第4話 異界
智也は新たな能力を取得した。7がつく日に妖怪を倒すことが出来るのだが、例えば茨城の妖怪なら茨城の人間を殺さないといけない。人間を殺すのは7日でなくてもいい。
また、智也は警部補に昇進したのだが、多くの警察本部や警察署では、係長級のポストとなる。交番では、『ハコ長』とも呼ばれる交番の責任者(交番所長)となる。英語のInspector及びLieutenantの訳語にも充てられる。
日本の警察組織上、警部補は中級幹部とされ、一定の年齢を超えた者を除き、管区警察学校(北海道は道警察学校)の「警部補任用科」で教育を受ける事となる。
全警察官の約29%にあたる87000人が警部補である。
制帽は紺色の一本ラインが入り、制服(冬服および合服上衣)の両袖には金色・斜め一本線の袖章が入る。
9月7日
函館で大停電が起きた。智也は市街地にいたが、真っ暗でアパートに戻るには大変だった。
ごみステーションの前にたどり着いた。智也は中学時代の理科の実験を思い出した。リュックサックにはコンビニで買った乾電池(目覚まし時計の電池が切れた為)が入っている。
ごみステーションで豆電球と銅線を手に入れた。
乾電池に豆電球をつないで、運良く通行人が持っていたガムテープで止める。さらに銅線に10円玉をガムテープで止めると即席の懐中電灯が出来た。
穂波は
四稜郭は、箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が、明治2年(1869年)に現在の北海道函館市に築城した堡塁。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。
四稜郭の名称は4つの突起を持つ事に由来する。幅2.7m、深さ0.9mの空堀に囲まれ、土塁の規模は東西約100m、南北約70m、幅5.4m、高さ3mである。土塁の四隅には砲座が配置されている。南西側に門口があり、その後方に幅0.9mほどの通路が設けられている。郭内には建物は建設されなかったと考えられている。面積は約2万1,500平方メートルを有する。
五稜郭を援護する支城として、また東照宮を守護する為に北東約3キロメートル離れた丘陵上に洋式築城法により築かれた。建設を指揮したのは大鳥圭介あるいはブリュネ大尉といわれている。建設には旧幕府兵卒200人および近隣住民100人が徴用され、昼夜兼行の突貫工事で造り上げたと言われる。しかし、堡塁としては脆弱であり、立て篭もるには手狭で井戸等の設備も存在しなかった。星形要塞であるものの、実際には野戦築城に近いものである。四稜郭以外に当時造られた要塞としては川汲台場(現・函館市)や峠下台場(現・七飯町)などがある。
昭和9年(1934年)、国の史跡に指定された。当時は周囲が耕作地になるなどして土塁が一部崩されていたが、昭和48年(1973年)に元の形に修復された。
5月には、付近一帯はスズランの花畑となる。
智也は『
「キャハハッ」
庭先で5歳くらいの女の子がピョンピョン飛び跳ねている。
「
花にジョウロで水をくれていた穂波が言った。
相変わらず美しいな?
ぼろぼろのアットシ(シナノキやオヒョウニレの樹皮の繊維で織った、アイヌの民族衣装)を身に纏った怪物が現れて茜を喰い殺した。
「茜!ウワァーン!!」
穂波が号泣している。
智也は護身用のダガーナイフでそばを歩いていたチンピラを刺し殺した。
ゴミみたいな存在だが、こーゆーときには利用できるな?
