お題「生乾き」
(前回の続きから)
「クラスの鈴木さんを殺してください」
「へ?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
俺が言ってる意味を咀嚼するのにかかった数秒──いやもしかしたら数十秒かもしれない──の間、殺風景な部屋を更に真っ白に染めるような強烈な無音が続いた。そして、結局意味を咀嚼できなかった俺はとりあえず教師としてまず聞いておくと良さそうなことを「あー」と絞り出すような声で前置きしたから聞いた。
「……鈴木との間になにか問題があるのか?」
「いえ、特に何も」
俺は頭を抱えた。もう意味不明だった。本当に何もないのかもしれないし、その裏で鈴木への憎悪を隠すためにそう言ってるのかもしれないし、その裏の裏で隠してるふうを装って俺のリアクションを見て楽しんでるのかもしれないし、無限の可能性の分岐が頭を埋め尽くして脳がパンクしそうだった。
「本当に鈴木との問題はないのか……?」
「はい」
「じゃあなんで鈴木を殺してほしいなんて言ったんだ?」
「秘密です」
「言ったら俺が鈴木を殺してくれると思ってるのか」
「思ってません」
もう限界だった。中学生は最悪だ。高校教師になればよかった。でもドラマ「高校教師」も最後は生徒と心中してるし、もう幼稚園の先生とかになるのが正解だったのかもしれない。脳内でひまわり組のかわいい子どもたちに手を引かれかけたところで彼らを振りほどき慌てて現実の殺風景な部屋に戻ってくる。
「……とりあえずもう二度とそんな事を言うな」
「はい、わかりました」
そう言って彼女は本日二度目の微笑みを見せた。
一度目の家庭訪問は結局失敗に終わった。いや、もはやこれは家庭訪問の失敗ではない。赴任先の失敗である。いや、あるいは教師になるという選択自体が失敗だった。家庭訪問がこんな過酷な試練だとは思わなかった。
その日は他にふたつの家庭に訪問したが、何を話したか記憶にない。ただ、じっとりと汗の滲んだシャツが背中に張り付く感覚だけを覚えていた。
その日から、芒原のことが頭から離れなくなった。
翌日、件の鈴木の家にも家庭訪問に行ったが、芒原とはろくに話したこともないという。実際俺も鈴木と芒原が会話してるのは見たことがないし、芒原がいじめられてる様子もない。いや、教師に見えてないだけかもしれないが。
芒原との家庭訪問は別日に再設定され、俺はもう一度あのアパートに向かうことになった。秋の小雨が降る夕暮れにシャツを濡らされながら再びあの殺風景な部屋に通されたが、そこにはまたも親がいなかった。
「どういうことだ、芒原」
「先生はやっぱりいい人ですね」
これから叱ろうというときに突然年下の生徒に褒められ、情報がうまく処理できず「あえ」みたいな声が出た。
「先生は私が変な提案をしたときに、叱るより先に私のことを心配してくれた」
「そんなの教師として当たり前だ」
「その当たり前が出来ない大人がこの世にはたくさんいます」
そう言って彼女はおもむろに部屋を移動し、押し入れの前に立った。
「巻き込んだお詫びにお見せします」
そう言って彼女が押し入れを開くと、そこには巨大なタワー型コンピュータが立っていた。
「これは……」
「これは未来予知ソフト"ファラーシャ"です」
「未来予知……?」
突然SFでしか聞かない用語が飛び込んできて、またも当惑した。
「実は、今週3人の生徒が通り魔に殺される予定だったんです。なので、その未来を何らかの方法で変える必要がありました。そこでこのファラーシャが出した結論が、先生に「鈴木さんを殺してください」と伝えることだったんです。何故そうすることで通り魔が防げるのかはファラーシャの内部アルゴリズムの問題なので私はわかりませんが、先生が多くの生徒に触れる立場だからこそ何らかの影響が及んだのでしょう」
「そんな事突然言われても」
信じられるわけがない。
「では、こうしましょう。先生のその濡れたシャツ、帰ったら洗濯せずベランダに干してください。先生の家の近くで交通事故が起こりますが、そのシャツが周辺の環境に変化を与え、三人の命が助かります」
芒原の言うことを信じたわけではなかったが、その日のシャツはハンガーに掛け、言う通り部屋のベランダに干した。朝起きると車が向かいの家に突っ込んでいたが、けが人はいなかった。恐ろしい気持ちになった。
もしかしたらあのコンピュータはこの世にあるべきものではないのではないか。破壊するべきものなのではないか。いずれにしてももう一度芒原と話をつける必要がある。
◆
芒原幽香はタワー型コンピュータのコンセントを抜くと、大きくため息をつき、スマホのアプリを開いた。リフレッシュ画面にはこう表示されている。
バタフライエフェクト計算アプリ「ファラーシャ」
そして画面にはこう表示されていた。
「62.家庭訪問に来た佐藤先生の「鈴木さんを殺してください」と伝える
63. タワー型コンピュータを購入し、それが"ファラーシャ"であり、人命を救うために使うものだと説明する」
「いや、思えば遠くまで来たなあ」
そういって芒原はくるくると画面をスライドし、リストのトップまで遡った。
そしてリストのはじめまで言って画面は止まった。
「ゴール 佐藤先生と結婚する 現在63/13295
1. 母親を殺す」
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