4
「嫌われてるのよ。私」
サチエ夫人は食堂に入ってくるなり、私の横の席について、頬杖をついた。
悪態というほどでもないが、昨日の上品さはどこか影を潜めていた。
これが本来のサチエ夫人なのだろうか。
「嫌われてるというと、タカギさんにですか」
「ここの家の人間全員によ。タカギやメイドたちも含めてね」
サチエ夫人はちらと、壁に控えたメイドたちを見た。
彼女たちはサチエ夫人の視線に気づくと、そっぽを向き、なるべく視線を合わせないように心がけた。
そしてサチエ夫人が視線をそらすと、視線を見合わせひそひそとやりとりしていた。
その転身ぶりは、私の目は滑稽に映った。
できの悪いコメディ作品のような、あからさまな拒否と嫌がらせ。
が、彼女らにとっては特段気にするものではないらしい。
私の視線に気づいても、彼女たちの目と口は動き続けていたのだから。
「どうして嫌われてるんです」
「なんでかしらね。あの人の目を盗んで、男と逢瀬を交わしているから。それとも、この家の空気に染まりきらない私の姿が悪いのかしら。ねえ、どうしてだと思う」
サチエ夫人は試すような視線を、私に向けてくる。
私に聞かれても困る。
他人の家の内情に詳しいほど、私は覗き趣味を嗜んでいるわけではないのだから。
私はその通りのことを、サチエ夫人に伝えた。
サチエ夫人も、悪い顔はしなかった。
ただつまらなそうに、ため息をついて背もたれにもたれただけだ。
「色々とあったから、仕方ないのよ」
「色々、というのは」
サチエ夫人は目をつむり、口を閉じた。
眉間には彼女には似合わないシワが、くっきりと浮かぶ。
話したくないことは、その態度だけで十分わかった。
「すみません、不躾でしたね」
「いいの。気にしてないわ」
サチエ夫人は目を開くと、私の方を見て微かに笑った。
私の気を少しだけ害したことへの、心ばかりの謝罪だろう。
もっとも、彼女の声の響きには無機質に聞こえたが。
「人には誰でも、他人にいえないことの一つや二つはあるわ。でも、ずっと言えないでもない。もしかしたら、私の気が向いたら話すかもね」
サチエ夫人は肩をすくめて、鼻でため息をついた。
それはきっとだいぶ先になるだろうし、今すぐというわけでもないだろう。
それなりに私とサチエ夫人が親しくなり、その後に話すかどうかの判断をするはずだ。
もっとも、私がサチエ夫人と親しくなった姿を想像できはしなかったけど。
ドアが開かれ、タカギが戻ってきた。
その手にはコーヒーカップをのせたトレーを持っている。
キビキビと歩いてくると、彼はサチエ夫人の横に立つ。
「失礼いたします」
頭を下げると、タカギは受け皿に乗ったカップを、サチエ夫人の前に置いた。
「ありがとう。あとは勝手にやるから。下がっていてくれて構わないわ」
「かしこまりました」
タカギはまたも頭を下げると、すぐさま踵を返した。
メイドたちに視線を配ると、彼女たちもまた私たちに頭を下げる。
スタスタと出入り口に向かっていくと、室内にいる私たちに頭を下げてから、部屋を出ていく。
最後にタカギが頭を下げ、ドアを締めつつ出て行った。
「相変わらず、コーヒーを淹れるのが上手ね」
コーヒーに一口含むと、サチエ夫人は感心するように言った。
「今日は、貴女はどうするの?」
受け皿にカップを置くと、サチエ夫人の目が私に向いた。
「道具を次の部屋に運び入れようかと。クドウ氏はいませんが、次の絵の準備だけでもした方がいいかと思って」
「そう。それが終わったら、予定はあるかしら」
「そうですね……」
外出するという手もあるが、私は生粋の出不精という自負がある。
外出することはあまり好きじゃないし、依頼でなければ、出かけるという面倒な手段はとらない。
仮に出かけたとしても、この近辺にこの屋敷以上に目新しいものがあるとも思えなかった。
「部屋に戻って、一日中ごろごろしていようかと思います」
「それはもったいないわよ」
言いながら、サチエ夫人は頬杖をついた。
ニヤついたその顔には、いたずら心が見え隠れしている。
何かを企んでいるに違いない。嫌な予感を覚えていると、サチエ夫人の口が動いた。
「よかったら、私が屋敷を案内してあげようか」
意外な提案だった。
私のわがままに付き合えだの。私の命令を聞けだの。
そういう召使い扱いされるような何かを、吹っかけられるのかと思っていた。
サチエ夫人への偏見が、私に妙な印象を与えているからかもしれない。
頭ごなしに何かを命令する。そんな傍若無人な態度が、彼女には似合うような気がしたのだ。
少し肩透かしを食らった気分になりながら、私はサチエ夫人を見た。
「それはありがたいですが。その、よろしいんですか。そんなお手間をとらせてしまって」
「いいのよ。どうせ屋敷にいてもやることなくて、暇なだけだしね。……道具は、どれくらいで片付くかしら」
「だいたい30分もあれば。メイドさんたちに手伝ってもらいながらであれば、もっと早く済むかもしれません」
「ならそうしてもらいましょう。片付けが終わったら、エントランスで落ち合いましょ。場所はわかるわよね。名前はなんて言ったかしら、あの大っきな樹木の……」
「系統樹ですね」
「そうそう。そこの前で落ち合いましょう」
一軒家の中で落ち合うというのも、おかしな話だ。
だがこの屋敷はそれだけの広さがあるし、あの彫刻の目立ちようは絶好の目印になるだろう。
「お先に失礼しますね」
立ち上がり、サチエ夫人に頭を下げる。彼女は軽く手をあげて、コーヒーに口をつけた。
「やっぱり美味しいわ」
サチエ夫人の言葉に、コーヒーの香りが混ざっていた。
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