おそらく、怪物の正体はアイヌカイセイって奴だ。アイヌカイセイは鋭い爪で智也に襲いかかったが、智也は何の痛みも感じなかった。ダガーナイフでアイヌカイセイの腹を刺して殺した。
穂波は娘を失ったショックから動けないでいるようだ。
「こんなところにいると危険です。中に入りましょう」
智也は振り子時計のある大広間にいた。
上の階から穂波の泣き声が聞こえてくる。
「この上は茜の部屋なんです」
子供部屋に遺体を安置したようだ。
丸い窓の外には灰色の空が広がっていた。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーンと5回鳴った。
「もう5時か……今宵はここにお泊りください」と、津田。
夕食は穂波が作ったハンバーグを頂いた。
食後に温かいコーヒーを振り子時計の間で飲んでいると、穂波が「助けていただいてありがとうございます」とお礼を言った。
「困ってる人がいたら助けるのは当たり前です」と、答えた。
「どこから来られたんですか?」
「神奈川です」
もっと話をしたかったが、「着替えを後でお持ちしますね?」と言うと出て行ってしまった。
9月8日
朝ご飯を食べて行ってと穂波に言われたが、手を煩わせるわけにもいかないので智也は津田邸を後にした。今日はモンスターに襲われたら助からない。早めに函館から出ないと!
9時頃に函館駅前に着いた。ゾンビとかいるんじゃないか?と、不安だったが通行人も数人おり、心配したほどではなかった。
函館駅前交差点は、国道5号・国道278号・国道279号・国道338号の起点になっている。金森赤レンガ倉庫まで車で約5分、函館山ロープウェイ山麓駅まで車で約7分、市電「十字街」下車後徒歩約10分、旧函館区公会堂まで車で約10分、市電「末広町」下車後徒歩約7分、五稜郭まで車で約15分、市電「五稜郭公園前」下車後徒歩約18分、湯の川温泉まで市電利用(「湯の川」下車)で約31分となっている。
函館市青函連絡船記念館摩周丸がある若松ふ頭は、クルーズ客船の専用岸壁として整備しており、暫定供用している。
キヨスクで『豚わっぱ飯』を買った。ホームで列車を待っていると不気味な女が智也を見ていた。
ざんばら髪で、黒い顔には目や口が無く、親指のような鼻が付いているのみである。
女の正体はケナシコルウナルペ。名称は木原の姥の意味で、胆振地方や沙流郡での呼称。他にも平原の小母を意味するケナシウナラペ、湿地の小母を意味するニタッウナラベなどの名があるほか、天塩地方では山の魔の意味でイワメテイェプとも呼ばれる。
普段は、樹木の空洞や川岸の柳原などに棲んでいる怪女。また川岸の柳原などにも棲むといわれたため、そうした場所では人が泊ることを戒められていた。
クマを操ることができ、山狩りをする者を熊に襲わせたという。そのため、本来善良な動物であるクマが人を襲うのはこの妖怪の仕業とされていた
ドシン!ドシン!と、ヒグマがコチラに向かって歩いてきた。
間一髪、特急スーパー北斗に逃げ込んだ。
函館駅 - 五稜郭駅 - 新函館北斗駅 - (大沼公園駅) - 森駅 - 八雲駅 - 長万部駅 - (洞爺駅) - 伊達紋別駅 - 東室蘭駅 - (登別駅) - (白老駅) - 苫小牧駅 - (南千歳駅) - (千歳駅) - 新札幌駅 - 札幌駅。
長万部を出た当たりで駅弁を食べた。夕凪に到着したのは午後4時過ぎだったが、街は地獄と化していた。あちこちに死体が転がり、車がペシャンコに潰れていた。
行きつけの居酒屋『
天界にいる神様の気が狂い、夕凪町を地獄に変えた。夕凪中学でヒドいイジメに遭って、海に身を投げた少女の仕業だった。
ゾンビは警官隊にほとんど駆逐されたそうだ。
9月9日
📰コンピュータシステムにおける2001年9月9日問題。
智也は夕凪海岸の対岸にある島にやって来た。
かつては石炭採掘の島で、昭和49年(1974)年に狼が出現して島民を次々に殺したことから人食い島と呼ばれている。
巨大な岩礁が聳え立っている。住宅等内の通路は植物に飲み込まれていた。
「海底油田があったんだろうな?」
夕凪町の生き残り、
「それって防水性ですよね?」と、智也。
「高かったんだぞ?君のそのポロシャツ、どこで買ったの?」
「古着屋です」
「寄るなよ、貧乏が伝染る」
「明治23年に三国財閥が買収して採掘を開始、たくさんの石炭が算出された。
島に到着ししばらく歩くと、炭鉱の櫓が見えてきた。
「幽霊でも出そうね?」
ゲージと呼ばれるエレベーターで深い地底に降りた。竪坑の底からはゴォォォゴォォォと、生暖かい風が吹いてくる。
「古いからいつ壊れるか分からんぞ」
