第25話 土浦天音という先輩
俺にとって、天音先輩とは『なんだか不思議な人』だった。
底知れない、と言い換えてもいいかもしれない。
俺と飛鳥が騒ぎを起こしても、おっとりと穏やかな表情で問題を解決する姿は、外見に似合わぬ深い知性を感じて。天音先輩が執筆する小説は、どれも皆、軽妙な登場人物同士のやり取りや、幸せな日常風景――だからこそ、避けられぬ悲劇の顛末があった。
いきなりではあるものの、伏線の無い悲劇ではなく。むしろ、読み返せば、そうなるしかなかったと認めざるを得ない見事な展開。だからこそ、天音先輩の作品には熱狂的なファンが居て、本格的なプロ活動を望まれていたりもしたのである。
ただ、正直に言えば、俺は天音先輩の作品は好きでは無かった。
面白くない、という問題ではなく、単なる好悪の問題だ。どれほど良く出来たスープを飲もうとも、苦手な香草が一つ入っていればそれを嫌いになってしまうような物。
俺は、物語が悲恋で終わるのが、気に食わない人間なのだ。
「天音先輩は、ハッピーエンドは書かないんですか?」
「ハッピーエンド? ほら、書いているじゃあないか、この作品とか」
「…………仲良かった幼馴染が、主人公の親友のことを好きになって、自分の好意を知らせずに、何とか親友と幼馴染をくっ付けるというラブコメですか? これ、最終的に神社の前で、一人で主人公が泣きながら笑うというエンディングじゃないですか」
「自分の好きな人同士が幸せになれるんだよー? 幸せー」
「幸せかなー?」
一度、天音先輩とは作品の価値観について語り合ったことはあるが、理解は得られなかった。
いいや、理解できないのは良いのだ、別に。世界中全ての人間と理解し合えると思える方がおかしいし、理解し合えない部分があったとしても、仲良くはなれる。
ただ。今から思えば、天音先輩が書く作品の根底にある物はきっと、己が食らって来た者たちに対する手向けだったのかもしれない。
「天音先輩」
「にゃにー?」
「天音先輩はなんで、コーヒーで酔っ払えるんですか?」
「ふふふふ、よっぱらってないろー♪」
「酔っ払っています。コーヒーの匂いを漂わせながら、俺に抱き着いています。ありがとうございます。でも、そろそろ飛鳥が戻って来て、俺が処刑されるので止めましょう」
「ねぇ、けんすへくん」
「呂律が回らなくなるまで、よく、コーヒーで酔えますね!?」
「…………君には、期待しているんだよー」
二か月ほど部活動を共にしても。
こうして、殺し合うところまで来たとしても。
俺には天音先輩がよくわからなかった。
コーヒーで酔っ払う理由も。
寂しそうに空を見上げる理由も。
きっと、俺には分からない。
最後の最後の瞬間まで、俺と天音先輩は分かり合えずに殺し合うのだろう。
●●●
天音先輩との戦いで必要なのは、とにかく、周囲に気を配ることだ。
「――――っつ! 姑息! 不死の化物の癖に、戦い方が姑息!」
『他の二人が脳筋なだけだよー』
蜘蛛の化物へと変化した天音先輩は、体のどこからでも自在に糸を生成することが可能である。代わりに、いかにも、糸を吐くような蜘蛛の臀部からは何も出てこない。
どこかの映画のヒーローをリスペクトしたのか、手首辺りから高速で糸が射出されたり、魔力だけで生成されたとても見えにくい糸など、その他、様々な種類の糸を多様に用いて、俺の動きを捉えようとしてくるのだからとても厄介だ。
どれだけ薄くとも、体中に魔力を張り巡らせて、常に糸に込められた魔力を中和。その後、糸自体の強度や粘着力を考慮した動きをしなければならない。
恐らく、俺が対象の魔力を見るという技能を身に着けていなければ、戦いを開始してから数秒程度で捕まり、食い殺されていただろう。
