9
「奥様、先生。こちらにいらっしゃいますか」
ふいに、梯子の方からタカギの声が聞こえてきた。
「どうかしたの」
サチエ夫人が声を張り上げた。
「梯子が降りていましたので、誰かいるのかと気になったのです。……あの、どうしてそこに」
「画家先生を屋敷の中を案内してたのよ。そのついでに、ここを見せようと思って」
「メイドや私に言ってくだされば、奥様のお手間は取らせなかったのですが」
「いいわよ。どうせ暇だったし、先生と屋敷をぐるっと出歩くのも楽しかったから。……ねぇ、先生?」
サチエ夫人は私の顔を覗いてくる。
「え、ええ」
おずおずとだが同意した。
気を使うこともあったが、確かに彼女との探索は楽しかった。
タカギにも聞こえるように、やや声を大きくした。
「そうでしたら、いいのですが」
「で、どうかしたの」
「先生に頼まれていたものが届きましたので、お呼びにまいりました」
「届け物?」
サチエ夫人が私を見た。
何のことか説明して。
彼女の目はそう訴えているように見えた。
「タカギさんに頼んでおいたんです。絵具が少し足りなくなってたので」
「ああ、なるほど……わかった。今から降りるわ」
「かしこまりました。では、玄関にてお待ちしております」
「ええ。ありがとう」
タカギの足音が離れ、ついには聞こえなくなった。
「降りましょうか」
サチエ夫人は言った。その顔は少し残念そうだった。
梯子を降りて、私たちはまたクドウ氏の部屋に降り立った。
外は、すっかり茜色に染まっていた。
太陽は西へと傾き、山の隙間からわずかに顔を覗かせている。
赤と紫の間。夕暮れに染まった空を、カラスたちが鳴きながら、どこかの山へと飛んでいく。
「探索も、これで終わりね」
遠くから聞こえた5時の音色が、サチエ夫人の言葉に寂しさをまとわせる。
カラスの子。
カラスと一緒にかえりましょう。
音色は知っているが、憶えている歌詞は、その一節しかないことに私は気づいた。
「今日はありがとうございました」
「いいのよ。私も楽しかったし、いい暇つぶしになったわ」
うんと背筋を伸ばして、サチエ夫人は息をついた。
部屋を出ると、サチエ夫人はポケットを弄り、細長いスティック状の何かを取り出した。
まるで眉ペンのようだとも思ったが、わざわざそれを単体で持ち歩いているわけもないから、おそらくは違うのだろう。
サチエ夫人はスティックの蓋を慣れた様子ではずした。
蓋に隠されていたのは、銀色のストローのような部品だった。
それで私はピンときた。
スティックの表面には残量を知らせる小さなスクリーンがあり、その下には小さな電源ボタンまである。
謎の物体の正体がわかると、それを証明する部分が急に目につくようになった。
窓の施錠を解いて、サチエ夫人は窓を開いた。
ヒヤリとした夕暮れの風が肌を撫でる。電子タバコの電源を入れ、彼女の唇が吸い口を挟む。
数秒の吸引。そして吸い口を離し、濃い煙を外に向かって吐き出した。
白煙は風に争いながら外に進み、広がり、北の方へと流れていく。
「タカギのところに行ってあげたら。待ってるわよ、彼」
つまらなそうに外を眺めながら、彼女は言う。
その姿はどこか退廃的で、楼閣の遊女とか、人気のない酒場街に立つたちんぼの女性とか。そういう女性を彷彿とさせる。
もちろん、実際の彼女たちの姿を見たことはない。
あくまでも印象。私の脳内が見せた彼女の
「サチエさんは、どうされますか」
「このまま部屋に引っ込んで、夕食まで仮眠でもとることにするわ。ちょっと疲れてしまったから」
「そうですか」
サチエ夫人は、一体何歳なのだろう。
私より年上のようにも見えるし、顔出しのおかげで若くも見える。
けれど時折見せる悲しげな表情は、荒波に揉まれて擦れきったマダムのような雰囲気もある。
結局、彼女の見た目から年齢を想像することはできない。
年齢不詳の美女。
ただ、年齢を知ったところで、何になるわけでもないけれど。
「じゃ、私はこれで失礼します」
「ええ。また後で」
「……ええ、また」
サチエ夫人に頭を下げて、私は階段を降りる。
また、後で。お別れではなく、再会が決まり切っているような、別れの挨拶。
それも当然のことだろう。
この屋敷にいる限りは、彼女と顔を合わせる頻度も自然と高くなる。
なのだが、できればすぐには会いたくはなかった。
彼女と話していると、クドウ氏以上に気を使ってしまうのだ。
理由は自分でもよくわからない。
たぶん彼女の口調と言い、態度といい。
サチエ夫人との行動の間中、私自身でも気づかないうちに、心が疲弊してしまうのかもしれない。
いわゆる、相性が悪い相手。というやつだ。
1階に降りていくと、エントランスにタカギが待っていた。
彼は私がエントランスの床を踏むと同時に、こちらにやってくる。
彼の手には小ぶりの段ボール箱があった。
「こちらでお間違えはありませんか」
箱の中には私が注文した通りの品が入っていた。
一応取り出して見たが、指定した色。それにメーカーもいずれも間違っていない。
「ありがとうございます。これで大丈夫です」
私が答えると、タカギは安堵のため息をついた。
「では、こちらも会場の方へお運びいたします」
「はい、お願いします」
タカギはうなずき、段ボール箱をもって奥へと下がっていく。
彼の背中を目で追いながら、視界の端に系統樹を捉えた。
視線を動かし、系統樹の足元から天辺を見上げる。
私を
そこに初めて、私はこの系統樹が気に食わないと思った。
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