黒いトレイルベストを着た青年、
「不吉なことを言わないでください」
涼子は今にも泣き出しそうだ。彼女は5人の中では1番若く、まだ19歳だった。
坑道内は薄暗く、湿度が高い。
「これじゃ暑いなぁ」と、乙川。
「脱いだらどうです?」と、涼子。
乙川はウインドベストを脱いで、グレーのシャツ1枚になった。環境のダクトや作業に使うケーブルが蛇みたく設置されている。
しばらく進むと巨大な扇風機が現れた。その直前には
智也は汗で全身がダクダクだった。換気室に入って涼もうとしたそのときだった、巨大な山男がのそのそと現れた。
乙川は考古学者をしており、各地に伝わる山男の伝説を追っていた。
静岡県
江戸時代の奇談集『絵本百物語』によれば、遠州秋葉(現 静岡県浜松市)におり、身長は約2丈、木こりの荷物運びを助けて里近くまで同行し、手伝いを終えるとまた山へ帰って行くという。礼を与えようとしても金銭は受け取らず、酒なら喜んで受け取ったという。言葉は通じないが、身振り手振りで言葉を伝えることができ、それら身振りなどを憶えるのは非常に早いという。あるときに遠州の又蔵という者が、病人のために医者を呼びに行く途中、誤って谷に落ち、足を痛めて身動きがとれなくなった。そこへ山男が現れ、又蔵を背負って医者のところまで辿り着くと、かき消えるように姿を消した。後に又蔵が礼の酒を持って谷を訪れたところ、山男が2人現れ、喜んで酒を飲んで立ち去ったという。
柳田國男によれば、近世の史料における山男記事は駿府と土佐のものが最も古く、この2国はまた明治期に至るまで山人の足跡の甚だ多い地方であるという。柳田は後述の「東武談叢」と「土州淵岳志」における記録を、近世の山男記事として紹介している。
「東武談叢」によれば、慶長14年4月4日、駿府御殿の庭に、破れた着物を着て四肢に指がなく青蛙を食べる乱れ髪の男がどこからともなく現れた。居所を尋ねると、手で天を指すのみであった。徳川家康の側近はこの男を殺そうとしたが、家康が殺すなと命じたため城外に放たれ、その後の行方は分からなくなった。
高知県
「土州淵岳志」によれば、寛永19年の春に豊永郷の深山から「山ミコ」という大きな男が高知へ連れて来られたという。身体の肉付きは逞しく、食物を与えると何でも食べ、年齢は60歳くらいに見えた。この男は2、3日後に元の場所へ返された。
山男は飢えていたのか、鋭い爪で島野に襲いかかった。爪に串刺しにされた島野は血みどろになった。
「こんなところで死んでたまるか!」
智也は隠し持っていたダガーナイフで応戦した。
山男は首根っこをへし折ろうと、智也に掴みかかって来た。
そのとき、山男が銃弾に倒れた。等々力が猟銃を撃ったのだ。足を撃たれ身動きが取れなくなったところを、等々力は頭を撃って仕留めた。
「兄ちゃん、助けてくれてありがとう」
「足手まといになるから余計なことするなよ」
智也は不甲斐なさに打ちひしがれた。7日になるまで、あと8日もある。生き残れるかどうか自信がなかった。
裏口から外に出ると、頂上に向かって階段が蛇行している。頂上には神社が祀られている。
「あんなところをのぼったら墜ちて死んでしまうだろうな」
等々力が言った。
しばらく進むと翡翠色に塗装された廃病院が見えて来た。木造5階建てで、壁には蔦や蔓が蔓延っている。太陽が水平線に沈みかけている。
「今夜はここに泊まることにしましょう」と、涼子。
9月10日
護岸に当たって波しぶきが高く舞い上がっている。
「ラジオでやってたけど台風が近づいているようだよ」と、乙川が言った。
この島に来るときに使った漁船は流されてしまっていた。乙川は猟師だった。
「この時化じゃ海上保安庁も近づけるか分からんぞ」と、等々力。
4人は防潮棟へと逃げ込んだ。護岸だけでは押さえきれない高波を防ぐ為の設備だ。かなりの高層建築で、高所恐怖症の智也は足が竦んだ。乙川によると屋上はもともとは畑と田んぼだったらしく、鬱蒼としていた。
9月11日
📰アメリカ同時多発テロ事件発生により、日本でも通常番組を取りやめ長時間の特別報道番組が放送される。
📰日本国内初の狂牛病 (BSE) 感染牛が発見される。
9月12日
📰1984年以来、日経平均株価が終値で1万円を下回る。
9月18日
📰 本田技研工業が「CR-V」をモデルチェンジ(12月14日には「シビックハイブリッド」を発売)。
9月25日
📰 中日の星野仙一監督が勇退し、後任に山田久志投手兼ヘッドコーチが昇格。
9月26日
