。


 長い年月を掛けて​──わずかに生き残った人々は、【夜】を倒す方法を編み出す。暁ノ法。それは魂のエネルギー「法力エンシェント」を用い並立世界への門を開き、現象そのものを呼び出す力。


暁ノ法を頼りに【夜】を殺すものたちは、やがて夜狩りと呼ばれるようになる。夜狩りたちは【夜】が必ず体内に持つ核の欠片を売って生活し、人々はその欠片を「朝の灯火」に焚べて【夜】を退けていた。



「はぁ……」


 ラドルファスは疲労感に息を吐いた。今日も【夜】を狩り、城壁の外から帰ってきたのだ。ラドルファスの家は王都サン=ライティアの端っこに存在する。王都といえども灯火の燃料は不足しており、壁際には【夜】が出ることもある。夜狩りたちはそういった、灯火の不足しているところに住むのが普通である。実力と勇気のあるものは壁の外の、辺境の村に住んでひたすら【夜】を狩ることもあるようだが。


(それにしてもあいつをどうするかな……)


 ラドルファスのここ最近の悩みはただ一つであった。本来あまり悩まない質であるのだが、これだけは考えてもどうしようもなかった。お世辞にも立派とは言えない家の扉を開ける。


「あ……おかえり、なさい……?」


 ぱたぱたと駆けてきた色素の薄い金髪の少女​──サフィラがたどたどしく言う。ラドルファスに家族はいない。師もいない。もちろん伴侶どころか恋人すらいない。つまり、一人暮らしである。断じて過去形ではない。そこから導くに、この少女は疲れから見える幻覚。(それもどうかと思うが) そうに違いない。そうであってくれ、お願いだから。


 しかし現実は無情である。この少女は幻覚ではなく、残念ながら現実に存在している。そして、彼女を助けた日からは二日が経過していた。つまりラドルファスは、未だにサフィラを追い出せずにいるのだった。


(こいつを外に放り出すのは良心が痛むんだよな……)


 そんな事を考えつつ玄関で立ち尽くしていると、サフィラがこいつは何をやってるんだ、とばかりに首を傾げた。


「どうしたの……? どこか、痛いの?」


「……いや、なんでもない」


 とりあえず答えてから、家に上がる。ラドルファスの悩みとは、どのようにしてこの少女を家から追い出すか、という事だ。一日だけ、と言ったのは嘘ではない。【影】にはいい感情を持っていなかった。【影】自体が嫌いというよりは、【夜】が憎い。【夜】だけはこの世から滅殺してやる、と誓ってラドルファスは夜狩りになったのだ。とはいえ、彼らが何もしていないのも分かっている。だからサフィラを家から追い出せないのだ……


「これ、なに?」


 装備を外して机の上に置いておいたのだが、どうやら興味を持たれたらしい。手のひらほどの大きさの白い宝石のようなものだ。


「ああ、それは朝露石だ。人間は法力エンシェントを持ってないからな。【夜】と戦うならそれを使うか、宵喰か【影】に力を借りるしかない」


「えんしぇんと……」


 サフィラは不思議そうに呟いた。それと時を同じくして、彼女の腹からくぅ、と可愛らしい音がする。


「おなかすいた……」


 どこまでも自由な【影】の少女に呆れながらも、ラドルファスはなにか作ってやることにした。大したものは作れないが。


「サフィラ、悪いが後ろの扉を開けてくれるか?」


 ついでに装備を片付けようと机の上から取り上げて、ラドルファスは頼んだ。彼女が扉に一番近かったからであり、他意はない。が、サフィラは相変わらずラドルファスの予想の斜め上を行っていた。


「とびら……どうやって開けるの……?」


「は?」


 扉の開け方?当然取っ手を回して押すだけだ。ラドルファスの家にある扉などどこにでもある何の変哲もないものに過ぎない。もちろん、鍵など掛かっていない。


「わたし、閉じ込められてたところからほとんど外に出してもらえなかったから……」


 サフィラは責められたと思ったのか、そう言うと俯いた。その言葉の意味が分からないほど馬鹿ではない。【影】は【夜】に影響を受けて生まれてきた、【夜】の特徴と法力エンシェントを持つものたちである。【夜】に恨みを持つ人間は、当然彼らを排斥した。


 それだけではない。朝の灯火に【影】を捧げると、核と同じく燃料になる。都市ではあまりないが、辺境の村々では生まれた瞬間に彼らを檻に閉じ込め、十分に成長したら燃料にするという行為も少なくない。


「サフィラ」


 【影】の少女はびくりと肩を震わせると、上目遣いでラドルファスを見た。その瞳には怯えたような色が確実に宿っている。


(こいつは今まで、こういう小さくて下らないことで難癖をつけられて、殴られ、蹴られ、傷つけられてきたんだろうな……)


 そう思った瞬間、なにか得体の知れない感情がじわりと広がるのをラドルファスは感じた。憐れみと言うには優しく、愛と言うには柔らかい、名前の付けられない感情が。


「出来ない事があるのは仕方がない。おまえは今自由なんだから、少しずつ覚えていけばいいじゃないか」


 普段なら絶対に言わないような、優しい言葉がこぼれ落ちた。自分で言ったのにも関わらず目を白黒させているラドルファスの前で、少女は驚いたような顔をした。そんな事を言われるとは夢にも思っていなかったらしい。しかし、こういう時に伝えるべき言葉を、彼女はもう知っている。


「……ありがとう」


 彼女はそう言って穏やかに微笑んだ​──サフィラの笑顔は、初めて見たかもしれなかった。それは人間となんら変わることのない、木漏れ日のような美しさだった。


「サフィラ……」


 ラドルファスは何かを口に出そうとしたが、頭の中は真っ白だった。伝えたいことがあったのかもしれないし、あるいはただ名前を呼びたくなっただけかもしれなかった。


 転瞬。


 外の闇に、動物が無理やり笑い声を上げたような、おぞましい叫び声が乱舞した。


「……!?」


 ラドルファスは、鈍器で殴られたかのような衝撃を受けて目を見開く。


(この音は……【夜】!?もう朝も近いっていうのに……どういうことだ?)


