13
さすがに調理場の流しに、バケツの汚水を捨てるのは気が引けた。
絵具は色こそ鮮やかだが、毒には違いない。そんなものがごった煮になった汚水を、大切な食材が並ぶ場所に捨てるのは、あまりほめられた行為ではないだろう。
その点トイレや洗面所の流しの方が、調理場に比べれば最適だろう。
が、よそ者である私が手前勝手に汚すのも失礼な気がした。
それに万が一、汚れがこびりついて、せっかくの清潔を台無しにすると考えると、進んで捨てに行くことははばかられた。
導き出された最適な場所は、駐車場の傍にある水道だ。
おそらく、車の洗車と花壇の水まきのために用意されたものだと思う。
近くにはホースリールとブラシの入ったバケツ、すぐ近くの軒下には車の洗剤が入った棚が置いてあった。
タカギにも一応、確認はとってある。
中の流しを使っても構わないと提案されたが、丁重に断った。
玄関を出て駐車場を横切る。水
道はすぐに見つかった。
銀色の蛇口から、膨らんだ水滴がポツポツと、鉄格子の間に落ちていく。
格子の下には蛇口をひねれば、問題なく水が流れた。
水を流しながら、バケツの水を格子の中へ流していく。
流し終えたら、何度かバケツをすすぎつつ、スポンジを使って洗っていく。
スポンジはタカギに許諾を得る際に、どうせならと彼に渡されたものだ。
洗い終わったバケツをひっくり返し、水気を取る。汚れは綺麗に落ちていた。
両手を洗い、ハンカチで拭く。濡れたバケツを持って、玄関へ引き返そうとした時、坂道を上る車の気がついた。
あの赤い、MINIだった。
その車は以前のように玄関前に横付けされて止まった。
降りてきたのは、ウシオダではなかった。
唾の広い帽子を被った女性、クドウ・サチエ夫人だった。
毛皮のコートに赤いドレス姿の彼女は、私に気づくことなく玄関を抜けて、屋敷に入って行った。
MINIの車はサチエ夫人を見送ると、エンジンを唸らせ坂を降りて行った。
運転していたのはウシオダだった。
彼の横顔が、坂の下に消えていく。私は彼と車を見送り、恐る恐る玄関へと向かった。
「おかえりなさいませ、奥様」
玄関の前にくると、タカギの声が聞こえてきた。
私は玄関の前に立ち止まり、耳を済ませた。
「ただいま、タカギ」
その低い声は上品さに満ちていた。
「ミツハルさんは、お仕事かしら」
「ええ。つい先ほど、お出かけになりまして」
「そう」
その声はあまり残念そうに聞こえなかった。
まるで最初からわかっていたかのように、気の無い返事だった。
「お食事はいかがいたしましょう」
「いいわ。今日は疲れているから、部屋で休みます。起こしに来なくていいからね。何か必要になれば、私の方から声をかけるから」
「かしこまりました」
ヒールのこもった足音が遠のいた。
私はドアノブを握った。そっと押し開くと、困った顔のタカギと出会した。
「ああ、先生」
表情を取り繕うには、あまりに遅かった。
タカギは笑みの仮面を付け遅れ、観念するように苦笑を浮かべた。
「今のは、クドウ夫人ですか」
「そうですよ。帰ってくるのも、久方ぶりですね」
「こちらに住んでいるわけじゃないんですか」
「最近はウシオダ様のご自宅にて、生活をされておられます。そして今日のように、時々こちらに顔を出すのです。最低限の義務を果たしているのでしょう」
「義務?」
「家族としての義務です。……それでは、私はこれで失礼いたします」
タカギは私に頭を下げ、廊下を進んでいった。
家族としての義務。
それが一体何なのか彼が詳しく語ることはなかった。
たぶん、これからもないかもしれない。
だが、その義務化した家族という現象に、クドウ家の厄介ごとが詰め込まれているような気がした。
