2月6日



 平日に通っている労働作業所で受けた、健康診断の結果が届いた。コー・ギーによって世界が終わっても、個人単位ではこうして日常(のようなもの)が続いている。ん? ということもあれど、もう慣れてしまった。なぜなら……なんて、感慨にふけっている余裕はなかった。中性脂肪が基準値を下回っていた。悪玉善玉コレステロール、血糖値などは普通なのに。C・要経過観察、という文字が燦然と輝く紙を手に、俺はぼうぜんと立ち尽くす。腹の肉をつまむと、むにょんとしたいつも通りの感覚が跳ね返ってくる。おかしい。なにかがおかしい。引っかかるなら、高くて引っかかると思っていたのに。

 たしか、低いとなにかの病気のサインではなかったか。一度そう考え出すと不安でいてもたってもいられなくなり、伝書コー・ギー(以後、おにくくんと記述)の散歩も兼ね、家から歩いて一〇分ほどの診療所に向かった。いつだったかの爆撃によって空いた穴で風通しがよくなっている待合室に入り、診察券を出す。今けっこう待ってて、一時間くらいかかると思いますがよろしいですか。眼鏡をかけた受付の人に言われ、少し迷ってうなずく。外にリードで留めておいたおにくくんを解放し、投げたボールを取ってこさせたり言語を教えたりしていると、あっという間に時間が経過した。


「ちょっと待っててね」

「はい」

 おにくくんをふたたび同じ場所で待たせて待合室に向かうと、程なくして名前が呼ばれた。そのままシームレスに診察室に入室し、持ってきた健康診断の紙を見せて、事の次第を医者に話す。なんか変わったことはあるかと聞かれたり、胸に聴診器を当てられたり、ベッドに寝かせられて腹を押されたりした後、まあ問題ないでしょうね、若いと特に他に異常がなくても中性脂肪低いってことはよくありますし、と言われて診察は終わった。それだけで、胸の中にはい回っていた漠然とした不安がすっといなくなっていく気がした。普段は夜中にものを食べたり夜更かししたりして体を痛めつけているのに、こういうときだけ健康に気を使うなんて滑稽だな。ほんの少しだけそう思ったが、支払いを終えておにくくんのリードをほどくころには、その考えは薄ぼんやりとし始めていた。


 そんな時だった。診療所の角の道から、右腕の肘から先がない男の人が、逆側の手で松葉杖をつきながらゆっくりと歩いてきた。腕やてのひらがあったはずのところには包帯がぐるぐるに巻かれており、よく見ると幾重にも重なったその布の中で、血の赤がほんの少しだけ透けていた。おそらく、コー・ギーにやられたのだろう。自警団やそれに準ずる組織の人ではなさそうだ。襲われたときに逃げ遅れてしまったのだろうか。コートのポケットに手を突っ込むと、先ほど医者に見せた健康診断の紙に指先が触れた。世界も、当たり前を軽んじたせいでこうなったのだろうか。


 ちょっと大回りをして道を譲り、そのまま帰路につく。ぺたぺた歩くおにくくんの尻を見ていると、視線に気づいたのか、彼がいちご柄のスカーフをはためかせながら振り返る。

「せっかくの散歩なのに。付き合わせてごめんね」

「いいよ」

 おにくくんの体のどこかから、機械音を無理やり日本語の形に固めたような声がした。おいで。手招きに応じ近寄ってきた彼の頭を撫でる。ふんわりとした毛の感触の奥に、血液と肉がうごめくことによってできた、たしかな温もりを感じる。






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