「しぃっ!」
『へぇ、良い威力だー』
だが、何度も生死を賭けた場面を潜り抜けた所為か、俺の肉体は満身創痍であるが、より効率化されたキレのいい動きを実現していた。
最低限の動きで糸を避け、無駄なく退魔刀に魔力を込めて、的確に斬撃を飛ばす。
斬撃は、回避不可能な糸の攻撃を切り裂き、道を作るだけではなく、そのまま天音先輩への攻撃にも繋がるのだ。
まぁ、流石に高密度の魔力を込めていない打撃だと、あの甲殻のような外皮に傷は付けられないのでけれども。それでも、対応可能だ。天音先輩の動きは確かに素早いが、飛鳥ほどではない。天音先輩の防御は固いが、早枝先輩ほど手ごたえが感じないわけではない。
何より、ここは周囲に障害物が存在しないグラウンド。この空間ならば、動きやすく、また、糸を使ったトラップも張り巡らせにくいので、今の俺でも天音先輩と戦えるのだ。
『じゃあ、こういうのはどうかなー?』
そんな楽観的な思考が脳裏を過った瞬間、まるでこちらの考えを分かっているかのように、天音先輩は地理的不利を覆して来た。
白の柱――糸を幾重にも巻き固めて、硬質化させた物体を、地面に突き刺し始めたのである。しかも、その動作自体が速く、三秒もかからず、一度に数十本もの柱を作り上げるのだから驚きだ。加えて、その柱の動きは遅くとも、魔力で編まれた所為か、サイコキネシスの如く、柱が空中を飛んでくるのだから質が悪い。
「まずい。このままだと――」
『あらあら、反応が少し遅いわー』
俺はとっさに、退魔刀で振り回された節足を受けて、背後に飛ぶ。辛うじて、俺も退魔刀にも損傷はないが、やはりそういうことか。
『ふふふふ、難易度を上げていきましょうかー』
俺の眼前で、糸が軋む音と、決して小さくない化物の肉体が空を切る音が聞こえた。ほとんど、勘で動き、節足による切り裂きを避ける。転がる。柱の影に張り巡らされた糸を切り裂いて、再度、『糸の反動を使った高速移動』による天音先輩の襲撃から逃れていく。
「難易度上がり過ぎでは?」
『ワンミスは死だよー』
巨大な柱を地面に突き刺して、遮蔽物を作り、そこに丈夫な糸を張り巡らせる。相手の動きを妨害し、己は速度をさらに上げて、相手を追い詰めるという手法。
二人とは違う。
天音先輩はガチで、俺を殺そうと策略を練って行動している。
ならば、どうする? このままじわじわと体力と判断力を削られて殺されるのは論外。かといって、『切り札』はまだ使えない。一か八かのカウンターで撃ち込むわけにはいかない。極論、相手は俺からいくらでも攻撃を貰っても、弱りはしても死ぬことは無いのだ。いや、ひょっとすれば早枝先輩ほどではないにせよ、再生能力が高いかもしれない。
『さぁ、どうするのかなー?』
悪友の推測によれば、天音先輩の起源はとてつもなく古い蜘蛛の化物。
蜘蛛の名を持つ妖怪は多く、けれども、そのどれもが名だたる英雄によって屠られてきたはず。不死である記述を持つ者はほとんど無く、悪友でさえも正体不明と言っていた難物だ。
故に、田中さんと会えていなければきっと、俺は為す術もなく殺されていただろう。
「…………ふぅー」
田中さんの推測が合っているのであれば、ここは『切り札』をタイミングではない。自力で切り抜けなければならない場面だ。劣勢で焦り、容易に封を解いてしまえば、恐らく、酷く警戒されて唯一の勝機である不意打ちによる一撃必殺が決まらない。
「心眼・開眼!!」
『えぇ……』
よって、俺はつい先ほど飛鳥との命がけの追いかけっこで身に着けた能力を使うことにした。
くくくく、恐ろしいだろう? 俺はあの状況の中、目を閉じることにより、視覚に惑わされず、相手の気配を捉えることが出来て―――あっぶねぇ!?