廊下を進み、会場まで戻ってくる。
部屋に入ろうとすると、中から人の気配を感じた。
恐る恐るドアノブを握り、静かにドアを開いた。
わずかに作った隙間から中を覗くと、赤いドレス姿の背中が見えた。
サチエ夫人だった。
彼女はクドウ氏の絵の前に立ち、じっと見ているようだった。
どうするべきか迷った。挨拶をするべきか。邪魔をしないほうがいいか。
もちろん、私は後者を選んだ。
サチエ夫人の背中からは、不可侵のオーラが滲み出ている。
下手に邪魔をすれば、何を言われるか、あるいはされるか。分かったものではない。
足音を忍ばせて、私はドアの前から離れようとした。
「誰かそこにいるの」
まるで背中に目でもあるかのようだった。
鋭いサチエ夫人の指摘に、私の体は重りのように固まった。
部屋の中からヒールの音が近寄ってくる。
ドアが開かれ、サチエ夫人が私の前に現れる。
私は思わず息を飲んだ。綺麗な人だった。
サングラスの下に隠された緑色の瞳。色白の肌。面長の顔。結った黒髪は艶やかで美しい。
「もしかして、遺影画家の先生?」
彼女は私の顔を知っているようだった。
「ええ、そうです」
どぎまぎしながら答えると、ルージュの唇が緩み、サチエ夫人は微笑を浮かべた。
「少し、お時間いいかしら」
「ええ。大丈夫です」
「そう。どうぞ、入って」
彼女の白い手が伸びて、ドアを抑えた。
体を横にそらすと、もう一方の手で部屋の中を指す。
まるで部屋の家主のような態度だ。
サチエ夫人はクドウ家の人間だ。その態度はいわば当然のもの。
しかしクドウ氏との時間が長かったせいか。彼女の態度がどこか奇妙なもののように思えた。
私は頭を下げて部屋に入る。サチエ夫人はドアをしめて、私の後を追ってくる。
「貴女が描いたのよね」
クドウ氏の絵のことだ。
「ええ、まあ」
「よく描けてる。さすが、あの人が見込んだだけのことはあるわ」
キャンバスの前の席には、温もりが残っていた。
サチエ夫人の温もりだ。手のひらで座面を撫でると、サチエ夫人の形にわずかに凹んでいた。
サチエ夫人は私の隣にたった。
横目に彼女を見た。彼女は絵を見つめていた。優しくも、どこか物悲しげな視線で。
私の視線に気がつくと、サチエ夫人はにこやかに微笑んだ。そこに先ほどのような視線はなかった。
「私の手紙は、読んでくれた?」
「はい」
「そう。よかった」
彼女は私の対面の、クドウ氏が座っていたソファに腰を下ろした。
足を組むと、ドレスの裾から綺麗な足が現れた。
生々しく、そして蠱惑的。光に集まる虫のように。多くの男性の視線を集まってきたのだろう。
「あの人、へんな人でしょ」
「クドウさんの、ことですか」
「主人以外に、誰がいるの」
口元を手の甲で隠し、サチエ夫人は笑った。
そして、言葉が途切れた。気まずかった。
いっそこの部屋を出ていこうかと、思ってしまうほどに。
だが、それはできなかった。代わりに私は言葉を生み、彼女に話をした。
「あの、聞いてもいいでしょうか」
「手紙の事、かしら」
サチエ夫人は言った。まるで最初から心得ていたかの様だった。
「ええ。そうです」
動揺を殺しながら、私は返事をした。
するとサチエ夫人はため息をついて、私をみた。
「難しい理由はないわ。ただ、貴女にお礼を言いたかったの。あの人のわがままに付き合ってくれる人は、そういないから」
「わがまま、ですか」
「自殺なんて、わがまま以外の何者でもないでしょう」
彼女は窓の外を見ながら、吐き捨てるように言った。
クドウ氏の絵に向けた視線とは程遠い、忌々しげな視線だった。
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