「サフィラ、ここから絶対に動くなよ、いいな?」


 彼女がこくりと頷くのを確認すると、装備を素早く身につけながら扉を開け放つ。瞬間、思わず一歩下がりたくなるような濃密な気配が、ラドルファスの全身を叩いた。夜闇を更に濃くしたような、そこだけ空間が切り取られたように光を反射しない黒。ねじ曲がった片翼。牙と嘴が生えた三つの頭。七本に分かれた尾が蛇そっくりの胴体から伸びている。どんな生物にもあり得ない異形の姿だ。


 この怪物こそが【夜】である。


 ラドルファスは動揺のあまり息が乱れるのを感じた。街の外周部分……つまり灯火が薄い箇所とはいえ、この【夜】は滲み出る気配が強すぎる。


「なんだこいつ……今までこんな【夜】見たことが……」


 肌にぴりりと警告が走った。ラドルファスが家の反対方向に跳躍した刹那、【夜】の尾がいきなり二倍以上に伸び、先程までラドルファスがいた場所を強襲する。上がる土煙の中、尾は鋭くこちらを追尾してきた。ラドルファスは腰から一対の短剣を抜くと、【夜】の尾の一本を切り落とした。


 闇の中に壮絶な叫び声が轟く。が、切断面からずる、と新たな闇が溢れ出して尾を再生していった。あっという間に無傷になった【夜】は、まるで怒っているかのように低く唸った。


 しかし、ラドルファスも再生の間、ぼうっとしていた訳ではない。地面を蹴って【夜】に肉薄し、短剣が頭を狙ってぎらりと輝く。


『穿て黒鋼、十六の門よ!』


 ことばを叫ぶと同時に短剣に嵌められた朝露石が砕けるのを感じる。成立するのは暁ノ呪法「キーン・クロウ」。夜を狩るために必要な「暁ノ法」の一つであり、武器をこれ以上なく鋭い刃へと変化させる​──


 が、そう上手くはいかない。残りの二つの頭がみちみち、と音を立てて今まで存在しなかった目を作り出す。それに捉えられた瞬間、身体が石になったかのように動かなくなった。上位の【夜】が稀に持つ、魔眼だ。動けなくなったラドルファスの命を刈り取ろうと、七本の尾が凄まじい速度で伸び上がった。直後に動くようになった身体を必死に捻るが、


(くそ、間に合わない!)


 尾が触れる寸前、急に【夜】が苦しそうに身悶えした。尾は大きく狙いを逸れ、ラドルファスの身体を掠って地面に激突する。強い法力エンシェントを感じて思わず振り返ると​──


 そこには掌を【夜】に向けたサフィラが立っていた。


「ラドルファス!」


 少女の叫びで驚きから逃れたラドルファスは、【夜】から素早く距離を取った。追撃の気配はなく、巨蛇はおぞましい呻き声を上げている。


「どうして……いや、サフィラ、今のは……」


法力エンシェントの力……だと思う。わたしにもよく分からない。完全に思い通りになるわけじゃないし、操れるのもきっと本来と比べてとても弱い力」


 ありえない。という言葉をラドルファスは飲み込む。法力エンシェントは確かに【影】の中に宿っている。しかし、それを操れるのは「詞」を知っている人間だけなのだ。詞は人にしか口にできない。【影】が法力エンシェントを操作するなど、本来あるはずのないことだ。


 彼の動揺の間に、【夜】はよろよろと起き上がっていた。しかし先程と違って、赤い目でこちらを睨みながら様子を伺っている。サフィラの未知の力に警戒しているのだろう、と当たりをつけたラドルファスは、少女に向き直る。


「サフィラ! どうして……!」


 ラドルファスは助けられたことも忘れて叫んだ。【夜】は完全にサフィラを認識したようで、彼女に向かっておぞましい咆哮を上げる。魔眼が閉じられていようとも、その禍々しい気配への恐怖は容易に拭えるものではない。


サフィラの与えた僅かな傷も、瞬きの間に修復されている。だが、彼女は気丈にも【夜】を睨みつける。そんな行為に意味はないはずなのだが、【夜】はまるで怯んだように唸り、こちらの様子を伺っている。


「ラドルファス、私の力、使って」


「力……?」


法力えんしぇんと。私はたくさん持ってるんだと思う。あなたのために使いたい」


 そこでサフィラは、泳ぎでもしているかのように息を継いだ。夜のことも一瞬忘れて、思わず彼女の顔を見る​──【影】の少女は、瞳を静かに伏せた。今にも泣きそうな、子供の顔だった。


「……やっぱり【影】なんかの力、使いたくない?」


 彼女はそっと囁いた。その瞬間、ラドルファスには分かった。サフィラはきっと、今持てる最大の勇気を振り絞っている。散々に虐げ、あらゆる尊厳を踏みにじったであろう人間を、信じてくれている。今この瞬間だけは、ラドルファスを信じてくれているのだ。


「そんなわけ、ないだろ」


 頭の中から【影】に対する憎しみが抜け落ちていった。自分を精一杯信じているひとりの人間を、自分もまた信じるのだ。


「サフィラ、力を貸してくれないか」


 ぱちり、とサフィラは瞳を瞬かせた。しかし動揺は刹那、彼女は顔を綻ばせる。


「もちろん」







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