シュレーディンガーの下駄箱

平賀・仲田・香菜

シュレーディンガーの下駄箱

 シュレーディンガーの猫を知っているか? 量子力学の例え話で、愛くるしい猫を殺害する猟奇的な拷問とも解釈できる実験だ。

 あの例え話が何を意味するかを正確に百パーセントの理解ができているか、そう問われれば私も自信を持って首を縦には振れない。しかし「観測により状態が確定する」ということに私は奇妙な納得を覚えたのだ。

 逆を言えば「観測するまでは二つの事象が永遠に存在する」ということではないか。


 よって、私はここに、シュレーディンガーの下駄箱を提唱する。


 ──


「すまんがもう一度言ってくれ」

「ならばこれを読むがいい。来たるべき明日のバレンタインに向けて私が纏めた論文だ」


 そう言うと彼は、厚さ三センチはあろう紙の束を乱雑に投げ出した。僕たち二人以外は皆既に下校をした、冷たい西陽が差し込む教室にその音は響く。

 僕はそれを手に取り、適当にめくる。多世界解釈だとか観測問題だとか、読み方も知らないギリシャ文字を用いた式が所狭しと書き込まれている。内容に関しては理解が追いつかないというのが正直な感想だ。しかしこの論文は驚くべきことに、イラストや図形、文字やグラフに至るその全てが手書きで書かれている。彼が言いたいことは何一つ伝わってはこなかったが、彼の執念と怨念に関しては苦しいほどに伝わってくるのであった。

 来年は大学受験本番だというのにこの男は何をやっているのだ、そう呆れかけたその時、ふと最後のページで僕の手は止まった。そこには「シュレーディンガーの下駄箱」なる記述があった。

 バレンタイン当日、下駄箱を開くまではチョコレートが入っているかどうかは観測するまでわからない。ならば男子の誰もが下駄箱を開かなければ、女子の手作りチョコを貰うことができた自分が世界に誕生する。つまり、チョコを一つも貰えなかった悲しい人間も、幸福な未来の可能性を掴めるというのだ。


「これ、普段からモテている男子には得がないのではないか」

「馬鹿を言うな。人間は平等であるべきだ。これは幸福の再分配でもあるのだ」


 彼はふんふんと鼻を鳴らしながらそう言った。


「観測などしなくていい。お前もアイドルのライブ当選葉書が届かなくて辛い思いをしていたじゃないか。郵便ポストの観測などしなければ、当選した自分の存在が消えずにすんだというに。世の体重計もそうだ。太ったかもしれないと、そう思っても体重計に乗って結果を観測しなければ、不幸な現実と向き合うこともない」


 そうだろう、と彼は問いかけてきたが、僕はそれの応えに窮し、俯くことしかできなかった。


「お前ならわかってくれるかもと思いもしたが、まあ、それもいい」


 彼の目は充血し、真っ赤であった。この論文を仕上げるにあたり、睡眠を殆どとっていなかった様子が窺える。冬の寒さにやられたか、かさついた肌は粉を吹き、頬はこけてながらも赤かった。

 一抹の寂しさを帯びた笑みを浮かべた後、彼は僕の前から立ち去っていった。


 翌日。バレンタインデー当日の朝。クラスは大変に浮き足だっていた。交際していると公言している人間はもとより、独り身が板についてきたような輩までもが、この日ばかりは浮き足だっていた。

 僕はその様子をうかがいながら、彼が言っていたこともあながち間違いではないのかもしれないと思い始めていた。こんなにも多くの男どもがふわふわと気分を高揚させているのに、帰りの下駄箱を観測して尚、その調子を見せられる者は稀であろう。それならば期待を胸に抱いたまま、下駄箱の観測をしない方が幸せでいられるのかもしれない。


「おはよう」


 彼がしゃがれた声で僕に挨拶をした。教室の様子に軽蔑の目を向ける彼の心境は如何なるものか。ふと、僕は彼に違和感を覚えた。


 ──裸足である。


「おい、なぜ上靴を履かない」

「下駄箱を観測するべきではないからな」

「だからといって、それはどうなのだ」


 彼は僕の問いには応えず席についた。彼は机を抱え込むように居眠りを始め、放課後まで目を覚ますことは終ぞなかった。


 男どもの浮き足がそわそわとした気分に変わり始めたのと、就業の鐘が鳴り響いたのは殆ど同時であった。

 ある者は駆け足に教室から立ち去り、またある者は無為に教室で時間を潰している。それを見る女子の反応も冷ややかだ。

 しかし、学校の様子がおかしいことに僕は気付いた。例年ならば、喜びに打ち震える歓喜の雄叫びと悲しみに打ちひしがれる絶望の泣き声がハーモニーを奏でる時間であるはずなのに、今日の学校は未だ静寂を貫いていた。

