9
「あいにくですが、奥様……」
ようやく断る決心がついた。
できるだけ丁寧さを心がけて、私はヨシノさんを見た。
だが、私の言葉の途中で、ヨシノさんがそれを遮った。
「勝手なことを言っていることはわかっています。ですが、私の言葉もサチエさんの言葉も、あの子には通じないのです」
「だとしても、私にどうにかできるものではないですよ。カウンセラーでもありませんし、何より私はミツハルさんとは赤の他人で、昨日今日に出会ったばかりなんですよ。そんな女の言葉で、ミツハルさんが自殺を思いとどまるとは思いません」
「他に頼れる人がいないのです」
ヨシノさんは私の手をとった。
細く、繊細な、白い手。
炊事洗濯、家事の全てを他人にやらせている賜物か。綺麗な手だった。
「やっていただけませんか」
彼女の両手がしっかりと私の手を包み込む。
「お願いです」
憂いの目は切望の目に変わる。
「いや、あの……」
どうやら彼女は私が「うん」と言うまで、解放する気はないようだった。
タカギやもう1人の執事に助けを求めてみるが、生憎、彼らからの助け舟は出なかった。
タカギは微笑を、もう1人の執事は苦笑の仮面をつけ、私を生暖かい視線で見守っている。
沈黙と観察によって、彼らは暗黙のうちに、ヨシノさんを手助けしているのだ。
「は、はは……」
やむなく苦笑が漏れた。
私はこのヨシノさんとタカギにはめられたのだ。
彼女の意図する自殺の阻止、その手駒として私を利用するために。
だが、理解するまでに時間がかかり過ぎた。
彼女の手を振り解いて、立ち去るほどの胆力があればよかった。
だがに、私にはそれは備わっていなかった。
「……やってはみますけど、あまり期待はしないでくださいね」
「ああ、ありがとう」
ヨシノさんの張り詰めた顔が、ぱっと緩んだ。
私の手は解放され、離れた彼女の両手は私の肩に回された。
彼女は身を乗り出して、私を抱きしめた。
柔らかな黒髪からは、石鹸のいい香りがした。
あっ、この石鹸。高いやつだ。
関係のない感想が、ポンと頭の中に浮かんできた。
「くれぐれも、あの子には内密にお願いしますね」
ヨシノさんの言葉と体温が、石鹸の香りと一緒に、私の体の中に染み込んでいった。
夕食時になっても、クドウ氏は帰宅することはなかった。
仕事の都合で帰りが遅くなる。私に構わず夕食を取ってくれて構わない。先生にはよろしく言っておいてくれ。
夕食の席についた時、タカギからそう伝言があった。
一国一城の主人ともなれば、忙しさは絶えず付き纏うのかもしれない。
私が了解の言葉を伝えると、タカギは少し安堵した様子を見せた。
「もしかすれば、ご気分を害されるのではと、心配しておりましたから」
タカギは肩をすくめ、苦笑紛れに言った。
食堂似て夕食を取り終えて、部屋に戻る。
ベッドに横になったはいいものの、寝付くことができなかった。
依頼された遺影の構図。
それに加えて、自殺を止めるという余計な荷物まで増えた。
悩みの種は尽きることなく、目ばかりが冴えてしまう。
今日は眠れそうにない。
諦めた私はベッドから体を起こして、椅子に座る。
部屋に置いてあったメモ帳。ボールペンを手に取る。
真新しい紙面に、ペン先をあてがい、走らせた。
みるみると現れたのは、クドウ・ヨシノさんの顔だ。
夕陽に焼けた庭。
その一角のベンチに座る彼女を、さらさらと描いていく。
記憶の中の彼女は、完璧な彼女の姿ではない。
私の印象によって脚色された、彼女らしき何かである。
でも、本人に見せるわけではないし、細かなところはどうでもいい。
この絵に関しては完璧さより、気持ちの整理の整理が目的だからだ。
着物の柄。
艶やかな黒髪。
影になった彼女の顔には、切羽詰まった様子が込められる。
彼女の手は、まるで縋り付くように、何かに向けて伸ばされている。
指の先にいるのは、私だ。
彼女はなぜ、私を頼ったのか? 息子の自殺を止めるため。
どうして他人に任せるのか? 彼女では説得することができないから。
身勝手ではないのか? 彼女はそれを承知で、苦渋を飲んで頼んできた。
「本当、勝手な人ね」
彼女だけじゃない。
彼女の周りにいたタカギも、もう1人の使用人も。
そしてクドウ氏も。
この屋敷にいる誰もが、勝手な人間ばかりだ。
私に一体何を望んでいるのだろう。
私はスーパーヒーローじゃないし、なんでもできる漫画の主人公でもない。
依頼を受けたのは、ただ絵が描ける能無しだ。
人の命をどうこうできるほど、長けた何かがあるわけじゃない。
ボールペンをテーブルに転がし、メモ帳を見た。
こちらを見つめる、彼女の目。
ただの絵。ただの落書きだ。
だが記憶のせいで、彼女の声とセリフが、私の頭の中に響いた。
『お願いします。お願いします』
「人の命を、他人に任せないでよ」
ヨシノさんから逃げるように、私はスケッチブックを閉じる。
そしてベッドに戻り、頭からすっぽりと布団を被った。
今度は、すぐに眠ることができた。
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