3

 それから私は黙々と箸を動かした。

 吐き気や気持ち悪さも何処へやら。

 うどんの温もりが、消えかけていた食欲に拍車をかけてくる。


「食べながらでいいから、話を聞いてくれ」


 クドウ氏は優雅に紅茶を飲みながら言う。

 うどんを咀嚼しながら、私はうなずいた。

 噛み砕いたうどんを蓮華ですくい取った汁で流し込む。

 

 話というのは、おそらく2枚目の遺影についてだろう。

 もしくは、私の考える自分の死についての考察か。

 どちらが先に彼の口から飛び出すだろう。

 考えながら、うどんをすすり、噛み切った。


「2枚目の遺影についてなんだが。今度は違う部屋で描こうと思ってる」


「場所を変えるということですか」


 クドウ氏はうなずいた。

 となれば、道具を移動させなくては。

 絵具やバケツはカバンにしまい、イーゼルも袋の中に入れてある。

 いつでも運び出せるようにはしてあるが、どちらもあの部屋に置きっぱなしだった。

 あとで取りに行かなくちゃ。そう思いながらも、うどんをすする手は止めない。


「会場はどこになるんです」


「もう決めてあるし、その用意も使用人たちに手伝ってもらっている。だけど、君に見せるのは明日になるだろうね」


「準備のためですか」


「それもあるが、今日は僕も休むつもりだからね。ここのところを座りっぱなしで、体がこって仕方がなかったんだ」


 わざとらしくため息をつきながら、クドウ氏は肩を回した。

 慣れないモデルのせいで、変に筋肉がはってしまったのかもしれない。

 そういうことのなら、私に異論はなかった。

 期間は決まっているとはいえ、まだ焦るようなことでもないのだ。


「では、今日は作業はなしということで」


「そうなるな。午後からマッサージに出る予定なんだ。君もどうだい」


「お誘いはありがたいですが、今日は大人しくこちらでゆっくりさせていただきます」


「そうか。屋敷を見て回りたくなったら、タカギかメイドにでも声をかけてくれればいい。案内役としては、充分に働いてくれるだろうから」


「旦那様、そろそろ」


 タカギがクドウ氏の耳に口を近づけ、そっと言葉をかけた。


「予約の時間があるんだ。それじゃ、また夕飯の時にでも」


 クドウ氏はそう言って立ち上がると、タカギを伴って歩いていく。

 タカギはクドウ氏の先を生き、ドアに手をかけ待機する。

 そしてクドウ氏がやってくると、タカギは頭を下げながらドアを開いた。

 だが、ここでタカギの表情が曇った。

 自分の力とは別に、誰かがドアが押されている。

 タカギは訝しげにしながらも、力に任せてドアを開いた。


「あっ……」


 私は思わず声を上げてしまった。

 ドアの向こうにサチエ夫人が立っていた。

 同じ屋根の下で夫妻が出会す。普通はそんなに変わったことじゃない。

 だけど、この夫妻は別だ。緊張がタカギとメイドたちの間に流れるのが、手に取るようにわかった。


「おはよう」


「おはようございます」


 クドウ氏は笑みの仮面をその顔につけ、サチエ夫人は気まずげに彼の顔を覗いた。


「タカギ、彼女にも昼食を用意してくれ」


「いいわよ。別にお腹は空いてないもの」


「だったら飲み物を。コーヒーでよかったね」


「ええ、まあ」


「かしこまりました」


 薄氷の上をおっかなびっくり歩くような。

 お互いに相手の気分を損なわないように、細心の注意を払っているかのような会話だ。

 初対面同士がやるような、気の使いよう。結婚して同じ屋根の下で暮らした妻の会話には聞こえなかった。


「では、僕はこれで失礼するよ」


「おでかけですか?」


「ああ。少しね」


「そうですか。いってらっしゃい」


 サチエ夫人は道を譲ると、クドウ氏は軽く頭を下げ、彼女の前を通って廊下に出た。


「見送りはここまででいい。タカギ、彼女にコーヒーを」


「かしこまりました」


 タカギの声に不満が混じったのは、たぶん気のせいではないだろう。


 ふいに、クドウ氏が私に顔をむけた。

 恥ずかしいものを見せてしまった。そういうように、彼の表情は曇り、申し訳なさそうに会釈をしてくる。

 私も思わず会釈を返したが、クドウ氏はそれを見ることなく食堂を出た。


 クドウ氏の後に続いて、タカギも廊下に出る。

 それから廊下の先に消えていくクドウ氏に向けて、タカギは深々と頭を下げた。

 結局、彼は私の前で、サチエ夫人を妻と呼ぶことはなかった。

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