3

 休憩時間になった。

 タカギがティーカップとポットをトレーに乗せて、部屋にやってくる。

 彼のタイミングのようさに、私はもはや驚かなくなっていた。


 彼はいつものように、ワゴンの上で紅茶をティーカップに入れる。

 そして私とクドウ氏に、カップを渡してくれる。 

 それを終えると、ポットをトレーごとその場に残して、タカギは部屋を出て行った。


「そういえば、あの件について考えてみてくれたかい」


 紅茶を一口に含んだ後。受け皿にカップを戻すと、クドウ氏が言った。


「あの件?」


「ほら、君の死について考えてみてくれないかと。君に言ったじゃないか」


「……ああ。そのことですか」


 すっかり忘れていた。今の今まで。クドウ氏に言われるまで、ちらりとも思考に浮かび上がることはなかった。

 それが顔に出たのか、クドウ氏は苦笑しながら、ため息をついた。


「なんだ、忘れていたのか」


「色々とやることが多くて、つい。……すみません」


 クドウ氏の遺影に始まり、ヨシノさんの相談、そして新たに追加されたサチエ夫人の依頼。

 ここ数週間の間に、色々とイベントが建て込みすぎている。

 多くのことを並行してできるほど、私は器用ではない。

 それをやろうとすれば、私は思考停止に陥って、何も手がつけられなくなる。


 そのために些末なことを忘れたり、後回しにしたりすることがある。

 どうやら私の脳は、知らぬ間に彼の頼みを些末なことを捉えたようだった。

 もちろん、他ならぬクドウ氏の頼みなのだから、一考の余地はあるだろう。

 とはいえ、真剣に考えるべきものかは、いまだに判断がつかなかったが。


「それなら、仕方ないな」


 落胆のため息をつくと、クドウ氏はまた紅茶を口に含んだ。

 クドウ氏はそれについて語らいたかったようだ。

 私としては助かった気持ちでいっぱいだった。

 私はクドウ氏ほど死に興味があるわけではない。

 そんな女の死への見解を聞いたところで、彼が心から楽しめるかは定かではない。


 クドウ氏が口をつぐんでから、静かに時が流れていく。

 紅茶を飲むだけの、優雅なひととき。

 少し前のまでの自分ならあじわうことなかった、贅沢な時間。

 そこに水を刺すように、私の脳が余計な疑問を生みだした。


「クドウさんって、いつから死について考えるようになったんですか」


 つい口を出た疑問は私の耳に入り、ハッとさせた。

 一体自分は何を聞いているんだ。そんなことを聞いてどうする。

 訂正しようとクドウ氏の顔を見たが、彼の口はすでに動き始めていた。


「高校に入ってからだね。在学中に父が亡くなってしまって、それから死を考えるようになった」


「そうなんですか」


 良かった。話題が終わってくれた。

 かと思ったが、ここからさらに広がりを見せる。


「そうだ、君は死後の世界について考えたことはあるかい」


「はい?」


 パンと手を叩いた彼の口から、とっぴな質問が飛んできた。

 まるで好きな映画とか好きな小説とかを尋ねるような、そんな気軽さだった。

 だが、その内容はあまりに気軽とはかけ離れていた。


「ありませんよ。そんなの」


「じゃあ、人の臨死体験を聞いたことは」


「……まあ、テレビで何度か」


 一昔前に、オカルト番組が特集を組んで、その手の話題でコーナーを設けていた。


「死後の世界は人間にとって永遠の謎であり、果てなきロマンだ。自意識が死によって終幕を迎える瞬間。はたまた最後の瞬間を迎える一歩手前の瀕死の時間。その瞬間のみ垣間見ることのできる、最後の光景」


 カップを受け皿ごとテーブルに置くと、両肘を膝の上に置いて、体を前のめりにさせる。


「走馬灯と言う言葉は、知っているかね」


「聞いたことはありますよ」


 人生の最後に見る、人生の光景のあらましで構成された映像。

 よく映画などで、キャラクターが私の間際に、かつての幻影を見る場面が登場する。

 それは観客に感動を与え、あるいは絶望へのトリガーのように作動する。

 走馬灯の仕組みについては、私の知るところではない。

 けれど、昔から人間は死の間際に、そう言った映像を見ることになると言われていた。


 私が返答すると、クドウ氏はにやりと笑った。


「自分の記憶をフィルム映画の様に瞬く間に鑑賞する。あれもまた、死後の世界とも言える。人間を構成するものは、肉体と記憶なのだと言う説もあったりするから、記憶は人間にとって貴重なものなんだろうさ」


 死の次は人間についての話か。

 今日のクドウ氏の口は、少し哲学的な話題が多い様だ。

 むろん私が好き好んで聞きたいわけではないけれど。


 昼休み前。または終業間近の生徒よろしく。

 私は時計を見て、早くこの時間が終わらないものかと、内心で願ってしまった。


「走馬灯は記憶によって形作られている。記憶が死後の世界を作るのであれば、記憶によって作られると言う夢もまた、死後の世界の片鱗なのではないか。私は時々そう考えることがあるんだ」


「それはまた、突飛な話ですね」


 なるべく内心が出ないように努めたが、完璧にできた様な気はしなかった。

 なんだか、クドウ氏に対する遠慮が、著しくなくなりつつある気がした。

 私は表情を誤魔化すために。

 それに余計なことを喋ってしまう前に。

 紅茶をすすり、口元を隠した。


「臨死体験だってそうだ。肉体の損傷など通常の眠りとは形は違うかもしれないが、人間の脳が働いたことで出現した夢なのかもしれない。夢を見る私たちは、もしかしたらとっくの昔に死んでいて、走馬灯を見ている最中なのかもしれない。それは私かもしれないし、君かもしれない。あるいはここにいない誰かか、それとも身も知らない他人が空想した存在が、人形の様に操られて、会話を続けさせているのかもしれない」


 クドウ氏は私の顔を見てはいるが、その実、私の存在など意識していない様だった。

 言葉に意識を集中し、まるで壁に向かって語りかける様に口を動かし続ける。

 私も理解しようと考えても見たが、やはり理解には及ばない。

 数学の数式のように、読めるけれど理解ができないような、妙な感覚に陥った。


「死とは何かを考えると、おのずと生とは何だと考えることになる。面白いものだよ。どれだけ考えたところで、生と死を理解することはできない。もし理解する人間が現れたとしたら、それは……」


 興奮した口調で、クドウ氏は長々と話をしていた。

 そして視線を動かした、瞬間。

 クドウ氏の目がはっきりと私を捉えたとわかった。


 クドウ氏の瞳が揺らめいたのがわかった。

 それが彼が私に見せた、初めての動揺だった。

 

「これは、すまなかった。戯言だと思って聞き流してくれ」


 気まずげに顔を逸らすと、カップを手にとって紅茶を飲み込む。

 お茶を濁す。というのかどうか。

 だが、カップから口を離しても、表情の険しさが取れることはなかった。


「作業に、戻ろうか」


 こんな弱々しいクドウ氏を、初めて見た。

 熱っぽく語っていた彼と、今の彼の温度差に、私の方にも戸惑いが移ったような気がした。

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