 僕は惰眠を貪る彼を捨ておき、昇降口へと足を向けた。何かがあったに違いないだろう。


「これは、どういうことだ」


 玄関で繰り広げられていたのは、開かない下駄箱の扉に悪戦苦闘する男たちの姿であった。僕は手近の男に声をかける。


「何があった」

「何があったもなにも、下駄箱が開かないんだ! これではチョコレートが入れられているか確認ができない!」


 僕は接着剤でも付けられているのかと疑った。しかし、薬剤を塗られた後も、開かないよう仕掛けが作られた様子も見られない。

 下駄箱の扉に貼りつき、五体を余すことなく使って開放を試みている。そんな男の様を見ている女子の目は、阿呆を見る目であった。なぜか女子用の下駄箱だけはすんなりと扉を開いていたからだ。男どもの苦悩などいざ知らず、女子たちは悠々と帰宅していく。


「──シュレーディンガーの下駄箱」


 僕は誰に聞かせるでもなく呟いた。


「遂に始まったか」


 僕の背後には、シュレーディンガーの下駄箱の提唱者である彼が、やはり裸足で立っていた。


「君が何かをしたのか」


 彼は一瞬驚いたような表情を見せたが、直ぐに真面目な顔をした。


「まさか。だが、こうなることは予見していた」


 彼は昨日の論文を廊下にばら撒き、一枚を拾い上げて僕に見せた。


『チョコレートを貰えない男たちの妬み嫉みひがみ。それらが一身に集まったとき、エントロピーが増大する。その莫大なエネルギーにより、教育機関の下駄箱はシュレーディンガーの下駄箱へと変貌をみせる。シュレーディンガーの下駄箱は男の観測を拒み、幸福な他世界の可能性を産み出すことを生業とする』


「そんなバカなことがあってたまるか……!」


 僕はそのページを思わず握り潰してしまった。大切な論文であろうに、彼は怒ることもせず冷静だった。


「これは自然の摂理というものだ。この学校の下駄箱がたまたま限界を迎えた、ただそれだけのこと」

「どうすれば下駄箱は元に戻る」

「異なことを。いずれ皆も気付く、希望を抱いたままでいることの方がどれだけ幸せなものか」


 かか、と彼は渇いた笑いを見せる。

 僕は呟いた。


「君も、希望を持っているのだな」


 彼の目尻が少しだけ吊り上がった。


「だってそうだろう。何やら格好をつけて語っているが、裸足でいるということは下駄箱を開けようとしていないのだろう。女子からチョコレートを貰えるかもしれないと、期待している」

「黙れ! 私は凡庸に堕してなどいない! 浅ましくも下駄箱に夢を持つ者たちと同類に語るな!」

「──そうだよなあ。そうやって高飛車ぶる君の妬み嫉みひがみが、エントロピー増大の要因だよな」


 彼は唇を噛み締めた。口の端からは血が滲んでいる。


「だからさ、君が下駄箱を開けば騒動は収まるんだろう?」

「そうかもしれない。だが、その後はどうする。またモテない男に、私に希望を与えて奪うのか。それでは哀れではないか」

「いいんじゃないか、チョコが貰えなくて絶望しても。そうしたら二人で泣いて、その後は笑おう」

「絶望して、笑う?」

「ああ、バレンタインだけじゃない。夏祭りだって、相手がいなければ愚痴を吐きながら二人で遊ぼう。クリスマスだって、はしゃいでいる奴らに制裁を与えにいくのも悪くない」


 彼は、すっかり俯いていた。もしかしたら涙を隠していたかもしれない。


「だから、今日は二人で、きのこの山とたけのこの里はどっちが強いかでも話し合いながら帰ろう」


 僕が手を差し出すと、彼は震えながらそれをとった。ペンだこで盛り上がった彼の手は、硬く、力強かった。


 彼は自分の下駄箱の前に立つ。そして深呼吸をして、言った。


「緊張するな」

「まだ希望を捨てていないのか」

「悟りを開くまではまだ遠い」


 彼は一息に扉を開いた。そして一斉に、周囲の下駄箱も開き始めたようだった。

 僕は彼と一緒に中を覗き込む。そこには薄汚れた上靴が一足だけ、よれよれに鎮座していたのだった,そりゃあそうだ、と僕たちは二人で笑った。そしてその笑みは失われることなく、僕たちは二人で靴も履かずに裸足で家路につくのだった。

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