第一章 始源の暁

第1話 影の少女と夜を狩る者 *

「はぁ、はぁ……っ、」


 薄暗い街の路地を、ひとりの少女が息を弾ませながら駆けていた。何も履いていない足は既に傷だらけで、血が点々と地面に跡を残している。


 しかし、少女にはそんな事を気にしている余裕などなかった。


「くそ、何処に逃げやがったあの糞ガキっ! もう夕方になっちまうぞ!」


「おい、いたぞ、あっちだ!」


 その怒鳴り声を聞いて、少女は必死にスピードを上げた。身体のあちこちがひっきりなしに限界を訴えていて、足を止めて少しでも休みたかった。


 しかし、一度足を止めたが最後、再度走り出すのは不可能だろう。止まれば殺されることは確実だった。


 身体に鞭を打って走り続けるものの、無情にも背後から足音がいくつも迫ってくる。かなり近い。


「あっ……!」


 表の通りとは違って整備もされていない路地の悪路は、幼い少女の足には負担が大きかった。足音に気を取られた瞬間、無数に転がる石に躓いて体勢を崩す。


 このまま転倒すれば、男たちに追いつかれるのは間違いない。


 それを認識すると同時に、身体が勝手に動く。精一杯の速さで立ち上がりながら、手のひらを後ろに向けた。


 何か膨大なエネルギー​──法力エンシェントが身体の中を駆け巡るのを、少女は確かに感じる。


 瞬間、手から淡い光のようなものが放射され、男たちは突然よろめいた。


「うわッ!」


「なんだ!?」


 わずかな隙に体勢を立て直し、少女はなんとか命懸けの逃走劇を再開することができた。


 ことばを知らない少女には、法力エンシェントを扱うことなど不可能だ。ただ、純粋な力を放出してささやかな足止めをすることしかできないのだ。


 もっとも、それすら少女には奇跡でしかなかった。もう一度やれと言われても、十中八九無理に違いない。


(もしかしたら、逃げられるのかもしれない……っ!)


 少女は微かな希望を胸に灯した。このまま男たちを撒くことができれば​──そうでなくとも、「夜」になりされすれば、彼らも少女に構っている場合ではない。


 その期待は際限なく膨らんでいったが……奇跡はそう何度も起こらない。


 前提として、今まで街に出たことなどなかった少女は、ただ愚直に走り続けただけで、道など気にも止めていなかった。


「そんな……」


 目の前には分厚い城壁が聳えていた。無論、少女の人間離れした身体能力をもってしても飛び越えられる高さではない。


 まさに袋小路だが、少女に分かっていたのは、ついに終わりが来たというその一点のみであった。身体がひとりでに震えだす。それはすべてが無駄になってしまうという恐怖からだ。


 やっとのことで村から逃げ出してきたというのに──これほど簡単に終わってしまうのか。


「【影】ごときが手こずらせやがって……」


「夜に間に合わなかったらどうしてくれるんだ!」


 男たちが近づいてくるのを見て、幼い少女はあまりの恐怖にぎゅっと目を瞑った。


(せめて、痛くないといいな……)


 そうして、静かに死を受け入れようとした瞬間。


「おい、何やってる?」


 男たちの蔑みに濁った声とは異なる、澄んでいながらも厳しさを含んだ声がした。


「邪魔する​──」


「おい待て! そいつ、夜狩りだ……!」


 少女は恐る恐る目を開けた。なぜか酷くぼやける視界に、夜狩りと呼ばれたひとりの青年が映った。


 刹那、吸い寄せられるように目が合う。その血のように紅い瞳から目が離せない。


 反対に、青年は少女と目が合うなり眉をひそめた。


「……【影】か」


 その声を聞いた少女は怯えたように瞳を伏せる。青年の声と顔は嫌そうな雰囲気を醸し出していたが、こんなものはまだ優しい方だ。


 少女に手を上げる人間だって少なくない。現に少女の身体は痣だらけだし、なんなら切り傷や火傷の跡だって無数にある。


「そ、そうです夜狩り様! 俺たちは逃げた【影】を捕獲しようとしてただけで……」


 先程まで高圧的だった男は、今までに見たこともないへりくだった様子で青年に弁明した。


(悪い事をしたと思ってないなら、言い訳なんてしなければいいのに)


