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「嫌われてるのよ。私」


 サチエ夫人は食堂に入ってくるなり、私の横の席について、頬杖をついた。

 悪態というほどでもないが、昨日の上品さはどこか影を潜めていた。

 これが本来のサチエ夫人なのだろうか。


「嫌われてるというと、タカギさんにですか」


「ここの家の人間全員によ。タカギやメイドたちも含めてね」


 サチエ夫人はちらと、壁に控えたメイドたちを見た。

 彼女たちはサチエ夫人の視線に気づくと、そっぽを向き、なるべく視線を合わせないように心がけた。

 そしてサチエ夫人が視線をそらすと、視線を見合わせひそひそとやりとりしていた。

 その転身ぶりは、私の目は滑稽に映った。

 できの悪いコメディ作品のような、あからさまな拒否と嫌がらせ。

 が、彼女らにとっては特段気にするものではないらしい。

 私の視線に気づいても、彼女たちの目と口は動き続けていたのだから。


「どうして嫌われてるんです」


「なんでかしらね。あの人の目を盗んで、男と逢瀬を交わしているから。それとも、この家の空気に染まりきらない私の姿が悪いのかしら。ねえ、どうしてだと思う」


 サチエ夫人は試すような視線を、私に向けてくる。

 私に聞かれても困る。

 他人の家の内情に詳しいほど、私は覗き趣味を嗜んでいるわけではないのだから。


 私はその通りのことを、サチエ夫人に伝えた。

 サチエ夫人も、悪い顔はしなかった。

 ただつまらなそうに、ため息をついて背もたれにもたれただけだ。


「色々とあったから、仕方ないのよ」


「色々、というのは」


 サチエ夫人は目をつむり、口を閉じた。

 眉間には彼女には似合わないシワが、くっきりと浮かぶ。

 話したくないことは、その態度だけで十分わかった。


「すみません、不躾でしたね」


「いいの。気にしてないわ」


 サチエ夫人は目を開くと、私の方を見て微かに笑った。

 私の気を少しだけ害したことへの、心ばかりの謝罪だろう。

 もっとも、彼女の声の響きには無機質に聞こえたが。


「人には誰でも、他人にいえないことの一つや二つはあるわ。でも、ずっと言えないでもない。もしかしたら、私の気が向いたら話すかもね」


 サチエ夫人は肩をすくめて、鼻でため息をついた。

 それはきっとだいぶ先になるだろうし、今すぐというわけでもないだろう。

 それなりに私とサチエ夫人が親しくなり、その後に話すかどうかの判断をするはずだ。

 もっとも、私がサチエ夫人と親しくなった姿を想像できはしなかったけど。


 ドアが開かれ、タカギが戻ってきた。

 その手にはコーヒーカップをのせたトレーを持っている。

 キビキビと歩いてくると、彼はサチエ夫人の横に立つ。


「失礼いたします」


 頭を下げると、タカギは受け皿に乗ったカップを、サチエ夫人の前に置いた。


「ありがとう。あとは勝手にやるから。下がっていてくれて構わないわ」


「かしこまりました」


 タカギはまたも頭を下げると、すぐさま踵を返した。

 メイドたちに視線を配ると、彼女たちもまた私たちに頭を下げる。

 スタスタと出入り口に向かっていくと、室内にいる私たちに頭を下げてから、部屋を出ていく。

 最後にタカギが頭を下げ、ドアを締めつつ出て行った。


「相変わらず、コーヒーを淹れるのが上手ね」


 コーヒーに一口含むと、サチエ夫人は感心するように言った。


「今日は、貴女はどうするの?」


 受け皿にカップを置くと、サチエ夫人の目が私に向いた。


「道具を次の部屋に運び入れようかと。クドウ氏はいませんが、次の絵の準備だけでもした方がいいかと思って」


「そう。それが終わったら、予定はあるかしら」


「そうですね……」


 外出するという手もあるが、私は生粋の出不精という自負がある。

 外出することはあまり好きじゃないし、依頼でなければ、出かけるという面倒な手段はとらない。

 仮に出かけたとしても、この近辺にこの屋敷以上に目新しいものがあるとも思えなかった。


「部屋に戻って、一日中ごろごろしていようかと思います」


「それはもったいないわよ」


 言いながら、サチエ夫人は頬杖をついた。

 ニヤついたその顔には、いたずら心が見え隠れしている。

 何かを企んでいるに違いない。嫌な予感を覚えていると、サチエ夫人の口が動いた。


「よかったら、私が屋敷を案内してあげようか」


 意外な提案だった。

 私のわがままに付き合えだの。私の命令を聞けだの。

 そういう召使い扱いされるような何かを、吹っかけられるのかと思っていた。

 サチエ夫人への偏見が、私に妙な印象を与えているからかもしれない。

 頭ごなしに何かを命令する。そんな傍若無人な態度が、彼女には似合うような気がしたのだ。


 少し肩透かしを食らった気分になりながら、私はサチエ夫人を見た。


「それはありがたいですが。その、よろしいんですか。そんなお手間をとらせてしまって」


「いいのよ。どうせ屋敷にいてもやることなくて、暇なだけだしね。……道具は、どれくらいで片付くかしら」


「だいたい30分もあれば。メイドさんたちに手伝ってもらいながらであれば、もっと早く済むかもしれません」


「ならそうしてもらいましょう。片付けが終わったら、エントランスで落ち合いましょ。場所はわかるわよね。名前はなんて言ったかしら、あの大っきな樹木の……」


「系統樹ですね」


「そうそう。そこの前で落ち合いましょう」


 一軒家の中で落ち合うというのも、おかしな話だ。

 だがこの屋敷はそれだけの広さがあるし、あの彫刻の目立ちようは絶好の目印になるだろう。


「お先に失礼しますね」


 立ち上がり、サチエ夫人に頭を下げる。彼女は軽く手をあげて、コーヒーに口をつけた。


「やっぱり美味しいわ」


 サチエ夫人の言葉に、コーヒーの香りが混ざっていた。

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