「うわっ! 前髪かすった!? 死ぬところだった!!」
『そりゃあ、そうだよー。視覚が当てにならない状況ならともかく、そうじゃないなら、普通に目を開けて戦った方がいいよー』
「それもそうですね! ヨシ! 次はカウンター叩き込むぞー!」
『…………』
天音先輩から若干馬鹿にされたような視線を受けたが、問題ない。俺は先ほどの失敗を生かし、今度はいつも以上に良く目を凝らし、耳を澄ませて、五感以上の感覚を開いて…………はい、成功、と。
『んのわぁ!?』
糸の反動を使い、縦横無尽に動き回る天音先輩の動きを見切り、節足が振るわれると同時に体を捻って最低限の動きで回避。やや、肩の皮膚を引っかかれつつも、すれ違い様に、攻撃してきた節足を切り落とすことに成功した。
ふぅ、残り少ない魔力を集中させた一撃ならば、辛うじて相手の防御を切り裂けるらしい。
『おっどろいたぁー。急に覚醒したねぇ、剣介君』
「ふっ、これも貴方のアドバイスのおかげですよ。敵に塩を送ってしまいましたね?」
『まー、私は先輩だからね。迷える後輩にはアドバイスを与える物だよー。うん、でも、普通はあのアドバイスで急に覚醒したりしないからね?』
「マジですか?」
おかしいな? 明らかに、天音先輩からのアドバイスで俺の動きは良くなったのだけれど。
『というかね、剣介君』
「はい」
『理解しているかなー? 君は、異常だよー?』
「異常に格好いい、ですか? やれやれ、こんな時にそんなことを言われても」
『この状況でボケられる度胸は素直に格好いいと思うけれど、違うねぇ。ねぇ、君はさ、鍛え始めたのは最近でしょー? 以前から、体は動かしていたと思うけどさ、本格的に誰かを殺そうと思っての鍛錬は多分、一か月前ぐらいから、じゃないかな?』
「いえ、実は俺、幼い頃から怪異殺しを生業とするために、厳しい修行をしていましてね?」
『あらあら、じゃあ、一か月前からやり始めた登山は趣味なのかしら?』
ヤバい、バレている?
いや、部長の言葉ならば、記憶は封じているはず。ならば、記憶が無くとも日常の観察されている時点で、既にバレていた? どの時点で? 正体を見破ったことだけならまだしも、それに戦いに備えて対策を練って来たことが露見しているのは少しまずいな。
『ふふふ、驚いたー? 先輩からの助言だけれどね? 相手を調べているのが、自分だけだと思わない方がいいよー。ふふふふ、でも、こればっかりは酷かなぁ? 実は私、貴方が入部してから今まで、割と色々調べてきたのよ? 貴方のことを』
「え? ストーカーですか?」
『凄腕の探偵を雇って』
「凄腕の探偵」
『長く生きていると、色んなコネクションを持っているのよー? いやぁ、クローズドサークルで事件に巻き込まれた時に、首を小脇に抱えながら名探偵と一緒に推理したのは、結構楽しかったわー』
「不死の化物が普通に、殺人犯にさくっと殺されないでくださいよ」
『外に出た時は基本的に、殺されない限り人外の力は使えないんだよねー。殺されても、色々と制限があるし』
俺は天音先輩と言葉を交わしながら、じりじりと『切り札』を隠した場所まで近づいていく。
本当であれば、絶好の機会が無ければ使わないと考えていた『切り札』だったが、俺の生存本能が先ほどから、喧しいほどに警鐘を鳴らしてくるのだ。
これは多分、こちらが機会を見つける前に、何も出来ずに殺されるような何かが進行中なのだろう。早く、けれど早すぎず、移動せねば。
『まぁ、その事件で色々と貸しがあるから、凄腕の探偵を雇えたわけだよー』
「…………それで、調べた結果、どうでした? 俺のナイスガイっぷりが、よくわかりましたか?」
『うん、よくわかったよー。君の家が、退魔の流れを汲む血脈でもなく、ごくごく平凡な家庭だということが。それでも、君のような存在が生まれたということがわかった。うん、わかったんだよー』
朗らかな口調で語っていた天音先輩だが、ここで言葉に色が混ざる。
それは、歓喜の色。
『君こそが、待ち望んだ英雄存在なんだって』
「――――っ!」
到底、人間が受け取れるような感情の大きさではない、とてつもない歓喜と期待を向けられて、俺は動き出す。体中が、思考よりも先に、弾き出されたかの如く動き出す。
駄目だ。
このままだと、何もできずに死ぬ!