📰 リーグ優勝へのマジックナンバーを1とした近鉄がこの日、大阪ドームで行われた対オリックス戦の終盤、2対5とリードされた9回裏無死満塁の場面で、代打・北川博敏が日本プロ野球史上初となる「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」を決め、12年ぶり4度目のパ・リーグ優勝を果たした。
9月27日
📰 トヨタ自動車が「カムリ」をモデルチェンジ。
智也はロシアにやって来た。モスクワでヴォジャノーイという怪物が目撃された。水中に棲み着いている怪物で、水中にある全てのものを支配下に置くことが出来た。人間の前に現れるときはブクブクとした老人で、全身が藻で覆われているらしい。
ハゲでいて、智也の倍以上の大きさを誇る。
人間を水中に引きずり込んで殺すとされる。
🔮水晶の宮殿で戦ったが、大した敵ではなかった。智也がパンチをすると、粉々に砕け散った。
海から上がり、クレムリン宮殿の近くを散策してるとロシアの旗を手に入れた!🇷🇺
9月28日
📰日本テレビの『ズームイン!!朝!』・『ジパングあさ6』・『あさ天5』放送終了。
9月30日
📰 巨人の長嶋茂雄監督が勇退し、巨人史上初の終身名誉監督に。後任に原辰徳ヘッドコーチが昇格。
📰Appleが初代iPod発表(右、10月23日)
10月1日
📰トステムとINAXが経営統合し、INAXトステム・ホールディングス(現:LIXILグループ)が発足。
📰名古屋鉄道(名鉄)が谷汲線、八百津線の全線と竹鼻線の江吉良駅-大須駅間を廃止。また同社犬山線とJR東海高山本線との直通運転も廃止。
📰三菱グループの製薬会社「三菱東京製薬株式会社」と、武田薬品工業の子会社「ウェルファイド株式会社」が合併「三菱ウェルファーマ株式会社」(現:田辺三菱製薬株式会社)を設立。
10月2日
📰与党3党による牛肉を大いに食べる会が開かれる。
10月6日
📰九州旅客鉄道筑豊本線折尾-桂川間、篠栗線全線電化。また、この日より、福岡県の黒崎駅-直方駅-飯塚駅-桂川駅-博多駅間を福北ゆたか線として営業。
📰ヤクルトが対横浜戦(横浜スタジアム)に4対3で勝利し、4年ぶり6度目のセ・リーグ優勝を達成。
10月7日
智也は安土桃山時代にやって来た。時代は1592年(文禄元年)だ。
舟入の近くに
現在は、城域はすべて住宅地となっていて遺構は何も残っていない。
近所には
高虎の屋敷の北側には伏見城がある。
伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。
伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。
指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではない(正伝寺の天井板はかつて科学的調査がされ、その際「人血であることは確認できなかった」が「血液型は数種検出された」とする。
焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされた。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになった。
高虎は弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄・高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって没落しており、農民にまで身を落としていた。幼名を与吉と名乗った。
はじめ近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受ける。天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きしなかった。このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っている。
天正4年(1576年)に信長の重臣・羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)に300石で仕える。
天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討った功績により3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された。
