第18話 月が綺麗な夜に始めよう
昔々、あるところに底なし沼がありました。
深く、深く、一度嵌ってしまえば、どれほど屈強な男であっても抜け出せません。
底なし沼を知る、周囲の村人たちは『死者の国と繋がっているのではないか?』と恐れて、誰一人として近づこうともしませんでした。
しかし、どんな時代にも愚か者は居るものです。
やるな、と言われたことをやり、近付くなと言われた場所に近づく。
その救いがたい愚か者は、妻の死体を背負った男でした。
「死者の国と繋がっているのなら、体があれば、帰って来られるのではないか?」
なんと、男は妻を蘇らせるために、底なし沼の噂話を信じていたのです。
そのため、死んだ妻の遺体を盗み、誰にも知られないように逃げ出して、その底なし沼の下へと辿り着きました。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。どうか、愛おしい我が妻よ、帰って来ておくれ」
男は底なし沼に着くと、祈りながら妻の遺体を沼の中へと放り投げます。
妻の遺体は、あっという間に沼の中に飲み込まれて行きました。
「どうか、どうか……」
男は沼の前で待ちます。
朝から、陽が傾くまでずっと待ち続けて、ついにその時が来ました。
ざばり、と沼の中から見覚えのある女が浮かび上がってきたのです。その女の顔、体、どれをとっても、男の妻と瓜二つでした。
「おお! 帰って来てくれたのか! すまなかった……俺が悪かった……次は、きちんとした夫婦としてやり直そう」
男は浮かび上がって来た妻を抱きかかえて、泣いて喜びます。
しかし、抱きしめられた妻は不思議そうに首を傾げて、こう言いました。
「貴方は、誰ですか?」
妻とそっくりの女は、どうやら何の記憶も持っていなかったのです。まるで、生まれたての赤子のように。
男はひどく嘆き、悲しみましたが、妻が帰って来たことに変わりはないと、女を連れて帰ることにしました。
もっとも、死体を盗んだ男に帰る里はありません。
なので、男は、身を偽ってどこかの村に潜り込み、働き始めたのです。幸いなことに、男は腕のいい大工でした。仕事道具さえあれば、どこでもやり直せます。
「まだ、思い出さないのか?」
「ごめんなさい、あなた」
けれども、男は女と夫婦としてやり直すことは出来ませんでした。
何せ、まるで違うのです。女は妻とそっくりの体をしているというのに、仕草や、言葉遣い、それらが全て異なっているのです。
妻と似ているのに、中身はまるで異なる女。
その存在は、男をひどく苛つかせました。
「違う! 違う! どうして、お前はそうなんだ!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
男は何度も何度も、妻の話を女に聞かせましたが、中途半端に真似られても、さらに苛立つだけ。次第に、男は女に暴力を振るうようになりました。
「ごめんなさい、私が悪いです。きちんと、やりますから」
それでも、女は男の暴力を受けても、健気に妻の真似をしようとして。
更に男の苛立ちは募り。
ついに、ある日、男は女を自らの仕事道具で殴り、頭を割ってしまいました。
「なんてことだ……」
男は正気に戻り、己の愚かさに深く嘆きましたが――――男が真に己の愚かさを思い知るのは、これからでした。
頭を割られた女ですが、奇妙なことに、割られた頭からは血が出ません。それだけではなく、血の代わりに、ぼこぼこと泡立つ泥のような物が湧き出てきて。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
それらの泥の中に、小さな口が無数に生まれて、女の声で鳴き始めました。
ここで、ようやく男は思い知ったのです。
沼の中から生まれた存在が、まともな人間であるはずがない、という当たり前の事実に。
「ひ、ひぃっ! 許してくれ! 許してくれぇ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………ちゃんとやります」
男は逃げようとしましたが、女……化物から生まれた泥は、男を掴んで話しません。まるで、愛おしい恋人に縋る女のように。
「貴方を食べれば、貴方の言うとおりにやれますから」
泥の化物は男を食らい、飲み込みました。