『だから、私もさぁ――――――本気で君と相対するよ』
迅速に書けた出した俺が、『それ』を手に取るのと同時に、世界が塗り替わった。
「ああもう、ふざけるなよ、土浦天音! 何故、五百年前にも使わなかったそれを、今になって使う!? くそ…………すまない、剣介君! 空間を変えざるを得なかった! そうしなければ、手遅れになるところだった」
周囲の光景が変わる。
高校のグラウンドから、まるで、都会のようにビル群立ち並ぶ都市へ。
一体、何故? 空間転移? 土地神である部長が、何故干渉を!? そもそも、どうして見たことも無いこのコンクリートジャングルに?
「契約の範囲内で、勝ち目があるフィールドを選ぶのが精々だ…………後は、足掻いてみたまえ。もっとも、一人の足掻きが、どれだけ彼女に届くかは分からないが」
混乱しながら、声の主を探すが、周囲には部長の姿はない。
どうやら、声だけが俺に届いていたらしい。
しかし、何故、高層ビルの屋上? おまけに、空間が夜であるのは変わらず、見えにくい。周囲のビル群の窓から明かりが漏れているので、まだ周囲を視認できるが、この広大な都会は無人らしく、ほとんど生活音は聞こえない。
「…………天音先輩は、どこだ?」
俺は余計な思考をシャットアウトして、切り換える。
今は、部長やこのフィールドの意味を考える時間ではない。入り組んだこの都市の中で、俺は戦わなければならないのだ。慣れない場所。相手に有利な遮蔽物の多い空間。控えめに言っても、部長からの嫌がらせを疑うが、苛立つよりも先に天音先輩を探すのが先だ。
「…………気配が、無い? いや、なんだ、これ?」
この空間に転移させられた時から、俺は不思議な感覚を得ていた。
天音先輩が無い。
なのに、天音先輩が居る。
一夜にして何度も死線を潜り抜けた俺の感性が、そう俺の理性に告げていた。明らかに矛盾した直感であるが、俺は勘違いとして切り捨てる気にはなれなかった。
故に、俺は最大限の警戒の下、とりあえずビルの屋上から周囲を見渡して、気付く。
気づいてしまった。
どうして、部長があそこまで焦った声を出していたのかを。
どうして、このフィールドこそが、唯一勝ち目があると言っていたのかを。
『【やっほー、剣介君。見てるぅー?】』
巨大な、とてつもなく巨大な鐘を鳴らしたかの如き、声。
音だけではなく、直接脳裏に思考をぶち込んでくる乱暴な意思伝達。
普段ならば、不快感で呻くだろうが、今の俺にそんな余裕は許されていなかった。
何故ならば、目が離せなかったから。
眼前に存在するそれが、余りにも悪い冗談過ぎて。
『【ああ、暗いからねー。これなら、分かりやすいかなー?】』
それは、夜空の闇を割くように赤く発光した。
燃え上がるような紅蓮が、あった。
紅蓮は、蜘蛛の形をしていた。状況的に、それが天音先輩であると判断すべきだったのに、俺は声をかけられるまで、本当にそれが天音先輩なのか信じられなかった。
いや、信じたくなかったんだ。
『【ふ、ふふふふ、分かるかなー? 剣介君。これが、私だよー】』
高層ビルの全長が、一本の節足にすら及ばないほど、とてつもなく巨大な蜘蛛が、天音先輩であるなんて、信じたくなかったのである。
だってさぁ、こんなの、こんなの、ずるいだろう?
『【土浦天音。かつて、遠い昔、赤の地母神と呼ばれた敗北者で――――これから君と、本気で殺し合う先輩よ】』
ぐるぐると頭を駆け巡る現実逃避の言葉を抑えて、俺は泣きそうになりながらそれを見つめた。もはや、化物と呼ぶことすら相応しくない、巨大な蜘蛛の『怪獣』を。
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