5
サチエ夫人と別れた後、私は真っ直ぐに会場の部屋に向かった。
と言っても、今ではその部屋は会場ではなくなった。
幼いクドウ氏が過ごした、ホコリと記憶が残る部屋。
部屋の内装といい、本棚の中に並んだ書籍といい。
あんな部屋を幼い少年に与えて、一体どういう子供にしようとしていたのだろうか。
クドウ氏の父親、近寄りがたい寡黙な男の思考が少し気になった。
もしも死について好奇心大盛にしたかったのであれば、それは見事に成功したと言えるだろう。
そういえば、次の会場の場所を聞いてなかった。
せっかくクドウ氏が移動すると教えてもらったのだから、その点を聞いておけばよかった。
ただ、すぐに気は取り直せた。
タカギでも捕まえて聞き出せば、どうにかなるだろう。
食堂から子供部屋まで。何度のなく通った廊下を歩き進む。
部屋が見えてきた。先に先客がいるようだった。
部屋のドアは外に向かって開け放たれている。
換気のため、ではないだろう。その証拠に作業着を着た灰色の背中が、部屋から出てきた。
「これも運んでくれ」
聴き慣れた声。
灰色の背中の後に、タカギが部屋から出てきた。
「タカギさん」
私が声をかけると、タカギのこっちに顔を向けた。
「ああ、先生」
タカギはにこりと笑いながら、頭を下げた。
彼の背後には2人の男が出てきた。
その男が使用人で、クドウ氏と掃除をしていた2人だと気づくのに数秒かかった。
2人の手には私のカバンと、イーゼルを入れた袋があった。
「どこかに持っていくんですか」
「ええ。会場の方に」
「というと、次の絵を描く部屋ですか」
「ええ。お仕事以外で、先生にご苦労をかけるわけにはいきませんから」
さも当然のように言うが、私は少し困惑した。
荷物を運ぶくらい、別に大したことでもないと言うのに。
ありがたくないわけではないが、こうも自分知らないところで荷物を運ばれると調子が狂ってしまう。
「どうかなされましたか」
「いえ、なんでもありませんよ」
タカギはあくまでも親切心からやってくれているのだ。
感謝こそすれど、責めるのはお門違いだ。
腹に据えかねているのも、私自身のわがままに過ぎないし、そのせいでタカギを傷つけるわけにはいかないだろう。
「……あら?」
タカギの背後。使用人たちのさらに奥。
廊下の突き当たりの大扉から、1人のメイドが現れた。
それだけなら、まだ大したことではない。
ただ彼女の手に大きな花束が。
それも長い間放置されたような、枯れた花束だったのが、少し気になった。
「ああ、あの部屋は旦那様の聖域ですよ」
タカギが私の視線を追って、あの大扉の部屋を見た。
そして、聴き慣れない言葉を口にした。
「聖域って……」
「旦那様のご遺体を、安置する場所です」
「……ああ、なるほど」
軽い衝撃を受けて、昼食の心地いい温もりがスッと冷めていく。
あの絵がクドウ氏の遺影であり、彼が2年後に自殺をすること。
意識しなければついつい忘れてしまう。
私がこの場所にいる理由を。
そして私が絵を描いている理由を。
「聖域と言っても、パルテノンやローマのような荘厳な部屋ではありませんよ。棺と、先生の絵画を飾る額縁があるだけの、それだけの部屋です。私としてはもう少し飾り付けをしたいのですが、旦那様は過度な飾りは必要ないと申されまして」
タカギは残念そうに肩をすくめる。
「旦那様は、あまり小物に興味がないのです」
返答に困った私は、苦笑いを浮かべやんわりとお茶を濁した。
「それでは、私はこれで失礼します。こちらは大切に保管させていただきますので、ご安心を」
いいながら、タカギは視線で使用人に合図を送る。
使用人たちはうなずき、私に会釈を送ると止めていた足を動かした。
「ああ、あと一ついいですか」
「なんでしょう」
「絵具を買い足してもらってもよろしいですか」
「かしこまりました」
タカギはポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。
それを待ってから、インクの種類とメーカーとを彼に伝える。
ボールペンを走らせ、私の注文を一字一句謝らず、最後には反芻して確認をとった。
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
タカギはメモ帳とボールペンをしまい、頭を下げる。
そして、今度こそ使用人たちとともに、廊下を歩き去っていった。
彼らが廊下の奥へと進むと、タカギも彼らを追って私から離れていく。
「……予定、なくなっちゃった」
タカギの背中かが曲がり角に消えたあたりで、私はポツリと呟いた。
わずかばかりの希望を持って、部屋を見る。
中はきれいに整理されていた。
椅子も、キャビネットも、イーゼルを入れた袋も、仕事鞄もない。
カーペットにつけられた椅子の跡だけが、仕事の名残として残っているだけだった。
カーテンで覆われた室内は薄ぐらく、昨日のような明るさはなかった。
油絵を乾かすには、日光は避ける必要がある。
劣化が激しくなり、黄色く濁った色に変化する危険があるからだ。
1日2日で乾くものもあれば、クドウ氏の遺影はそのスパンでは乾くものではない。
最低でも半年、長くて一年。
乾きやすいの画溶液を混ぜてあるから、もう少し早くかもしれないが、それでも完璧に乾燥させるには、それくらいの期間は必要だ。
開かれたドアを締め、私は少し考えた。
結果、食堂に戻ることにした。
ここに立っていても仕方がないし、今から戻ればサチエ夫人もまだいるかもしれない。
予定とは違うが、すぐに案内をしてもらった方が終わるのも速いし、サチエ夫人の手を煩わせる時間も減らせるだろう。
そうと決まれば、行動は迅速にだ。タカギたちが消えた方とは別に、私は踵を返し、元来た道を引き返した。
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