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タカギに連れられて、昨日ぶりに玄関のドアを潜った。
西に傾いた太陽の、薄いオレンジ色が空に広がっている。
正面には駐車場があり、彼の愛車も私の車も停めてあった。
「昨夜のうちに、こちらにお運びいたしました」
トヨタの青のbB。
型落ちの事故車を通常よりも安く手に入れた。
あれが、私の愛車であり、我が家だ。
中にはコンロや簡易トイレ、寝袋。それに美大時代の資料が積んであった。
「そうですか」
タカギが運転したのか。それとも他の使用人がやったのか。
どちらにせよ、車内を見てきっと驚いたに違いない。
車内の散らかりようと、溢れ出る生活の匂いに。
「どうかされましたか」
「別に。なんでもありません」
「そうですか」
タカギはうなずいて、とめていた足を動かした。
駐車場を横目にしながら、軒下を進んでいく。
足元には砂利がひかれ、すぐ脇には花を植えた鉢植えがいくつも並んでいた。
砂利道を進んでいくと、バラの生垣に囲われた庭園に出た。
円形の噴水が中央にあり、そこから伸びるように序東西南北に石畳の道が伸びている。
道を挟むのは背の低いバラの生垣だ。
今は季節じゃないからか、緑は枯れ果て、枝木が寂しく伸びているだけだった。
北側に伸びる道の先に、白い屋根のテラスがあった。
そこに着物をきた老齢の女性が座っている。
脇には燕尾服を着た青年が控えている。
優雅に紅茶を飲む彼女は、まるで気配を察したかのように、顔を上げてこちらを見た。
日本美人。そんな感じの女性だ。
艶のある黒髪に色白の肌。
フィクションの世界から抜け出してきたかのような、美しくもどこか冷めざめとした印象がある。
物腰柔らかく、彼女は頭を下げた。
それはタカギにではなく、私に対してやったのだと気づいた。
慌てて私も頭を下げると、タカギはそのまま、彼女の元へと歩いて行った。
テラスは石の階段の上にあった。
階段を昇ると、ようやく彼女のいるテラスにたどり着く。
木製のベンチと丸いテーブルが置かれている。
テーブルの上には急須と湯飲みが2つ置かれていた。
1つの湯飲みには、すでに緑茶が入っていて、半分ほど減っている。
「初めまして。ミツハルの母のヨシノです」
ヨシノさんは、恭しく頭を下げた。
帯に添えられた繊細な両手は、ピンと先までの伸びている。
「貴女さまが、ミツハルが雇った画家先生ですね」
彼女はゆっくりと顔を上げて、物憂げな視線を私に向けてきた。
「ええ。そうです」
「うちの愚息が妙なことをお願いして申し訳ありません。驚かれたでしょう」
「まあ、そうですね」
「さぁどうぞ。座ってください」
彼女は自分の対面にあるベンチに、指先を向ける。
私が腰をおろすと、タカギが湯飲みの緑茶を注ぎ入れた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
暖かい湯飲みを手に取り、緑茶を一口含む。
ヨシノさんをそれを見ると、こほんと咳払いを挟み、話を始めた。
「息子には困ったものです。あんな馬鹿げたことを、
「奥様は、ご存知だったんですか。その、息子さんが何をしようとしているのか」
「ええ、知っていますよ。あの子は自殺を図っていることも、貴女に遺影を描かせていることもね」
ヨシノさんはため息をついて、呆れた声で言った。
「意外でしたか」
「ええ。まあ」
自分が自殺をする。
普通ならそういうことは大っぴらにいうものじゃないだろう。
その時まで自分の心の中にしまっておくか。もしくは誰にもみられない場所に、思いを綴っておくか。
どちらにせよ、人目につかない場所にしまっておくはずだ。
だが、クドウ氏をその
少なくとも私の考える普通の範疇には、彼のような自殺を扱う場所はなかった。
「驚かれましたか。その、ミツハルさんの告白を聞いた時には」
「ええ、もちろん。もう3年前も前に初めて聞かされましたが、あの時は貴女と同じように驚きましたし、取り乱しましたよ」
ヨシノさんはこめかみを揉みながら言う。すると彼女の眉間に、似合わない深い谷が浮かび上がる。
「自分に何か問題があるんじゃないか。仕事関係や人間関係で、何か悩んでいるんじゃないか。色々考えに考えて、その都度ミツハルとよく話し合いました。ですが、息子は私の言葉で気が変わることはありませんでした」
「聞く耳を持たなかったとか」
「いいえ、息子はよく聞いてくれましたよ」
眉間に浮かんだシワをほぐすように、ヨシノさんは指で眉間を挟んだ。
彼女が指を動かすたびに、彼女の眉間が伸び縮みをした。
「聞いた上で、彼は実行に踏み切ったんです」
再び彼女の唇から、ため息が漏れた。
見た目は若々しいと思えたが、ほうれい線が口元に浮かんでいる。
それは時の流れを残酷に、まざまざと表しているように見えた。
そして、彼女の苦悩と苦労の証明のようにも思えた。
「仕事の引継ぎ、会社内の人事。遺産相続の手続き、それに伴う混乱の回避。自分が死ぬために残してはならぬ問題を、彼は周到に片付けていたのです。これで私の半分の意見は、彼に説き伏せられました」
「残る半分というのは」
「家族としての感情です。これは、ミツハルにもどうしようもありませんでした。彼も、無理に理解してもらおうとは思っていなかったんでしょうけれど。それにしたって、あまりに短慮が過ぎました。そのせいでサチエさんにも出ていかれてしまう始末でしたし」
眉間のシワは引き延ばせたが、ヨシノさんの疲労感は取れなかった。
それが原因で、サチエはクドウ氏に会おうとしないのだろうか。
これから死ぬという男に。
それも自分から命を立とうとする男に、いつまでも付き合っていられないということか。
薄情と言われればそれまでだが、夫婦と言っても他人同士。
無理をして見送るより、他の男を抱き込んだ方が幸せなこともあるのかもしれない。
「ごめんなさい。ついつい愚痴っぽくなってしまって」
「いえ。大丈夫です」
少し緩くなった緑茶をすする。
西日は夕日へと変わり、空の色は朱色から紫がかった赤に染まっていく。
「貴女をお呼びしたのは、折り行ってお願いしたいことがあったからです」
ようやく本題らしい。
ヨシノさんは姿勢をただし、きりりとした表情で私を見つめた。
「なんでしょう」
「息子の馬鹿な行動を、どうにか止めていただけませんか」
話の流れで、彼女がクドウ氏の行為を認めていないことは、なんとなく察することができた。
だから、ヨシノさんの
が、だからといって、彼女の頼みを聞くかどうかは話が別だ。
これ以上の荷物は、背負いたくなかった。
できることなら断りたい。
しかし、クドウ氏の母親という肩書の前に、なかなか切り出すことができない。
彼女は私の返答を、辛抱強く待っているようだった。
できうることなら、了承の言葉を望んでいるはずだ
沈黙が、次第に私を追い詰めているように感じた。
できうる限り、沈黙を引き伸ばしながら、私はどう答えるべきか。考え続けた。
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