しばしの間、泥の化物からは世にも恐ろしい悲鳴が聞こえましたが、段々とそれも薄れていき…………化物が女の体に戻った時、そこにはもう男は居ませんでした。
当然です、自らが食べてしまったのですから。
「…………ごめんなさい」
化物は自らがしてしまったことを嘆き、涙を流しながらその場を立ち去りました。
その後、女の姿を見た物は誰も居ません。
――――けれど、化物の姿を見たことがある者ならば、意外と居るかもしれませんね? 例えば、この現代にでも。
●●●
殺し方は理解した。
不死のギミックを攻略できるかどうかは、完全に自分次第。はっきり言って、無茶無謀も良いところであるが、やらなければどの道死ぬので、やるしかない。
そもそも、期限は明日の夕方だ。ここで躊躇っていれば、きっと、合宿前に俺は殺されてしまうことだろう。
故に、俺は決意した。
そうだ、一晩のうちに不死の化物三体を屠ろうと。
いや、違いますよ? 夏休みの宿題みたいに、追い詰められた結果、無理なスケジュールになったわけでは無いのだ。元々、俺は一晩のうちに全ての不死者を殺す予定だったのである。
「すまない……君は馬鹿だろうか?」
当然、協力者である田中さんからはストレートに馬鹿呼ばわりされた。
無理もない。俺が言っていることは恐らく、非常に困難だ。たった一体だけでも屠ることが出来れば御の字という難易度である癖に、それを三体続けて、しかも一晩のうちにやろうと言うのだから、脳みその有無を疑われても仕方がない。
しかし、俺はこうも思うのだ。
だからこそ、やる価値があるのだと。
「くくく、田中さんよ、確かにこいつは馬鹿だ。だがね? こうも思っているだろう? これぐらいの馬鹿じゃなければ、やり遂げることが出来ないこともあるってな」
「それは……」
「まぁ、一応考えもあるんだろうさ。おい、馬鹿。説明してやれよ」
悪友は言わずとも分かっていたのだが、協力者である田中さんを納得させるために、俺は言葉を尽くして説明した。
即ち、慢心している時でも無ければ、彼女たちに勝つ方法が無いのだと。
人間と獣の差ですらない。人間と化物の差だ。魔力も、身体能力も、経験値ですらも彼女たちは一人残らず俺を凌駕している。普通にやれば、勝てるわけがない。そう、勝てるわけがないと認識して、化物としての慢心がある時だけが、俺が勝つ条件が揃っているのだ。
けれども、その慢心を突ける時間は短い。
己の同類である不死者が屠られてなお、その慢心を持ち続ける程、彼女たちは愚かではない。その事実が発覚してから、時間が経てば経つほど、俺の勝率は各段に下がっていくだろう。
「だから、一晩で殺し尽くすというのか? しかし……」
「田中さん。言っておくが、俺たちはアンタに意見を求めていない。やってくれ、と頼んでいるんだ。返答は、イエスかノー。どちらかでいい」
田中さんは釈然としない様子ではあったが、「俺に口を挟む権利などはない、か」と呟くと、俺の計画を認めてくれた。
それから、予定の日時……つまり今日まで様々な準備を重ねてきたわけだが、うん、やはり緊張する。まるで、告白をするみたいな胸の高鳴りと、足元が定まらないような浮足立つ気持ちが止められない。
なので、無理にそれを止めようと思わず、俺は大きく息を吸って、それらを全部腹の内に飲み込むことにした。吐き出すときは、全部を終えたその時だけでいい。
「ご、ごめん……待った、かな?」
「いいえ。来たばかりですとも」
そして、俺はこの時に辿り着いた。
待ち合わせの時間は、午後七時半。場所は駅前の大型書店。空には、少しだけ欠けた月が、美しく夜を照らしていて。
きっと、夜遊びするにはうってつけの天気だろう。
「すみません、早枝先輩。こんな夜に呼びつけてしまって」
「や、それ、は、別に、いいんだけど…………伝えたいことって、な、なに、かな?」
俺の呼び出しに応じてくれた早枝先輩は、私服姿だった。
ジーンズにパーカーというラフな服装ではあるけれども、驚くことに、早枝先輩の前髪が、髪留めによって留められている。これはとても珍しいことだ。やや、緑が勝った奇妙な瞳の色を隠したがっているので、早枝先輩は普段前髪を留めることは無い。精々、舞台の上で気合を入れて演じる時に留めるぐらい。
つまり、それなり以上に気合を入れて貰っている、ということでいいのだろうか?