天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬った。また秀長の命令で雑賀党の鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。同年の四国攻めにも功績が有り、秀吉から5,400石をさらに加増され、1万石の大名となった。方広寺大仏殿建設の際には材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられている。
天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行として高虎を指名した。高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとする。のちに家康に引見され、設計図と違う点を尋ねられると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返した。家康は高虎の心遣いに感謝したという。
天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで島津軍に攻められた宮部継潤を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この戦功により、秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任する。天正17年(1589年)、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城した。また高虎によって、多数の農民が田平子峠で斬首された。当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っている。
天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の羽柴秀保(豊臣秀保)に仕えた。
秀保は豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀(とも)の子で、後に豊臣秀長の婿養子となる。大和国の国主で大和大納言と呼ばれた秀長を継ぎ、官位が中納言であったことから、大和中納言(やまと ちゅうなごん)の通称で呼ばれた。
天正7年(1579年)、木下弥助(三好吉房)とともの三男として生まれる。幼名は
関白秀吉の後継者候補となった兄秀次の連枝として幼少より昇進を重ね、天正16年(1588年)1月8日、侍従に任じられた。同年4月の後陽成天皇の聚楽第行幸を記した『聚楽亭行幸記』には、「御虎侍従」の名が見える。
天正19年(1591年)1月、13歳で、継嗣のなく死の床に就いた叔父・秀長の4、5歳になる娘(おみや)と祝言をあげ、養嗣子として披露された。同月に秀長が死去するとその跡を継ぎ、大和郡山城主となった。秀長の家老藤堂高虎と桑山重晴が秀保の後見役を務めて、大和・紀伊2か国を継承し、和泉と伊賀の一部は収公となった。また従四位下参議近衛権中将に任じられ、豊臣姓を下賜される。天正20年2月10日には春日社で家督始めの祈願を行った。この祈願は大和の寺社・領民などに秀長から秀保への代替わりを披露する目的があった。
文禄元年(1592年)1月29日または2月7日、従三位権中納言となり、以降は「大和中納言」または「郡山中納言」と呼ばれた。なお秀保は豊臣家中においては官位などの面で次兄・秀勝よりも上位であり、長兄・秀次が関白に就任して以降は一門衆筆頭の扱いであった。また文禄2年(1593年)5月20日に徳川家康らと連名で提出した起請文においても家康に次いで署名するなど、諸大名中でも家康に次ぐ立場であった。
この年は文禄の役の真っ只中だった。
10月16日
📰日産自動車が「ステージア」をモデルチェンジ。
2001年から朝倉やって来る。朝倉は徳川家に雇われた。
10月23日
📰AppleがiPod発表。当初はMacintosh専用であったが、革命的なデジタルオーディオプレーヤーとして話題になり、ヒットする。
10月25日
📰日本シリーズ、ヤクルトが近鉄に4対2で勝利し、4勝1敗で4年ぶり5度目の日本一。
11月1日
📰東京証券取引所が株式会社に組織変更。
11月3日 - 11日
📰第16回国民文化祭群馬開催。開会式・オープニングフェスティバルは史上初の野外開催。
11月12日
📰愛知小4女児失踪事件発生。
11月16日
📰トヨタ自動車が「ヴォクシー」/「ノア」を発売(「ライトエースノア」/「タウンエースノア」の後継車)。
11月18日
📰 JR東日本がSuicaのサービスを開始。
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