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「奥様、先生。こちらにいらっしゃいますか」


 ふいに、梯子の方からタカギの声が聞こえてきた。


「どうかしたの」


 サチエ夫人が声を張り上げた。


「梯子が降りていましたので、誰かいるのかと気になったのです。……あの、どうしてそこに」


「画家先生を屋敷の中を案内してたのよ。そのついでに、ここを見せようと思って」


「メイドや私に言ってくだされば、奥様のお手間は取らせなかったのですが」


「いいわよ。どうせ暇だったし、先生と屋敷をぐるっと出歩くのも楽しかったから。……ねぇ、先生?」


 サチエ夫人は私の顔を覗いてくる。


「え、ええ」


 おずおずとだが同意した。

 気を使うこともあったが、確かに彼女との探索は楽しかった。

 タカギにも聞こえるように、やや声を大きくした。


「そうでしたら、いいのですが」


「で、どうかしたの」


「先生に頼まれていたものが届きましたので、お呼びにまいりました」


「届け物?」


 サチエ夫人が私を見た。

 何のことか説明して。

 彼女の目はそう訴えているように見えた。


「タカギさんに頼んでおいたんです。絵具が少し足りなくなってたので」


「ああ、なるほど……わかった。今から降りるわ」


「かしこまりました。では、玄関にてお待ちしております」


「ええ。ありがとう」


 タカギの足音が離れ、ついには聞こえなくなった。


「降りましょうか」


 サチエ夫人は言った。その顔は少し残念そうだった。

 梯子を降りて、私たちはまたクドウ氏の部屋に降り立った。

 外は、すっかり茜色に染まっていた。

 太陽は西へと傾き、山の隙間からわずかに顔を覗かせている。

 赤と紫の間。夕暮れに染まった空を、カラスたちが鳴きながら、どこかの山へと飛んでいく。


「探索も、これで終わりね」


 遠くから聞こえた5時の音色が、サチエ夫人の言葉に寂しさをまとわせる。

 カラスの子。

 カラスと一緒にかえりましょう。

 音色は知っているが、憶えている歌詞は、その一節しかないことに私は気づいた。


「今日はありがとうございました」


「いいのよ。私も楽しかったし、いい暇つぶしになったわ」


 うんと背筋を伸ばして、サチエ夫人は息をついた。

 部屋を出ると、サチエ夫人はポケットを弄り、細長いスティック状の何かを取り出した。

 まるで眉ペンのようだとも思ったが、わざわざそれを単体で持ち歩いているわけもないから、おそらくは違うのだろう。


 サチエ夫人はスティックの蓋を慣れた様子ではずした。

 蓋に隠されていたのは、銀色のストローのような部品だった。

 それで私はピンときた。電子タバコVAPEだ。

 スティックの表面には残量を知らせる小さなスクリーンがあり、その下には小さな電源ボタンまである。

 謎の物体の正体がわかると、それを証明する部分が急に目につくようになった。


 窓の施錠を解いて、サチエ夫人は窓を開いた。

 ヒヤリとした夕暮れの風が肌を撫でる。電子タバコの電源を入れ、彼女の唇が吸い口を挟む。

 数秒の吸引。そして吸い口を離し、濃い煙を外に向かって吐き出した。

 白煙は風に争いながら外に進み、広がり、北の方へと流れていく。


「タカギのところに行ってあげたら。待ってるわよ、彼」


 つまらなそうに外を眺めながら、彼女は言う。

 その姿はどこか退廃的で、楼閣の遊女とか、人気のない酒場街に立つたちんぼの女性とか。そういう女性を彷彿とさせる。

 もちろん、実際の彼女たちの姿を見たことはない。

 あくまでも印象。私の脳内が見せた彼女のイメージ幻想に過ぎない。


「サチエさんは、どうされますか」


「このまま部屋に引っ込んで、夕食まで仮眠でもとることにするわ。ちょっと疲れてしまったから」


「そうですか」


 サチエ夫人は、一体何歳なのだろう。

 私より年上のようにも見えるし、顔出しのおかげで若くも見える。

 けれど時折見せる悲しげな表情は、荒波に揉まれて擦れきったマダムのような雰囲気もある。

 結局、彼女の見た目から年齢を想像することはできない。

 年齢不詳の美女。

 ただ、年齢を知ったところで、何になるわけでもないけれど。


「じゃ、私はこれで失礼します」


「ええ。また後で」


「……ええ、また」


 サチエ夫人に頭を下げて、私は階段を降りる。

 また、後で。お別れではなく、再会が決まり切っているような、別れの挨拶。

 それも当然のことだろう。

 この屋敷にいる限りは、彼女と顔を合わせる頻度も自然と高くなる。

 なのだが、できればすぐには会いたくはなかった。


 彼女と話していると、クドウ氏以上に気を使ってしまうのだ。

 理由は自分でもよくわからない。

 たぶん彼女の口調と言い、態度といい。

 サチエ夫人との行動の間中、私自身でも気づかないうちに、心が疲弊してしまうのかもしれない。

 いわゆる、相性が悪い相手。というやつだ。


 1階に降りていくと、エントランスにタカギが待っていた。

 彼は私がエントランスの床を踏むと同時に、こちらにやってくる。

 彼の手には小ぶりの段ボール箱があった。


「こちらでお間違えはありませんか」


 箱の中には私が注文した通りの品が入っていた。

 一応取り出して見たが、指定した色。それにメーカーもいずれも間違っていない。


「ありがとうございます。これで大丈夫です」


 私が答えると、タカギは安堵のため息をついた。


「では、こちらも会場の方へお運びいたします」


「はい、お願いします」


 タカギはうなずき、段ボール箱をもって奥へと下がっていく。

 彼の背中を目で追いながら、視界の端に系統樹を捉えた。

 視線を動かし、系統樹の足元から天辺を見上げる。

 私を人間Humanumが見下ろしている。

 そこに初めて、私はこの系統樹が気に食わないと思った。

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