 赤い目の青年は黙り込んだままだ。それをいい事に、男たちは今度こそ少女の腕を乱暴に掴もうとした。が、後ろからまた声が投げられる。


「……これで足りるか?」


「へ? ……うわっ!?」


 振り返った男の内の一人に、重そうな袋が無造作に投げつけられる。袋の中からかちゃかちゃと何かが擦れ合う音が聞こえた。


 慌ててそれを受け止めた男は、怪訝そうにしながらも結び目を解いて中を見る。ちらりと見えた中身は、大きな水晶に似た数個の宝石のようなもの。


 少女と同じように中身を見た男が息を呑む。


「こ、これは……核!?」


「二ヶ月分はある。そいつを買うには足りないか?」


 その言葉を聞いた少女は目を見開いた。「核」が何かは分からないが、恐らく相当に貴重なものであるのだろう。


 それで何の価値もない自分を買うというのだ。一体何が目的なのか。男たちも同じことを思ったようだった。


「夜狩り様、それにそこまでの価値は──」


「質問に答えろ。足りるのか? 足りないのか?」


 夜狩りは苛立ちを滲ませて男の言葉を遮った。粗雑ではないが静かな威圧感に、所詮村の自警団に過ぎない男たちは怯んだようだった。


 すぐさま男の一人がもう一方に耳打ちする。流石というべきか、彼らは気圧されながらも損得勘定を働かせたらしい。


 少女はそれを卑しいとは思わなかった。そのくらいのことができなければすぐに死んでしまうのだから。


「じゅ、十分です! この【影】はどうぞお好きなようになさってください!」


「失礼しましたっ!」


 触らぬ神に祟りなしとばかりに彼らは足早に去っていったが、もはや少女の意識はそちらには全く向かなかった。この赤い瞳の夜狩りは、少女をどうしようというのか。   


(もしかしたら、おとなしく彼らに連れ戻された方が一思いに死ねたかも……)


 そんな恐ろしい考えまで沸き起こってきて、少女はただ審判を待つ罪人のように、震えながら青年の言葉を待つしかなかった。


 ◇◇◇


(やっちまった……)


 赤い瞳の青年​は頭を抱えたい気分だった。


(昔からこの性格はどうしようもないと分かってはいたが……まさか【影】まで助ける気になるとはな……)


 そう、目の前の少女は人間ではない。色素の薄い金の髪からは二本の捻くれた角が生え、耳は鳥の羽の様なもので覆われている。【夜】と人間の混じり物、【影】である。


【夜】への恨みは計り知れない。家族を、恋人を、故郷を奪われてきた人々の鬱憤は、人間とは違う存在である【影】に集中した。とはいえ、男たちの様子は少し異常に見える。


 目の前の少女に思考を戻す。青年はそれほど彼らを嫌ってはいない。父親の教育が大きかったのだろう、彼は行き場のない感情から他人で鬱憤晴らしをするような人ではなかった。


 しかし【夜】を深く憎んでいるという一点においては、彼は父親と違っている。


 ならば普通、【影】を助けることなどしないだろう──と思うのだが、見捨てることなどできはしない、と自分が一番よく分かっていた。絶対だ。


 あの日から、目の前の人を救うということは青年の中で絶対になってしまったから。

 

「あー……よし、これからお前は自由だ」


「……え?」


「別にお前が欲しくて買ったわけじゃない。俺の気が変わらないうちにさっさと何処かに行くんだな」


 計画性皆無である。少女を助けた後のことなど、青年は全く考えていなかった。彼女を助けることで頭が一杯だった。


 後悔はしていないが、軽率だったかもしれないという思いもある。


 なにせ、見ようによっては──というより完全に人身売買だ。しかし、少女は予想を遥かに超える言葉を発した。


「……じゃあ、あなたについていく」


「……は?」


「だって、行くところなんてないし……あいつらにみつかったら、殺される。それに夜に外を出歩いていたら、たべられちゃうから……」


 なるほど確かに、と納得しかけて、青年は慌ててその考えを振り払った。


「おい、冗談じゃないぞ! 嫌に決まってるだろうが!」


「じゃあ、どうしてわたしを助けたの?」


「それは……その、気まぐれで……」


「おねがい、します。わたし、わたし……死にたくない……っ」


 気づけば、少女はその紫の瞳から涙を零れさせていた。とっくに精神が限界を迎えていたのだろう。少女は必死に涙を拭うが、溢れ出てくる雫は止まる気配がない。


 泣きじゃくる少女を前にして、青年は流石に哀れみを感じ始めていた。どこから逃げてきたのか知らないが、護身能力もなさそうな少女が一人で生きていくのは難しいだろう。


「……一晩だけだぞ」


「ほ、ほんとに!?」


「本当に一晩だけだからな!」


 暗い表情だった少女は、一転してぱっと瞳を輝かせる。そのあまりの喜び様が気恥ずかしくて重ねて叫ぶと、目の前の【影】は迷うように瞳を揺らした。


 何度か口を開きかけて止めるのを繰り返す。青年が痺れを切らしそうになった頃、少女は覚悟を決めたように彼の赤い瞳を見つめた。


「……ぁ、ありがとう……」


「別に、大したことじゃない」


 その言葉はまるで一度も使ったことがないかのようにたどたどしく、しかし新雪のように輝いていた。


 微妙に絆されつつある自分を自覚し、青年はわざと乱暴に背を向ける。


 敏い人間でなくとも照れ隠しであることは一目瞭然だったが、まともに人と関わったことのない少女はそれに気づかない。


 そのまま歩き出そうとした青年は、ふと重要なことを思い出す。


「お前、名前は?」


「わたしはサフィラ。……あなたは?」


 やはり躊躇いがちの声に、数歩先を行く青年は振り返る。


「俺はラドルファス。ラドルファス・ブランストーンだ。よろしく、サフィラ」

















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 挿絵:https://kakuyomu.jp/users/holly52965/news/16817330667771912152

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