「ええまぁ、告白しようかと思いまして」
「こきゅ!? こきゅは……!?」
なので、とりあえず揺さぶる。この言葉がどれだけ効果があるのか分からないが、早枝先輩は顔を赤くして、面白いほどに狼狽してくれた。
少なくとも、そう、見える。見えるが、俺にはそれが演技なのか、本気なのか判別できない。そもそも、彼女が本気の演技をしたら、俺の観察力では到底見破れないのだ。
「少し、歩きながら話しませんか?」
「は、はひ……っ!」
呼吸を整えろ、しっかりと路面を歩いていく感触を噛みしめろ。
怖気づくな。
迷ってもいい。でも、躊躇うな。
「俺は、早枝先輩のことを尊敬しています。多分、気付いていなかったと思いますけれど、実は、文芸部に入る前から、早枝先輩のことは知っていたんですよ、俺」
「……え? あの、なん、で?」
「だって、演劇部の勧誘活動に混ざって、フラッシュモブみたいなことやっていたじゃないですか」
「…………うあぁ、恥ずか、しい……うう、どうしても、って頼まれて……物凄いメイクを頑張って、正体、バレないようにしていた、のに……」
「大体の人は分からなかったと思いますよ? 現に、演劇部に入った一年生は全員、演劇部の誰かが早枝先輩の役……『優しい道化師』だったと思っていますから」
意識は早枝先輩から外さずに。
足は人気のない路地へと向かう。
「今でも気づいている人は少ないんじゃないですか? 早枝先輩、演技中だと人が変わるというか、物凄くはきはき喋りますからね。むしろ、普段はなんで、おどおどとした語り何ですか?」
「う、うう……だ、だって、演技中は、周りの人は、私じゃなくて、演技している『役』を見ている、から。舞台に立つのは恥ずかしい、けど……恥ずかしがって、下手な演技をした方が、恥ずかしい、から」
「素の自分を見せたくないんですねぇ、早枝先輩は」
「うん……だって、さ。素の、私なんて、おどおどとして、何にも自信が無くて、周りを伺っているだけの、気持ち悪い陰キャだし……」
俺は足を止めて、早枝先輩と向き合った。
じっとその目を見つめると、早枝先輩は頬を赤く染めてさっと視線を逸らしてしまう。
「そんなことはあり得ません」
「で、でも……」
「確かに、演技中の早枝先輩は凄いです。めっちゃ凄いです。演劇部でも……いいや、全国でも先輩の演技に敵う人なんてほとんど居ません。でも、だからと言って、素の先輩が気持ち悪いなんて、あり得ませんよ」
「だ、だって……」
「早枝先輩が、言葉を躊躇うのは、誰かを傷つけないか心配しているからです。早枝先輩が、周囲を伺うのは、誰かの気持ちを一番考えているからです。俺は、俺たち文芸部の面子は、それをよくわかっていますよ」
「…………むー、分かったような、口をー」
「ええ、何せ、思春期男子な物でして。勝手な妄想を膨らませています」
真っ赤に染まった頬にも構わず、こちらを睨む早枝先輩も姿は可愛らしい。理性が溶かされてしまいそうなほどの可愛らしさだ。普段、俺や飛鳥の相手をしてくれる面倒見のいい先輩が、こういう子供っぽい姿を見せると、どうしてこんなに可愛らしいのだろうか? 恐らく、これを世界遺産として登録しておけば、俺は後世の人々から偉人と称えられるだろう。
正直、いつまでも眺めていたいのだが、どれだけ心地良い時間があったとしても、それは終わらせなければならないのだ。
「なので、勝手に言います。これが俺の中にだけある貴方の虚像だったとしても、言わせてください。俺は、貴方のことを尊敬していますし、凄いと思っています。そして、慕っていますよ、早枝先輩。俺は貴方のことが好きです」
「…………あっ」
故に、それは早枝先輩へと近づいていく。
互いの体温が分かるほどに近づいて、じっと見つめながら顔を近づける。すると、早枝先輩は何かを察したように、ぎゅっと目を瞑り、震えながら唇を差し出して。
「――――現れろ」
とても無防備だったので、えいやと俺は右袈裟斬りで早枝先輩の肉体を斜めに両断した。
我ながら、淀みなく魔力を載せることが出来た良い一撃だったと思う。
「…………」
「…………あはっ」
二つに分かれて地面に倒れた早枝先輩は、しばしの間沈黙していたが、やがて、傷口から血の代わりにぼこぼこと大量の泥があふれ出していく。
『あはははははははっ!』
口から哄笑を響かせながら、体が……否、身に着けていた衣服が泥へと変化した。両断したはずの肉体も、半液状ならば関係ないとばかりにくっ付いて。
けれど、上半身だけは彫像の如く人間の姿を形成し直して、早枝先輩は俺に言った。
『――――今のはひどくない?』
至極まともな意見だった。
先ほどまで哄笑していたのに、言う時は真顔だったもんな。
「すみません! でも、俺は本気ですから!」
『どっちの意味で本気なの?』
「早枝先輩のことは本気で好きですが、本気で殺しますので、よろしく」
『サイコパスかな?』
「生粋の化物には言われたくありませんね」
『「あっはっはっは!」』
互いに笑い合いながらも、目は笑わず。
俺は退魔刀の切っ先を向けながら。
早枝先輩は泥を蠢かせながら。
「じゃあ、やりましょう」
『そう、だね……殺し合おうか』
月が綺麗な夜に、不死殺しを始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます