6

 残念なことにサチエ夫人の姿は、食堂にはなかった。

 食堂のドアを開くと、メイドたちが食器類を片付けていた。

 私の丼と小鉢と小皿。それにクドウ夫妻のティーカップが、同じワゴンの上に乗せられている。

 

「じゃ、持ってちゃいますね」


 若いメイドが声を上げた。

 彼女は仲間の返事を聞かないまま、ワゴンを私の方にやってくる。

 ふとメイドの彼女が、私に気づいた。

 軽く会釈をしてきたから、私もそれにならって会釈をする。

 それから私は脇にどいて、彼女に道を譲った。

 メイドはまた軽く頭を下げると、私の前を通って廊下に出てきた。


「サチエ夫人がどこに行ったか知らない?」


 メイドに声をかけると、彼女は露骨に表情を曇らせた。

 面倒くさい。あるいは関わりたくない。

 そういうマイナスな感情が、彼女の面のしたから現れる。


「さぁ。お部屋に戻られたのではないですか」


 肩をすくめながら、さもどうでもいいと言いたげにメイドは言う。

 仮にも自分の雇主の家族だと言うのに、そこに敬意といったものは感じなかった。


「そう……夫人の部屋はどこ?」


「階段を上がって左側3つ目の部屋です。もういいですか、これでも忙しいんですよ」


「ええ。ありがとう」


 メイドは軽く頭を下げ、ガタガタとワゴンを揺らしながら廊下を進んでいく。

 メイドにもいろんなタイプがいるものだ。彼女しかり、私の案内を勤めてくれたメイドしかり。

 この屋敷には年齢も性格も違うメイドがいるのだから、それも当然なのかもしれない。

 もっともサチエ夫人のことを聞いたから、あんなつっけんどんな態度になったのかもしれないが。


 階段は、確かエントランスの方にあったはずだ。

 食堂の中では今もメイドたちが忙しなく動いている。

 テーブルの面を拭き、縁を拭き。椅子の座面や背もたれの縁までも念入りに拭っている。

 まるで用意周到な犯罪者が犯罪の証拠を消すかのように掃除をしている。


 このご時世のために、彼女たちの清掃はより徹底されているようだ。

 これはうがった見方かもしれないが、とりわけサチエ夫人のいた場所の清掃は、念が入っているように見えた。


 彼女たちの姿を横目にしながら、私は廊下を進んだ。

 向かったのはもちろんエントランスだ。

 そこを経由して、階段を上ってサチエ夫人に声をかけよう。

 もしすれば、サチエ夫人はすでにエントランスで待っているかもしれない。

 時間より早く待っているタイプには見えないから、あまり期待はできないけれど。


 しかし、私の予想に反して彼女はエントランスにいた。

 系統樹の足元には、いつの間に用意したのか、折りたたみ式の椅子が一脚用意されている。

 彼女は系統樹に向き合うように座っていた。

 彼女の手には色あせた文庫本があった。

 サチエ夫人の指がページを繰り、ぱらりと小さな音をたてた。


「早かったのね」


 本に視線を落としながら、サチエ夫人が言った。


「ええ。タカギさんたちが、昨日のうちに運び出してくれたみたいで」


「そう。それはよかったじゃない」


 サチエ夫人は顔を上げながら、本を閉じた。


 ライ麦畑で捕まえてキャッチャー・イン・ザ・ライ


 J.D.サリンジャーの翻訳小説だ。

 サチエ夫人に読書趣味があることに意外に思ったが、読んでいる姿も作品も、どこかしっくりとくるから不思議だ。


「変な彫刻よね」


 サチエ夫人はため息を着きながら、目の前の系統樹を見上げた。

 その目は彫刻を愛でるというより、理解できない何かを眺めるような、忌避と疑念が入り混じっている。


「そうでしょうか。私はすごい作品だと思いますけど」


 天井近くまである、巨大な木樹を象った彫刻。

 壁画としてもそうだが、ここまで大きな彫刻が掘られた屋敷なんて、そうそうあるわけじゃない。

 ましてや数あるモチーフの中でも、系統樹を選ぶ人間が、果たしてどれだけいるか。


「クドウさんが作らせたんですよね」


「そうよ。あの人の家だから、あの人の趣味が現れたって文句はないわ。けど、これはあまりにあの人の趣味が出ててね」


「趣味?」


「木のてっぺん、見てみなさい」


 サチエ夫人の手が鎌首をもたげ、白い指が系統樹の頂点を指差した。

 美人は顔や肉体だけでなく、指の先にまで優美さを漂わせている。

 彼女の指と比べて、私の手は無骨すぎる。

 それは世の大多数の女性がそうだろうと思う。

 別に女性たちを貶しているわけじゃない。

 ただ、生きる世界が違えば人の形も変わるというだけのことだ。


 ごく小さな嫉妬と美への感嘆。

 彼女の指に魅入られながら、彼女のいう頂点に目を向ける。

 動物、植物の枝葉が伸びる中。

 偉大なる樹木の頂点に君臨しているのは|Humanumの文字。

 確かラテン語で、人間という意味があったはずだ。


「生物の頂点が人間だなんて、おこがましいとは思わない?」


 サチエ夫人は私をみて、そしてニヒルな笑みを浮かべた。


「あれは、クドウさんの意思なんでしょうか」


「さてね。あの人の趣味かもしれないし、職人が勝手に付け加えたのかもしれない。どっちにしろあの人が許してるんだから、あの人の意思といって過言はないでしょ」


 つまらなそうにいうと、サチエ夫人は肩をすくめる。


「ちょっと脳みそがでかいだけの生き物のくせに、それだけで頂点に立ったような気持ちでいるのよ。まあ、あの人だけじゃなく、ほとんどの人間が無意識に思っているんでしょうけれど。そういう無意識のエゴイズムみたいなのが、あれから感じられてね。あんまり好きになれないのよ」


 サチエ夫人はため息をついた。


「つまらないことを言ってごめんなさいね。いきましょうか」


 サチエ夫人は系統樹に背を向けて歩き去っていく。

 歩調は早く、まるで系統樹から一刻も離れたがっているように思えた。

 私は系統樹を(サチエ夫人にすれば、人間のエゴイズムを見せつけるだけのものを)見る。


 サチエ夫人の言い分も理解できないことはない。

 けれど、私はそんなことよりも、やはり意匠に目を奪われるし、職人の腕の良さに舌を巻いた。

 好き嫌いはあってもいいと思うが、サチエ夫人のような拒否反応は、私にはなかった。

 それが彼女の言う無意識のエゴイズムだと言われれば、私には否定することはできないが。


「何をしてるの」


 廊下で立ち止まった彼女がこちらを振り向いて言った。


「すみません。今行きます」

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