10
翌日。
私が会場の部屋で準備をしているとドアが開かれた。
入ってきたのはクドウ氏だ。傍にはタカギが控えている。
「おはようございます」
「おはよう。ゆっくり休めたかい」
クドウ氏が部屋に入ると、タカギが一礼しドアを閉めた。
「ええ。おかげさまで。クドウさんはどうですか。疲れなどは残っていませんか」
「いいや、ゆっくりと休んだから大丈夫だ」
「では、作業を進めても」
「もちろん。だが、その前に進捗状況を確かめさせてもらっていいか」
「ええ。どうぞ」
私は椅子から立ち上がり、彼に特等席を用意した。
「ありがとう」
クドウ氏は会釈をして、温もりが残る椅子に腰を下ろした。
彼の目に前にはキャンバスが。
そこには未完成のクドウ氏が描かれている。
だが、まだ彼の存在は現れていない。
散らばった部屋の配色の上に、クドウ氏の輪郭がぼんやりと現れているだけだ。
クドウ氏はその未完成の絵を、じっと眺めていた。
足を組み、アゴを撫で、有名な作品を愛でるように。
身に余る光栄、そして多少の恥ずかしさを感じながら、私はクドウ氏の言葉を待った。
「まだ途中のようだね」
「ええ。本格的にクドウさんを描くのは、これからになります」
「完成予想は、昨日の下書きのようになるのか」
「下書き通りでいいのなら。注文や要望があれば、てきぎ言ってください。その都度、改良を加えて行きますので」
「なるほど」
クドウ氏はアゴを撫でていた手を下ろし、キャンバスに伸ばす。
自分の体から顔をなぞるように動かす。
触れてはいない。キャンバスに触れるほんの少し手前で、彼の指は虚空を撫でていた。
「では、続きを始めようか」
クドウ氏は立ち上がると、私を励ますように、ポンと肩を叩いた。
それからまた1時間ほど、私は遺影制作に没頭した。
クドウ氏の輪郭に合わせ、筆を変えながら、肉を付け加えていく。
色を加えていくと、クドウ氏の顔はより人間らしくなっていく。
彼という個人が個人となり、キャンバスの中にその存在を、確固たるものにしていく。
クドウ氏はその間、私の顔をじっと眺めていた。
いや、観察していたと言った方が、正しいかもしれない。
私が筆を動かすたびに、彼の顔を見るたびに。
クドウ氏は興味深そうに、私の動きを見て、わずかにだが頬を緩めた。
そしてまた、休憩になった。
壁掛け時計の針が時を刻み、鐘の音が10時の音を奏でた。
「休憩にしようか」
クドウ氏は言うと、背筋を伸ばしながら立ち上がった。
平気とは言っていたが、流石に疲れは溜まっているようだ。
彼の身体からは、疲労を訴えるように、コリコリと音をたてた。
「昨日は母が迷惑をかけたらしいな」
首を回しながら、クドウ氏は言った。
「ご存知だったんですか」
「ああ、タカギから聞いたんだ」
「タカギさんが?」
彼なら、クドウ氏の耳に入れるのは造作もないだろう。
何せ、タカギもあの場にいて、私と同じ距離でヨシノさんの懇願を聞いていたのだから。
だが、どうして報告をしてしまったのだろう。
彼女の懇願は、クドウ氏の耳に入れるべきではないもののはずなのに。
「タカギには前もって言っておいたんだ。もし母が、先生を使って私の自殺を止めようとしたら、私に報告するようにとね」
クドウ氏は首を左右に傾けながら、私を見下ろしつつ言った。
まるで私の頭の中を覗いたかのように。
私の疑問に的確に答えて見せた。
「以前にも他人を巻き込んで、私の自殺を止めようとしたことがあったんだ。学生時代の教師。友人。親戚。カウンセラー。性別も職業も違う人間が、ひっきりなしにやってきた」
体をほぐし終わると、クドウ氏はまた椅子に深く腰を下ろした。
「自殺なんて馬鹿な真似をやめろ。君には輝かしい未来があるんだから。その人その人で使う言葉は違っていたが、内容は同じだ。皆、私の命を心配し、私の未来を思ってくれる」
「でも、貴方の意思を変えることは出来なかった」
クドウ氏はわずかに頬を歪め、誇るでもなくうなずいた。
「彼らの思う未来と、私の見ている未来との間には溝があったんだ。言葉や行動だけでは埋めようのない、深い溝がね。これまでにも互いに理解に努めようとはした。が、結局は橋がかけられることはなかった」
「未来、ですか」
「ああ、未来だ」
達観と諦め。
まるで同情するような視線を向け、クドウ氏は詳しくは語ろうとはしなかった。
「だが、母はまだ諦めていない。まだ、私が生きる道があると思っている。だから、君にもその役回りを与えたのだろう。自殺阻止という、重要な役を」
「迷惑に思ってらっしゃるんですか。お母様の心配を」
「いいや。そんなことはない。母は子を思う親としての、当然の権利を果たしているに過ぎない。近頃の報道を聞いていると、よく出来た母だと思うよ。彼女は」
肘を両膝に乗せ、クドウ氏は前のめりになって、私を見つめる。
「ヨシノさんはいい母親だよ。慎み深く、愛人の子供である私を愛情深く育ててくれた。血こそ通っていないが、彼女は私を息子だと思っている。だからこそ、私の自殺を止めたいと望んでいる」
「なら、やめてあげたらいいんじゃないですか。ヨシノさんのために」
「そうしてあげたいところだが、もう決めてしまったからな。今更曲げることは出来ない」
「頑固なんですね」
「よく言われるよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます